赤色

 

四章(1)

 
 黄ばんだ蛍光灯の明かりの中で、鳶色の外套を着た長身の男の影が揺れる。
 深夜にほど近い時間、古びた安アパートの階段に彼の遠慮のない足音が響き渡っていた。彼が歩くたびに、外套の裏で金属のこすれ合う音もまた同時に鳴る。
 最上階の一室の前で深夜の騒音は立ち止まると、おもむろに郵便受けに手を入れ、中から鍵を取り出した。それを鍵穴に差しこみノブを回して戸を開き、躊躇いもなく彼は部屋に足を踏み入れた。
 住人が不在の室内は、外より寒々しく目に映る。隣接したビルディングの広告ネオンが窓から差し込み、床に伸びたその光の中にいよいよ激しくなってきた降雪の影がちらついている。
 彼は仕切りのカーテンを掻き分けて狭い室内を一通り回り終えると、机から椅子を引き出して腰を下ろした。

 確かめなくても誰もいないことは、入ってきた時から分かっていた。彼は机を挟んで向かい合う空の席を凝視した。そこに座っているべき人物は、いったいどこにいるのだろうか。
 突然、部屋の戸が開かれ、思わず彼は勢いよく立ち上がった。
 今、さっき自分が入ってきたそこから現われたひとりの男が、いぶかしげにこちらを窺っている。室内は暗く、その男の顔がよく見えない。しかし待ち人でないことは明らかだ。
「凪人さん……ですか?」
 男の声を聞き、凪人は椅子に腰を戻すと深々と息を吐いた。
「なんだ。お前か」
「こっちの科白です。鍵が開いていたから……期待してしまいました」
 お互い様だ。
 男は凪人に歩み寄ると、机の上に吊り下がる電燈に手を伸ばした。緋色の灯がとろとろと部屋にわずかな明かりをもたらしていく。光に照らされてあらわになった男の顔を、凪人は眩しさに目を細めながらまじまじと見つめた。
「何しに来たんだ。宗一郎」
「貴方こそ」
 宗一郎は溜め息まじりに笑う。
 赤彦の部屋で本人の不在中に突き合わせた、彼に焦がれる二つの顔。
 どうしようもなく込み上げてくる笑いに肩を揺らしながら、凪人は外套の隠しに手を入れた。
「滑稽ですね」
「ああ」
「この間のところ、見せて下さい」
 言われて取り出したシガレットケースを机に置き、凪人は素直に上半身をさらけ出した。

「包帯の巻き方がなっていません」
「余計な世話だ」
 軽く流して凪人が包帯を解くと、宗一郎は傷を縫い合わせた痕を慎重に指でなぞり、痛みの具合を聞いてくる。
 傷のほどに相応しくない治癒速度に彼は驚きもせず、もう慣れたと言わんばかりの涼しい顔をしていた。しかし一々怯えられるよりは気が楽だ。
「大分いいみたいですけど、熱を持っていますね。しばらく激しい動きは控えて下さいよ」
「聞くとでも思っているのか?」
「いえ、まったく」
 完治した手は、銃やナイフを握ってもまったく違和感がない。しかし胸の傷は思いのほか治りが遅かった。普段は大したことはないが、狩りの最中に確かにひどく疼く。それでも『鬼狩り』をやめるわけにはいかない。
「動かないと体がなまる。奴を殺るには……」
 凪人が宙を睨んで漏らした呟きに、包帯を巻き直していた宗一郎の手が止まる。闘志のぎらつきはじめた凪人の瞳をしばらく見つめてから、彼は視線を落として包帯の結び目を作った。
「今度は、いつ?」
「……さあな」

 焦りと苛立ちを覚えずにはいられない。赤彦を救い出したいという切な願いを嘲笑うかのように、垂氷はこのまま姿を現わさないつもりなのだろうか。
 凪人は服を着て立ち上がると、窓辺の鏡の前に立った。
 鏡は主人の姿を映さず、凪人を映し出す。自分の像に触れて、そこにあった冷たく硬い硝子の感触に胸が痛んだ。ここで赤彦は自らを慰めていた。
(確かに、寂しかったのかもしれねえな)
 ある意味異常な光景ではあった。
 瞳が見つめるそこにもう一人の自分がいると信じて疑わず、手は幻を求めて鏡を探る。唇を押し当てた時に無機質な温度に気がつき、赤彦は顔を悲痛に歪めていた。
普段、自分の容姿に無頓着な彼が、ナルシシズムを抱いてそうしているわけではないことは確か。だとしたら、やはり寂しさを紛らわしていたのかもしれない。
(お前は、俺に何かを期待していたのか?)
 からかうように肌に触れても、拒むことなく受け入れていた。

「赤彦は、俺を……」
 その時だけ彼の瞳は現実に戻り、鏡越しに凪人の顔を見つめてきた。切なげに眉を寄せまるで口付けを待つように、抱擁を待つように。それを恋に焦がれる男の眼差しと取るのは、やはり都合のいい解釈なのか。
「……自惚れないで下さい。彼は誰にでも優しい」
 背後で宗一郎が小声でたしなめる。
「そうだな」
 窓枠の左右に手をついて、凪人は外を眺めた。
 今冬、最後の雪が降る。
(狩りに行く、つもりだったんだけどな……)
 今はもう少しここにいたかった。


◆         ◆         ◆         ◆

 垂氷は椅子に腰かけ、喉を反らして天井を仰いでいた。組んだ脚に両手を重ねて置き、暗闇の中で微動だにしない。
 赤彦のいる寝室ではない部屋に、足を踏み入れたのは久しぶりだ。彼をこの屋敷に迎え入れてから、側を離れることはなかった。垂氷は深い溜め息を宙に吐き出し、ゆるりと脚を組み直した。
 『飢え』ていた。
 今、赤彦の側にいるわけにはいかない。
 昨夜、赤彦に行かないで欲しいと哀願され食事を怠った上に、中途半端に口にした彼の血の味が更なる『飢え』を垂氷にもたらしていた。愛する人の血の味は、目眩がするほど極上だった。昏睡している赤彦の首筋に、ふたたび食らいつかないという自信がない。
 しかしいつかは『飢え』を満たしに行かなくてはならないのだと解っていても、この屋敷からなかなか離れられなかった。掴みかけていたものが物凄い勢いで手からすり抜けていくようで。
 時はすでに満ちたと感じていた。赤彦に拒まれる事態など、想定もしていなかった。
 焦りすぎたのだろうか。
(違う……違う。六條が邪魔をした)

 彼が拒ませた。赤彦の心には垂氷の存在が確かに浸透しているにも関わらず、受け入れられなかったのは背徳への恐怖よりも、凪人への想いのため。
 この数日間、幸せだった。すべてのしがらみを忘れた赤彦は、ことあるごとに自ら垂氷の背に腕を回し、頬を胸にすり寄せてきた。口付けをすれば恥じらいながらも、もっとして欲しいと目でねだる。屈託なく笑い、無邪気に月光が綺麗だと言った。
 もう一度、あの笑顔を自分のものにするにはどうすればいいのだろうか。
 垂氷は眉を寄せた。
「独りか。珍しい事もあるものだ」
 そして部屋に忍び込んできた忌々しい気配に声を投げる。

 それは垂氷の言葉を聞くや否や勢いを見せた。次の瞬間、反らした喉の直前で暗闇から突き出された、黄ばんだ長い爪がぴたりと止まる。
「しばらく、この部屋から動かないでいただきたい」
 老鬼のしゃがれた声が言う。
「そんなもので、この私を足留めできると思っているのですか?」
 垂氷は天井を仰いだまま、口の端を吊り上げて笑った。
「否。貴方にはこちらの方が効果的。何ゆえ、己がここに独りで現われたのか。他の二者はどこにいるのか」
 刹那、垂氷は突きつけられていた老鬼の腕を掴み、腰を浮かせながらひねり上げ、彼の顔面にもう一方の手を伸ばした。
「動かない方が得策! あやつの首が飛ぶっ!」
 老鬼の叫びに、垂氷は瞬時に動きを止める。腕をひねられたままの奇妙な形で立つ老鬼は、痛みにシワだらけの顔を引き攣らせた。
「己を殺すよりも早く」
「貴様等、赤彦をっ」
 軽率だった。

 赤彦を独りで寝室に残しておくなど、常軌を逸している。老鬼達が赤彦の存在を快く思っていないことは、十二分に承知していたはずだ。
「貴方に血を吸われ、いまだに意識を失ったまま。いくら『神父』といえども……赤子の首を折るよりも簡単なこと」
 分は老鬼にある。苦痛にひび割れた唇を震わせながらも、彼は言葉をやめない。
「困るのです。人ごときに血を分け与えられては。特にあやつは『鬼狩り』の意志を持つ者。我々と同じ力を持てば、更なる脅威となる」
「黙れ」
 垂氷は胸ほどの背丈しかない彼を、冷ややかに見下ろした。
 なぜ誰もが邪魔をするのか。ただ赤彦とともに生きたいだけなのに。
「大人しくされていれば、あやつに危害は加えません……今は」
 選択の余地はない。
 垂氷は掴んでいた老鬼の腕を横に払い、彼を床に倒して解放した。うずくまる老鬼の背から、くつくつと吐き気がするような笑い声が聞こえてくる。顔を上げ、垂氷に向けた彼のその表情は通常より醜く歪み、口を開ければ穴だらけの歯の中で鋭く尖った犬歯だけが異様に光る。
「可笑しい! どうしてこれが笑わずにいられよう。貴方ほどの力を持つお方が、何ゆえそこまで人に惹かれる!」
 力など欲しければ、いくらでもくれてやる。

(貴方達には、分からない)
 『飢え』を満たすために生き血を啜るだけでは飽き足らず、人の恐怖に引き攣る顔と悲鳴を好み、無意味な殺戮を行う老鬼達には。自らがこの世の生命の支配者だと言わんばかりに、弱者を屈服させることを唯一の楽しみとする彼等には、到底、理解できないこと。
 垂氷は椅子に腰を戻して息を吐くと、怒りを抑えるために目蓋を伏せた。
「何が望みだ」
「まずは『混血児』を葬っていただきたい」
 老鬼は笑うのをやめ、のそりと起き上がると期待に満ちた眼差しを垂氷に向ける。
「ご安心を。舞台は我々が全て整えますゆえ」
 怯える者には容赦なく飛びかかり、危険なことになると、自分達は影に隠れ垂氷の力に縋りつく。昔から変わらない。
「臆病者め」
 

 

 

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