三章(12)
雪の降る闇空に、下弦の月。
割れた装飾品の一切が片付けられ、がらりとした寝室に蒼い月光が降り注ぐ。光の筋の中を細かい埃が舞い、一つ一つが輝いて見える。
「月の光が、綺麗だ」
窓の下に座り込んだ赤彦は、そっと宙に手を伸ばして感嘆した。赤彦の輪郭もまた光を帯びてぼやけている。その様を、椅子に腰かけた垂氷は目を細めて眺めていた。
「貴方の方が私を狂わせる」
言われて赤彦は振り返り、儚い微笑みを彼に向けた。
いつからここで、彼と時を過ごしているのだろう。
思考が低迷していた。記憶も曖昧だ。何か大切なことを忘れている気がする。まるで心が形を失い、海原を漂っているかのよう。穏やかでいて、どこか悲しい。
それでも赤彦は垂氷の慈しむような眼差しに安堵して、ふたたび月に視線を戻した。
彼が体を求めてくることはなかった。それもいつからだっただろう。
彼は言っていた。
「そろそろ我慢も限界なのですが、私は体が欲しいわけではない。赤彦の心が欲しい」と。
言葉は理解できなかったが、気持ちは苦しいくらいに伝わってくる。ひどく大切にされているのだと。
ふと垂氷が椅子から立ち上がる音を聞き、赤彦は慌てて彼に向き直った。
「どこに……?」
訪ねると垂氷は、言いにくそうに「食事に」とだけ答える。
そうだ。彼は鬼だった。人の生き血を啜らなくては生きられない。
赤彦は憐れむように眉を寄せた。
「どうしても?」
「はい」
「行かないで」
彼は行かなくてはならないのに、口から願いがこぼれてしまう。椅子の前で立ち尽くす垂氷を赤彦はじっと見上げた。彼は困惑の色を浮かべている。
「すぐに戻りますので」
「側に……いて……」
誰かといたい。独りが怖かった。
「眠るまでで、いいから……」
この全身を包む空虚の理由は、なんなのだろう。
近寄ってきた垂氷が片膝をつき、赤彦の瞳を覗きこむ。そして下唇を指でなぞった。
「どうしたのです?」
優しく彼は問いかける。
赤彦は彼の首に腕を回し、耳元に唇を寄せた。甘くかすれた声で名前を呼び、肩口に額を乗せる。
必死だった。彼を自分の元にとどめておくのに。
「もう一度、呼んで下さい」
垂氷は赤彦の髪に唇を埋めて囁く。
「垂氷」
「もう一度。あの男ではなく、私を」
あの男。
一瞬、誰かの顔が脳裏をちらつき、正体の分からない感情に胸が圧迫された。
(……怖い)
分からないが、覚えはある。しかし思い出せない。考えようとすると、嫌だと何かが拒絶する。同時に襲ってきた暗く冷たい渦に飲みこまれていくような感覚に身震いして、赤彦はひっそりと息を殺した。
ふいに髪を撫でられて顏を上げてみれば、そこにあったのは垂氷の真摯な目。
これがたった一つの現実。ここには彼しかいない。
赤彦は彼の目を見つめ、唇をゆっくりと開いていった。
「……垂氷」
垂氷は目元を綻ばせ、赤彦の顔を自分の胸に押し当てた。鼓動も聞こえてこない彼の冷たい体温が染み渡っていく。
しかしそれがどうしたというのだろう。温度は表面的なものでしかない。彼はこんなにも優しいのだから。
「愛しています」
頭上から掛けられた言葉に、赤彦は小さく頷く。この腕の中で胸の疼きに怖がることはないのだと、垂氷の衣服を握りしめた。彼はそれに応え、更に強く抱き締めてくれる。
「私を……愛して下さいますか?」
しばらくお互いの感触を確かめ合っていると、また声が聞こえてきた。今度はひどく躊躇いがちな小さな呟き。
垂氷の胸をそっと押し退けて顔を上げると、赤彦はふたたび彼の目を見つめた。
不思議でならない。彼は愛してくれている。それなら、なぜ自分は同じ気持ちを返さないのだろうか。
赤彦は素肌に羽織ったガウンを床の上に静かに落とした。
(抱いて)
ほの白い肌があらわになり、月明かりを受けて真珠のようにきらめいた。垂氷が溜め息を漏らす。
(好きに……して)
けぶるような眼差しで、赤彦は彼に口付けをせがんだ。
「待っていました。私を受け入れて下さる、この時を」
唇が近づいてくる。
赤彦は目蓋を伏せた。
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