三章(11)
目が覚めると、辺りはすでに白みはじめていた。
太陽のない朝だったのが幸運だ。場所は裏路地のごみ溜め。凪人の全身にはうっすらと雪が積もり、濡れた髪の毛の先は凍りついていた。
ナイフの貫通した片手の傷は乾いていたが、胸からはいまだに血が滲み続けている。凪人は手に巻き付けていたロザリオを外套の隠しにしまうと、そこから煙草を取り出して口にくわえた。オイルライターの火が、今度は容易に点ってくれる。
(よく、死ななかったもんだな……)
そびえ建つ建物と建物の隙間に覗く空から、雪がちらついている。凪人は紫煙を吐き出した。
自分の頑丈な体には、呆れてしまう。どんなに傷を負っても、心臓を貫かれなければ死ぬこともできない。それは鬼と同じ性質。
立ち上がると、胸部から脇腹にかけて激痛が走る。顔をしかめながら前のめりに歩きだし、裏路地から出るとそこは橋のたもと。目の前には川が流れていた。
対岸に見える白い木造の建物に、見覚えがある。居場所は把握できた。凪人の部屋までひどく遠い。
たった少し歩いただけでも、体が悲鳴を上げている。
凪人は煙草を地面に落とし、『相川診療所』の看板をかかげるその建物に足を向けた。
診療時間にはまだ早く、当然のごとく中は静まり返っている。凪人は呼び鈴を鳴らし、建物の壁に背をあずけた。
宗一郎は知っている。満月の夜に繰り広げられた死闘を。怪我が『垂氷』という鬼に負わされたものだともすぐに察するだろう。だから余計に様がない。
もう一度、呼び鈴に手を伸ばしかけた時、すり硝子の戸の中に明かりが灯り人の気配が近づいてきた。戸を開いて出てきた宗一郎は、衣服を着込み整然としている。
「凪人さん……」
凪人を見るなり顔を引き攣らせた彼はすでに起きていたのか、それとも眠っていなかったのだろうか。凪人は口の片端をあげて笑い、胸の傷を指差した。
「簡単でいい。処置をしてくれ、先生」
その怪我に宗一郎は目を剥いた。
「早く中に入って下さい!」
物凄い剣幕で叫んだ彼の顔は、医師のそれに他ならない。妙なことに感心し、凪人は言われるままに診療室に入ると上半身をあらわにした。
とっくに死に至っていてもおかしくない異常な傷跡に宗一郎は青ざめたが、彼の処置は鮮やかだった。以前彼が赤彦の肩の怪我を縫合した痕を見た時も感じたが、医師としても腕は相当なもの。診療所に来てから十数分と経たないうちに、胸部に開いた穴は見事に塞がった。
処置が終わり、血の臭いが充満した診療室に医療器具を片付ける音が静かに響く。
黙って手を動かす宗一郎を眺めながら、凪人は近くの机に脚を乗せた。
「貴方のせいだ」
聞き逃してしまいそうな小声で、宗一郎は表情を変えずに呟く。
「赤彦さんが好きなら、どうして傷つけるような真似をしたんですか」
ステンレス製の器具が触れ合う音が止み、今度は鮮明に聞き取れる。視線を自分の足下に落としている宗一郎に、凪人は怪訝な眼差しを向けた。
「前にも言っていたな。なんのことだ」
「彼は、貴方の言動一つで思い詰めてしまう。もう会わない、と言ったそうですね。その後からだ。彼が食事もろくにとらないで、遠くばかりを見つめるようになったのは。挙げ句の果て、こんなことに……」
宗一郎はきつく唇を結び、凪人は口元を押えて宙を睨んだ。
赤彦のためを思って、別れを告げたつもりだ。しかし結局は自分のことばかりで、赤彦の気持ちまでは考えていなかったのかもしれない。
赤彦はいつもあの部屋で待っていてくれた。顔を見せれば「会いたかった」と夢見るように呟く。それだけ気にかけてくれていたのに、一方的に拒絶した。
「馬鹿だな。俺は」
「馬鹿ですよ。凪人さんも、そして僕も」
誰もが赤彦の包容力に甘えてしまい、与えられるだけで何も返せない。
「彼、本当は寂しい人なんです」
それが赤彦を孤独に追いやる。彼も欲しているのに。
「お前は見たんだったよな。俺の……あの姿を」
凪人は手の平で口元を覆ったまま、くぐもった声でつぶやきを漏らした。即座に宗一郎が息を呑み、凪人に視線を上げる。
血を貪る姿を見せたのは、六條の人間と宗一郎だけ。誰もが侮蔑と恐怖の入り交じる顔をする。しかしそれが正しい人の反応。
自分に与えられるものなど何もない。
「それでも……あいつが好きだ」
宗一郎の目を見たまま、はじめてこの思いを他人に告げた。
「飼い猫に赤彦さんの名前をつけるくらいですからね」
宗一郎は深々と溜め息をつき、口を開く。
「茶化すなよ」
「僕も譲れません」
宗一郎も凪人を真直ぐに見据えてくる。彼にはもう怯えた様子はない。意外に神経の図太い男だと、凪人は口元を緩ませた。しかしすぐに浮かべた笑みを消し、ふたたび宙を睨みつけた。
こうしている間にも、赤彦は垂氷の意のままにされている。
「あいつを助け出すのが先だ」
何よりも。
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