赤色

 

三章(13)

 
「よく眠れましたか?」
 吐息が顔をくすぐる。
「今日は素晴らしい日になる」
 目蓋を開いた赤彦の瞳に映ったのは、垂氷の顔。彼は淡い微笑みを浮かべて赤彦が目覚めるのを待っていた。
 赤彦は垂氷の片腕に乗せていた頭を動かし、辺りを見回した。遮光カーテンの閉じられた寝室は暗闇に覆われている。夢現をさまよう意識は、まだ夜が訪れていないことを認識した。
「はじめて貴方に会った時、私の孤独な心は激しく揺さぶられました」
 垂氷が赤彦の額にかかる髪をかき上げて、そのまま頭を抱えると自分の元へ引き寄せる。彼は上機嫌だった。肩に頬を乗せると、耳に唇をすりつけてくる。

「一目で恋に落ち、いつしか貴方とともに生きていきたいと願うようになったのです。そして今、それが叶った」
 甘い言葉を吹きかけられ、赤彦は吐息を漏らした。これ以上ない愛情に包まれている。昨日よりも、その前よりも。浮遊感に似た心地よさに、ふたたびうつらうつらとしはじめた赤彦の頭を、更に力をこめて垂氷が抱いた。
「私の血を飲んでください」
 こめかみに移動してきた唇が囁く。
「飲めば貴方の鼓動は、打つのをやめる」
 赤彦は顔を上げ、虚ろな瞳で垂氷を見た。
 穏やかでないその言葉。意味を理解できず、首をかしげた赤彦に彼は笑いかけてくる。まるであやすように。
「死ぬわけではありません。生者でもあり、死者でもある。曖昧な境に立った貴方は、そこで永遠の命を得るのです」
 不死。
「この美貌も、永久に褪せることがない」
 そして、不老。そこから導き出される存在はひとつ。
「俺が……」
 鬼に身を堕とす。

 寝ぼけた意識が覚醒していく。同時にのぼせていた熱が、ざわめきながら引いていく。いたたまれず起き上がった赤彦は、まばたきも忘れて垂氷を凝視した。
「確かに、人の生き血を啜って生きることになるが」
 垂氷は天蓋の外にそろえてある自分のブーツからナイフを引き抜くと、その両刃を手首に当てる。
 肌を伝い、シーツにひたりと落ちていく赤い雫。化粧をほどこすようにそれを呆然とする赤彦の唇に指で塗り、彼はうっとりと目を細めた。白い肌に引かれた紅。赤彦の唇は、暗闇の中で艶かしく照り光る。
「赤彦、貴方は赤がよく似合う」
 血臭が鼻をかすめる。赤彦は無意識のうちに後ずさっていた。
「恐れないでください。一昼夜の深い眠りにつくだけです。目覚めた時、貴方はすでに闇を好んでいる」
 垂氷がにじり寄ってくる。逃げようとするが長いガウンが脚にまとわりつき、垂氷が近づく方が早い。
「どんなに時を重ねても、貴方だけを愛し続けると誓います」
 裾を膝で踏み、身動きをとれなくすると、垂氷は赤彦の片腕を掴んで口元に引き寄せる。そしてうやうやしく手の甲に唇を押し当てた。
 手を引こうとするが、放してくれない。
(嫌だ……そんなこと、許されない)
 罪深い。

「口を開けて下さい」
 血の滴る手首を差し出して垂氷が懇願する。
「……駄目だよ」
「昨夜の貴方に偽りはなかった」
 顔を背けた赤彦の頬を手の平で包み、すぐさま彼は自分に向き直させた。
 言われたことは紛れもない事実。それでも本能が闇を拒絶する。分かって欲しい。垂氷を突き放したいわけではないのだと。しかし伝える言葉は見つからない。
 口を噤んでひたすら目を反らすことしかできない赤彦の様子に、自信に満ち溢れていた垂氷の顔が悲痛に歪んでいく。
「私を愛そうとしてくださったのでは……なかったのですか?」
 むき出しの膝に赤く冷たい雫が落ちる。
 赤彦は眉を寄せた。これが垂氷に愛されるということ。彼のもたらす心地よさだけに囚われ、考えもしなかった。
「ごめん」
 消え入るような声が室内に響き、腕を掴む垂氷の手が震える。

 落胆と怒り。彼の静かすぎる眼差しが、突き刺さる。胸が痛い。赤彦はただ白い息を唇から漏らすしかできなかった。
「……謝罪など聞きたくない」
 低い声で呟くと、垂氷は赤彦の頬に触れていた手の平を首筋に降ろしていく。
 次の瞬間、垂氷の瞳に激しい光が走る。
 赤彦の首を捕え、刹那に彼は無防備なそこに勢いよく食らいついた。
「あ……あぁ…………っ」
 赤彦の口から悲鳴がほとばしる。皮膚に突き刺さった垂氷の犬歯は、静脈まで達していた。血が溢れ、彼がそれを啜る。角度を変え、繰り返し噛み傷を吸われるたびに、鋭い痛みと痺れが全身を駆け抜ける。
 舌を傷に差しこまれ、赤彦は喉を反らしてふたたび悲鳴を上げた。びくりと震えた体を抱きすくめられ、あまりの強さに骨が軋む。垂氷の唇の端から漏れた血が、胸を滑って落ちていく。肌は泡立ち、呼吸も苦しい。目をきつく閉じ、赤彦は垂氷の衣服を握りしめた。

 傷を執拗に舐め回した後、垂氷はようやく顔を上げて血に濡れた口元に引きつる笑みを浮かべた。
「貴方の気持ちを尊重したかったのですが」
 長い吸血行為から解放された赤彦の肢体は垂氷の胸の中に力なく崩れ、口は空気を求めてか細い呼吸を繰り返す。
 垂氷は赤彦をそっと横たわらせると、その上にまたがった。
「これ以上、血を失えば貴方は死ぬ。生きるためには私の血を受けざるを得ない」
 震える目蓋を薄く開くと、垂氷と目が合う。
 彼の双眸はぞっとするような血色に染まっていた。
「どう……して……」
 こんなことになったのだろう。
「他に手段がないのです。いつか分かる。私との幸せが」
 垂氷は喘ぐ赤彦の胸を撫でさすり、優しく髪を掴むと今度は緩やかに血を吸いはじめた。
「い……や……」
 抗う声は届かない。
 踵がシーツを蹴り上げた後、四肢は完全に硬直した。爪でひっかいた枕が破れ、羽毛が暗闇を舞う。

 視界は赤色。
 生ぬるい赤い波が、赤彦の体をさらう。
 静かに鳴り響く律動的な鼓動の音が聞こえてくる。
 太陽のない落日の景色。
 瞳孔を貫く鮮やかすぎる色彩。
 上にある果てしなく広がる赤い空と、下にある穏やかな赤の海原の他は何もない。これが、死が見せる光景。まるで胎児に戻ったような感覚だった。このまま時をさかのぼり、無に還るのかもしれない。
 動かない体が、かすかに震えたような気がした。死が怖いのだろうか。
 もしそうなら、誰か強く抱き締めて欲しい。父のように、母のように、恋人のように。
 願いは生物のいない世界に虚しく漂う。

 ずっと独りだったのかもしれない。本当の自分の小ささを知られ、人が自分の元から去っていくのを恐れ、誰にも頼ることが出来ず、ずっと寂しかった。人に胸を貸しながら、本当は自分の方が誰かの胸にもたれ掛かりたかったのに。
 記憶が脳裏を駆け巡る。
 はじめから、終わりまで。不鮮明だったそれは、次第に明確な形を宿していく。赤彦が目を閉じると、体は海に沈みはじめた。そして世界の赤が悲しみに暮れる。目蓋の裏に映るその色は。
(まるで……凪人の瞳のようだ)
 拒絶されたあの日、彼の瞳の深奥は欲望に燃えさかり、確かに赤々とした悲しみに染まっていた。
(そうだよね。君は優しく、悲しい人だ……)
 どうしようもない勘違いをしていたことに、今になって気付かされた。自分のことばかりに必死で、気づく機会を失っていた。
 凪人は『鬼の血』が突き動かす『飢え』から守るために別れを口にしたのに。本当に辛かったのは凪人自身。突き放してしまったのは赤彦の方だった。

 目を開けば赤色の中に、凪人の姿が浮かび上がる。海上に立った彼は、ぬめった液体の中に横たわる赤彦を無表情で見下ろしていた。
(……笑って。俺に)
 いつも彼は憂いを秘めている。だから頼って欲しい、縋りついて欲しい、すべてを包み込ませて欲しい。自分の前だけでは無理をしないで欲しい。
(もっと、しっかりするから)
 もう遅いのだろうか。
 抱き締めたい人。抱き締められたいと、心から望んだ人。
 彼の死に堪えきれず、彼の存在を胸の奥底に封じこめてしまっていた。
「……凪人」
 唇が名前を刻んだその瞬間、目から涙が溢れた。
 止めていた感情が流れ出す。苦しい。彼を失った悲しみは、心の許容量を越えている。
 凪人は自分のせいで死んだと言われた。これは不実な心で垂氷に抱かれ、彼を都合よく利用していた罰。曖昧で弱い心に下った制裁。胸が破裂しそうだ。
「赤彦、飲んでください」
 耳に垂氷の声が掠めた。垂氷は裏切り続けていた赤彦を許し、「愛しています」と救いの言葉を差し向ける。闇と自分の愚かさに目をつむり、彼の胸にもたれ掛かるのはひどく心地よいかもしれない。
(だけど俺は、凪人を愛していたいんだ)
 迷いはなかった。
 いよいよ体が沈んでいく。手を凪人に伸ばしても届かない。体が言うことを聞いてくれなかった。投げ出した四肢は踊るように液体の中でうごめき、ゆるりと下へ落ちていく。
 空が見えなくなり、辿り着いた光の届かない海の底はどす黒い血色をしていた。

 気づけば元の寝室の暗闇に中で、ひたすら垂氷の瞳の深奥を見つめていた。海の底に横たわったはずの体は、彼の両腕に抱えられている。手足の感覚はまったくなく、首から流れる血液のあの赤い波のような生ぬるさだけを感じていた。
 やはりこのまま死ぬのだろうか。
 怖い。一度覚えてしまうといくら自分を叱咤しても、恐怖はとどまることを知らずに沸き上がってくる。
 怖い。死の向こうで凪人が待っているという確証は何もないのだから。
 凪人に会いたい。
 会いたい。
 それだけしか考えられなかった。
「さあ……早く!」
 手首を赤彦の口元に押しつけながら、垂氷が叫ぶ。
「……な、ぎ」
「そんなにも、そんなにも六條が好きなのですか! なぜそこまで頑に……かつて愛したあの人も、そして貴方も、なぜ私を拒むっ!」
 垂氷のこんな激情を見たことはなかった。
 彼の身に降りかかった永遠の呪縛。彼の心痛を分かっているつもりで、本当は何も分かってなかった。
「ごめん」
 どうしようもなく傷つけてしまった。
「ごめん……垂氷……」
 唇が上手く動かず、言葉は声にならなくても繰り返すしかなかった。
 心音が小さくなっていく赤彦の胸に、垂氷が額をすりつける。
「……赤彦」
 彼の嗚咽を聞きながら、赤彦の意識は遠のいた。
 そしてこの死は、二人の孤独な男を裏切った自分が招いたものだと納得した。
 

 

 

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