四章(1) ◆ ◆ ◆ ◆ 垂氷は椅子に腰かけ、喉を反らして天井を仰いでいた。組んだ脚に両手を重ねて置き、暗闇の中で微動だにしない。 赤彦のいる寝室ではない部屋に、足を踏み入れたのは久しぶりだ。彼をこの屋敷に迎え入れてから、側を離れることはなかった。垂氷は深い溜め息を宙に吐き出し、ゆるりと脚を組み直した。 『飢え』ていた。 今、赤彦の側にいるわけにはいかない。 昨夜、赤彦に行かないで欲しいと哀願され食事を怠った上に、中途半端に口にした彼の血の味が更なる『飢え』を垂氷にもたらしていた。愛する人の血の味は、目眩がするほど極上だった。昏睡している赤彦の首筋に、ふたたび食らいつかないという自信がない。 しかしいつかは『飢え』を満たしに行かなくてはならないのだと解っていても、この屋敷からなかなか離れられなかった。掴みかけていたものが物凄い勢いで手からすり抜けていくようで。 時はすでに満ちたと感じていた。赤彦に拒まれる事態など、想定もしていなかった。 焦りすぎたのだろうか。 (違う……違う。六條が邪魔をした) 彼が拒ませた。赤彦の心には垂氷の存在が確かに浸透しているにも関わらず、受け入れられなかったのは背徳への恐怖よりも、凪人への想いのため。 この数日間、幸せだった。すべてのしがらみを忘れた赤彦は、ことあるごとに自ら垂氷の背に腕を回し、頬を胸にすり寄せてきた。口付けをすれば恥じらいながらも、もっとして欲しいと目でねだる。屈託なく笑い、無邪気に月光が綺麗だと言った。 もう一度、あの笑顔を自分のものにするにはどうすればいいのだろうか。 垂氷は眉を寄せた。 「独りか。珍しい事もあるものだ」 そして部屋に忍び込んできた忌々しい気配に声を投げる。 それは垂氷の言葉を聞くや否や勢いを見せた。次の瞬間、反らした喉の直前で暗闇から突き出された、黄ばんだ長い爪がぴたりと止まる。 「しばらく、この部屋から動かないでいただきたい」 老鬼のしゃがれた声が言う。 「そんなもので、この私を足留めできると思っているのですか?」 垂氷は天井を仰いだまま、口の端を吊り上げて笑った。 「否。貴方にはこちらの方が効果的。何ゆえ、己がここに独りで現われたのか。他の二者はどこにいるのか」 刹那、垂氷は突きつけられていた老鬼の腕を掴み、腰を浮かせながらひねり上げ、彼の顔面にもう一方の手を伸ばした。 「動かない方が得策! あやつの首が飛ぶっ!」 老鬼の叫びに、垂氷は瞬時に動きを止める。腕をひねられたままの奇妙な形で立つ老鬼は、痛みにシワだらけの顔を引き攣らせた。 「己を殺すよりも早く」 「貴様等、赤彦をっ」 軽率だった。 赤彦を独りで寝室に残しておくなど、常軌を逸している。老鬼達が赤彦の存在を快く思っていないことは、十二分に承知していたはずだ。 「貴方に血を吸われ、いまだに意識を失ったまま。いくら『神父』といえども……赤子の首を折るよりも簡単なこと」 分は老鬼にある。苦痛にひび割れた唇を震わせながらも、彼は言葉をやめない。 「困るのです。人ごときに血を分け与えられては。特にあやつは『鬼狩り』の意志を持つ者。我々と同じ力を持てば、更なる脅威となる」 「黙れ」 垂氷は胸ほどの背丈しかない彼を、冷ややかに見下ろした。 なぜ誰もが邪魔をするのか。ただ赤彦とともに生きたいだけなのに。 「大人しくされていれば、あやつに危害は加えません……今は」 選択の余地はない。 垂氷は掴んでいた老鬼の腕を横に払い、彼を床に倒して解放した。うずくまる老鬼の背から、くつくつと吐き気がするような笑い声が聞こえてくる。顔を上げ、垂氷に向けた彼のその表情は通常より醜く歪み、口を開ければ穴だらけの歯の中で鋭く尖った犬歯だけが異様に光る。 「可笑しい! どうしてこれが笑わずにいられよう。貴方ほどの力を持つお方が、何ゆえそこまで人に惹かれる!」 力など欲しければ、いくらでもくれてやる。 (貴方達には、分からない) 『飢え』を満たすために生き血を啜るだけでは飽き足らず、人の恐怖に引き攣る顔と悲鳴を好み、無意味な殺戮を行う老鬼達には。自らがこの世の生命の支配者だと言わんばかりに、弱者を屈服させることを唯一の楽しみとする彼等には、到底、理解できないこと。 垂氷は椅子に腰を戻して息を吐くと、怒りを抑えるために目蓋を伏せた。 「何が望みだ」 「まずは『混血児』を葬っていただきたい」 老鬼は笑うのをやめ、のそりと起き上がると期待に満ちた眼差しを垂氷に向ける。 「ご安心を。舞台は我々が全て整えますゆえ」 怯える者には容赦なく飛びかかり、危険なことになると、自分達は影に隠れ垂氷の力に縋りつく。昔から変わらない。 「臆病者め」
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