赤色

 

三章(10)

 
「笑うと、顔から憂いの色が消えるんだ」
 束の間だけでも。
 ほのかに開く唇から、言葉がこぼれる。
 快感の余韻と悲しみが入り交じり、かすかに震えながら赤彦は胎児のようにうずくまっていた。その裸体を背後から包みこむ垂氷は、黙って耳を傾けている。
 赤彦は光のない瞳で乱れたシーツの波をただただ見つめ、もう一度、唇を動かした。
「凪人の笑顔を見るためなら、なんでもしてあげたかった。俺を頼ってくれるなら……」
 だから愛して欲しかった。
「誰かに見返りを求めることなんて、なかったのに……」
「しかし貴方は欲していた」
 垂氷の唇がうなじをくすぐる。
「赤彦、私がいる。貴方には私が」
 汗で濡れ、長い髪が張りついた赤彦の肩に添えられた垂氷の手の平がうごめいた。彼の体が更に密着し、一糸纏わぬ二人の素肌がこすれ合う。赤彦はシーツの上にそっと爪を立てた。

 この腕が凪人を殺した。しかし優しく抱きとめてくれるのも、この腕。
 心に開いた穴が寒さを訴える。
「もっと強く……抱き締めて……」
 何を懇願しているのか。漏らしてしまった言葉の大半は、赤彦自身にも理解できていなかった。ただ誰かにもたれ掛かりたい。
 垂氷は言われるままに赤彦を抱き締めた。
「もっと」
 苦しいくらいに締めつけられ、赤彦の口から吐息が滑り出る。
「忘れてしまいなさい。あの男のことなど」
 心地よさと同時に胸に鈍痛が走る。
 忘れることなど、できるはずがなかった。しかし凪人はいない。
「私がいる」
 垂氷はすぐ側で魅惑的に囁く。赤彦はわななく唇を彼の腕に埋めた。

 明けの空に灰色の雲が立ち篭め、薄れた月と昇りかけた太陽を隠す。淡青の大気に包まれた室内で、赤彦は垂氷の腕を枕にして眠っている。
 心身共に疲れきったその横顔を眺めながら、垂氷はふっと目を細めた。いつしかわずかに開いていた扉の隙間から、次々とどす黒い風が吹き込んでくることに気がついて。
 そろそろ来るのではないかと思っていた。
「何をしに来た?」
 垂氷が殺気を放ち、低すぎる剣呑な声色で近づこうとする気配を牽制すると、それは動きを止めて部屋の隅の暗闇に留まった。
「そやつを囲って、どうなさるおつもりか?」
 しゃがれた声だけが聞こえてくる。それは三人の老鬼の声。
「貴方達には関係のないことです」
「そういうわけにはいかぬゆえ、こうして参じたのです」
 垂氷はベッドの端に脱ぎ捨ててあった黒衣を赤彦の裸体にかけ、彼等の目から遠ざけた。
「随分と御執心の様子。もう半月もの間、貴方は飽きずにおられる」
「再度、お聞きする。その人間をどうなさるおつもりか?」
 老鬼達は焦っていた。尋ねながらも、彼等がすでに確信しているのが手にとるように分かる。垂氷が自らの血を赤彦に注ぎ、不老不死を与えようとしていることを。

 闇の中で永きを生きるあやかしの血は、永遠の命の呪縛をもたらす。垂氷には及ばずとも、気が遠くなるほどの歳月を鬼として過ごしてきた彼等も、それを見知っていた。
「片腕だけでは、足りないと見える」
 垂氷は部屋の隅の見えない姿に、凍てつく眼差しを向けた。
「肯定と受け取ってよろしいか?」
 老鬼の声とともに、極寒の風が室内を吹き荒ぶ。埃を巻き上げ、ありとあらゆる装飾品を砕き、天涯を蛇のようにうねらせる。息もつけない鋭いその風は、赤彦の体に覆い被さった垂氷の肌を切り、わずかに血を滲ませた。
 唐突に勢いよく扉の閉まる音がすると風は止み、老鬼たちの気配は跡形もなく消え去った。ふたたび静まり返った部屋を見回して、垂氷は乱れた髪を掻き上げる。
「急がねば、ならないようです。すべては貴方に掛かっていることなのですが」
 そして体に下で眠る赤彦に語りかけた。
 窓の外では、小雪が舞いだす。
 

 

 

楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル