三章(9)
横たわる赤彦の瞳に、窓硝子越しに見える円らかな月が映っていた。耳には、廊下を歩く足音が聞こえている。その足音の持ち主の甘く激しい愛撫に焦がれて、体はすでに火照っていた。
また人の生き血を啜ってきたのだろうか。扉が開かれると途端に血臭が鼻を掠め、赤彦はわずかに眉を寄せた。しかしベッドに近づいてくる彼は、『飢え』を満たしてきたばかりにしては、ひどく落ち着いているように見えた。
普段とどこか様子が違う。
傍らに立った彼を、赤彦は瞳だけを動かして見上げた。しかしいつまでたってもベッドに上がってこようとしない。訝しげに思い、全身を見回すと上腕部にあるひとつの穴に気がついた。
「怪我を、したのかい?」
銃傷だ。暗がりのためすぐには分からなかったが、彼の黒衣はぺっとりと血に塗られている。億劫な体を起こそうとした赤彦を、彼は負傷していない腕を軽く動かして制した。
「大丈夫です。すぐに塞がる」
そして垂氷はこともなげに言う。しかし安堵したのは束の間だった。
目の前に差し出された彼の手に握られたものを見て、赤彦は呼吸を忘れた。
使い古されたS&Wリボルバー。
見間違うはずがない。それは、凪人の銃の片割れ。
「凪人に……会ったんだね」
声が震える。
なぜ、垂氷がこれを持っているのか。こびりついている血液は何を語っているのか。
垂氷は不気味なほど静かに笑う。
以前、凪人が負傷して赤彦の部屋に転がりこんできた時のあの怪我は、彼に負わされたものだった。
「凪……と、を…………」
言葉は最後まで続かない。唇を閉じることも忘れ、目を見開いた赤彦は血の気が急速に下がっていく音を聞いた。
何も言おうとしない垂氷の黒衣に縋りつき、頭の中で導きだしてしまった結論を否定してくれることを望んで彼を呼ぶ。
「垂氷!」
「そうだと言えば、どうしますか?」
鈍器で殴られたような衝撃を頭に覚え、よろめいた赤彦は銃を持つ垂氷の手に肩を支えられた。
「私を憎みますか?」
赤彦は凪人の銃に頬を当て、目蓋をきつく閉じた。
「あ……あ…………」
かすれた悲鳴が、唇から溢れていく。
一瞬にして心が抜け落ちた。喪失感が赤彦を襲う。全神経が麻痺をして、自分がどこにいるのかすら忘れた。
凪人が死んだ。
二度と会わないと彼は言い、今、それが救いようのない現実となってしまった。
会えない。凪人はもうどこにもいない。
「貴方がいけない。私に抱かれながら、他の男を想っていたのですから」
垂氷の諭す声が非情にも言う。まるで薄膜がかかったように、その音は聞こえてくる。しかし赤彦の胸を確かに貫いた。
「凪人は……俺のせいで……」
「そうです」
垂氷は銃をそっと取り上げて無造作に床に放ると、赤彦の頬についた乾いた血粉を指先で払った。
垂氷は知っていた。自分はもちろん分かりきっていた。凪人に寄せる心を。
叶わないことに打ちのめされ、すべてを放棄したいと願い、快楽を貪っていた卑しい自分への罰がこれ。なぜ直接、罰は自分に下ってくれなかったのだろう。
「凪人…………なぎ……」
垂氷のせいではない。神のせいでもない。
悪いのは自分。
「殺して……くれっ」
赤彦は何もない宙の一点を見据え、喉から声を絞り出した。
「どうして、俺が生きているんだい?」
空虚のはびこる胸が苦しい。凪人が生き返るならなんでもする。しかし叶わないのならば、死にたい。
「赤彦」
咎めるように垂氷が呼ぶ。
「垂氷……俺を殺して……」
赤彦が言い終えるが早いか、垂氷は両手首を掴んで赤彦の唇を塞いだ。
「嫌だ……っ」
顔を背けるが、彼はしつこく追い詰め、舌を絡めてくる。首を振っても更に口付けが深くなるだけ。そのまま押し倒され、唇が離れた隙に赤彦は抗う声を上げる。
「垂氷、やめ……ぁ」
しかしガウンの襟を掻き分けて現われた胸の小さな突起を強く吸われ、赤彦は身をよじった。
「愚かな言葉は、貴方の口に似合わない。大人しくしてください……そう。いい子だ。体は私を覚えている」
垂氷が冷たい手の平で肌を撫で、執拗に胸を舐め回す。意識とは裏腹に、体は従順に彼の愛撫を受け入れてしまっていた。
「嫌……なんだ。お願いだから……」
伏せた赤彦の目から、一筋の涙が流れた。
彼の行為は生傷をえぐるよう。しかし同時に優しくて、甘いそれはこの上なく残酷。
血が生乾きの黒衣が赤彦に触れ、白い肌をまばらに染める。
「とても、綺麗ですよ。赤彦」
その血を指で広げながら、垂氷はうっとりと賛辞を漏らした。
|