三章(8)
雲が月を隠し、足下まで伸びてきた垂氷の影を静かに消し去る。
即座に建物の陰から出た凪人が二丁の銃を構え、闇に向けて弾丸を放った。鼓膜を振動させる銃声に紛れて、肉を撃った音が聞こえてくる。命中したのは一発。
再度、引き金に指をかけた時、垂氷の青白い顔が突如視界に飛び込んだ。
「……っ!」
胸部に覚えた衝撃に、凪人は目を見開いた。背筋に悪寒が駆け抜け、留まろうとする意識とは裏腹に体がぐらりと揺らぐ。
心臓をわずかに外し、深々と胸に突き刺さっているのは鈍色のナイフ。肉をえぐりながらそれをゆるりと引き抜かれ、地に膝をつき凪人は頭上の垂氷を見上げた。
(あれは俺の血なのか……?)
月がふたたび姿を現わし、彼の手中にある血の滴る凶器に妖しい光をもたせる。
「先日から、私は嫉妬で気が狂いそうだった。楽には殺しませんよ」
遅れてきた鈍痛が凪人を襲う。傷口が熱い。流れ出す血液は、それ以上に熱い。
垂氷のナイフを持つ方の上腕部にあるのは銃痕。たった今凪人が負わせたものに間違いなかった。掠めただけではなく確かに命中している。開いた穴からだくだくと流れる液体が黒衣を濡らしていくというのに、垂氷は冷笑を浮かべてナイフに舌を這わせている。
「野郎……!!」
立ち上がる素振りを見せた凪人の後頭部に足をかけ、顔面を垂氷が勢いよく石畳の上に叩きつける。外套の隠しから滑り出た白いロザリオが視線の先に転がり、凪人は反射的に銃を持つ片手を伸ばした。
「貴方が持っていたのですか」
地の底から湧き出る低い声と同時に、垂氷のナイフがその手を串刺しにした。息を詰め、咄嗟に銃を放し、凪人はロザリオだけを強く握りしめた。
手を貫通したナイフを無造作に抜き取り、垂氷が更に脚を動かす。
蹴り飛ばされ、受け身をとる間もなく裏路地に積み上げられていたブリキの灯油缶の中に、凪人は背中から突っ込んだ。すぐさま起き上がろうとするが、体は言うことを聞かない。
残っていたもう一つの銃も手を離れ、崩れた灯油缶の狭間に落ちている。伸ばした指がかすかにそれに触れた時、傍らに近づいてきていた垂氷が、凪人の胸の傷を踏みつけてナイフを瞳に振り下ろす。直前で手首を掴んで阻み、凪人は垂氷を睨みつけた。
「忌々しい」
吐き捨てるように呟いた垂氷の顔には、すでに笑みがない。凪人を冷ややかに見下ろしている。凪人が手に巻きつけて決して放そうとしないロザリオをちらりと見やると、彼は胸に乗せた足を脇腹までずらしていき力を込めた。
鈍い音とともに、あばらが折れる。食道を込み上がってきた血が口内に充満し、やがてきつく結んだ唇の端から流れ出した。
垂氷の輪郭が、何重にもぼやけて見える。
「渡さねえ……あいつだけは……っ」
この男に、ここで殺されるわけにはいかない。
傷ついた手の平で垂氷の腕の銃傷をロザリオごと掴み、凪人は奥歯を噛み締めた。白い赤彦のそれは血に染まり、数珠のひとつひとつから赤い粒を滴らせていく。
(悪いな、赤彦。汚してしまった)
凪人の口元に、笑みが無意識のうちに浮かぶ。
「驚きました。まだ動けるのですか」
そう言いながらも、垂氷にさして驚いた様子はない。
手には感覚がなかった。それでも骨をへし折るくらいの力は残っている。
「甘く見るなよ」
歪みはじめた自分の腕を見て垂氷は眉間にしわを寄せ、凪人の眼球に突きつけていたナイフを動かした。刃は顔を背けた凪人の頬を掠め、灯油缶に穴を開ける。流れ出した液体の鼻につくその臭いに、虚ろな意識は完全に覚醒した。
凪人が垂氷の腕を力任せに引く。
反動で飛び起きながら、自分の寝ていた上に彼の体を沈めるが早いか、落ちた銃を拾う。地を蹴り、建物の外付けの螺旋階段の手すりを掴み、凪人はそこに降り立つとそのまま上へと駆け出した。
「逃げるのですか?」
凪人は胸に手を当てた。急速に打つ鼓動が伝わってくる。心臓が動くたびに、手と胸の両方から血が溢れていた。
逃げるなど自尊心が許さない。しかし引き際だ。この状態では、明らかに勝算は皆無。
後ろを振り返っても、黒衣の垂氷の姿は闇に紛れて見えない。それでも確かに背後から追ってくる靴音が周囲に響き渡っている。やみくもに銃を撃つが、鉄製の手すりに弾かれるだけ。
階段の最後の段を上がると、突然、視界が開けた。
整然と建ち並ぶビルディングの平らな屋上の数々が、月明かりに照らされてほのかに光る。
銃を構えながら凪人は後ろ向きに後退し、ほどなくして端まで辿り着く。フェンスに片足をかけ、背後を横目で見やった時、垂氷が屋上に姿を現わした。
垂氷は一歩、また一歩と徐々に間合いを詰めてくる。
強風が吹きつけ、凪人の外套をはためかせた。中では無数のナイフが触れ合い、音を鳴らす。仕込んだナイフはまだ十分にある。しかしそれを構えて接近戦に持ち込む力は残っていなかった。
ふいに垂氷が腕をかばってよろめいた。凪人が負わせた傷は確実に彼の体力を蝕んでいる。
凪人は彼に向けて引き金を引いた。
「くそっ」
しかし弾はすでに尽きている。残弾を数える余裕もなかった自分に、危機を感じずにはいられない。
凪人は再度、背後を確認した。
迷っている暇はない。
次の瞬間フェンスを越え、凪人は飛翔した。
隣の建物の屋上に肩から落ち、全身を強打した途端に咳き込み吐血した。これまでとは比べ物にならない激痛が駆け抜ける。衝撃で砕けたあばらが内臓を傷つけたのかもしれない。それでも苦痛を噛み締めて立ち上がると、凪人は近くの鉄の扉を蹴破り建物内へ侵入した。
階段を駆け降り、途中の階で窓硝子を肘で割り、隣接する建物に幅の狭いそこから飛び移った凪人は視線を感じ、上を見上げた。はじめに上った建物の屋上から、垂氷がこちらを窺っている。
満月を背に悠然とたたずむその姿。遠く離れていても感じる突き刺さるような威圧感が、力の格が違うということを知らしめている。しかし彼に動く気配は全くない。なぜ追ってこないのか。
思案する意味はない。今はただ、あの男から離れるだけ。
どこをどう走ったのか分からない。似たような裏路地が永遠と張り巡らされたこの街は、一度自分の居場所を見失うと困難だ。しかし敵をまくには、絶好の地形なのかもしれない。凪人が行き着いたのは、袋小路にあるごみ溜めだった。
垂氷は本当に追撃を諦めたのか。しかし油断はならなかった。血の臭いを嗅ぎつけて他の鬼が集ってくる可能性もある。それでも緊張をこれ以上、保つのは限界だと体が叫んでいた。
呼吸が苦しい。建物の壁に手をついて体を支えていると、ごみを漁っていた野犬がうなり声を上げて近づいてくる。凪人の鋭い眼光で睨まれると途端に尾を丸めて去っていき、辺りは静寂に包まれた。
誰もいない。
かすかに川のせせらぎだけが聞こえている。
凪人は乱れきった呼吸の合間に、口の中の血を飲みこんだ。
「情けねえな……」
血に濡れた外套が、鉛のように全身にのしかかる。急速に体温が下がっていくのを、ありありと感じる。強烈な眠気に襲われ、凪人はその場に崩れた。
手の平に握っているのは空の銃。もう一丁は置き去りにしてきてしまった。それでも反対側の手の中に赤彦のロザリオがあるのを確認すると、凪人は安堵して天を仰いだ。
「赤彦」
深々と息を吐けば、その名前が自然と唇からこぼれる。瞳を伏せると目蓋の裏に姿が浮かんだ。
嘘だと思いたい。赤彦が自分以外の男に抱かれたことなど。力ずくで屈服させられたであろう彼は、今、何を考えているのだろうか。
「赤彦……」
やるせない。
たとえ赤彦を救い出したとしても、決して自分のものにはならない。以前のように、会うことすら叶わないのに。
(誰よりも先に、俺がお前を……好きだったんだぞ?)
そこで凪人は意識を失った。
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