三章(7)
雲間に満月が覗く。街のあちらこちらで、野犬が狂ったように遠吠えしていた。
未明。人気のない界隈で凪人は煙草をくわえ、オイルライターの蓋を開けた。火はなかなか点らず乾いた音だけが漂う。
焦っていた。自分の知らないところで、事態が急速に進んでいることに。一度ならず、二度三度と後日それを他人から聞かされて知るこの現状に、苛立ちを覚えずにはいられなかった。一番大切な人のことだというのに。
いまだに火はつかない。
諦めてライターを持つ手を下ろした時、ふいに横から先端の赤く燃えたマッチを差し出された。
「いい月が出た。こんな夜に死ねることを光栄に思いませんか?」
いつからか、音もなく隣に立っていた長い髪の男が、さらりと言ってのける。彼を一瞥して凪人は煙草に火をつけた。
忘れるはずがなかった。はじめて自分を地に這いつくばらせたこの男の顔を。彼が赤彦の唇を奪ったと言ったことを。
「『垂氷』というのは、お前か?」
紫煙を湿った夜気に吐き出して、凪人は感情を押し殺した声で問いかけた。
この男を相手に下手な動きはできない。彼の長年の経験で培ってきたであろう死闘の術は、自分の上を行くと認めざるを得ないのだから。
「その名は赤彦だけに告げたものだ。貴方に呼ばれたくはない」
垂氷は燃え尽きようとしているマッチを指先から放し、足下の濡れた石畳にはらりと落とした。小さな音をたてて鎮火したそれは、鼻につく臭いを漂わせる。
五日程前に、宗一郎からもたらされた情報はあまりに少なかった。『垂氷』という鬼が赤彦を自邸に監禁しているということと、今夜のことだけ。始終言葉を濁していた宗一郎の態度は、早々に自分の前から立ち去りたいからなのだと思っていた。しかし何かを隠しているようにも見え、気にかかっていた。『垂氷』を目の前にしてそのわだかまりは、いよいよ胸中でざわめきはじめる。
「今宵は本気でいきますよ」
凪人は煙草を吐き捨て、外套の裏から二本の両刃のナイフを左右の手で抜いた。
渾身の一撃。しかし凪人と同時に抜いていたナイフで垂氷が阻み、けたたましい金属音が周囲に木霊する。怯むことなく触れ合うナイフをすぐさま引き、再度凪人が斬りかかる。それをも軽く受け流し、垂氷は黒衣をひるがした。
「くっ」
鋭く突き出されたナイフを、防いだ凪人の両腕に痺れが走る。
休む間もなく垂氷が更に斬りつけてくる。左右のナイフを交差させ、凪人は受け止めた。
腕力には自信があったが、その腕力で完全に押されていた。防ぐたびに刃がこぼれ、粉が散る。そして速い。反撃の隙もない。垂氷が以前に見せた動きは、比べものにはならなかった。日の出に遠いこの時間、彼の力は頂点に達している。しかしそれは凪人も同じだ。
一瞬でも臆すれば命はない。
腕を大きく横に振るい、垂氷が凪人の胴を狙う。刹那、凪人は後退し続けていた足を前に踏み出し、垂氷のナイフを自分の左手に握ったそれでなぎ払った。
凶器が垂氷の手中を離れ、宙に跳ね上がる。間髪入れずに彼の喉元に凪人は右手のナイフを突き出した。
しかし垂氷の首は飛ばない。それどころか傷一つついていない。垂氷はたった二本に指で刃を挟み、凪人の一撃を制していた。
以前と同じ。力をこめても刃先はそれ以上、微動だにしない。
「筋はいい。しかし六條、貴方はまだ若い」
ぎらぎらと闘志の燃えたぎる瞳で睨みつける凪人をものともせず、垂氷は口の端を吊り上げて不遜に笑う。
(こいつなら……)
確かに可能かもしれない。
研ぎ澄まされた動体視力。しなやかな体はバネのよう。赤彦は腕力があるわけではないが、相手を確実に仕留められる急所を心得ている。凪人も認める『鬼狩り』のその彼が鬼の元に囚われているという事態は、にわかに信じられるものではなかったがこの男ならば疑う余地はない。
しかし何のために。
「相川先生は、どこまで貴方に話したのでしょうね」
凪人の疑問を見透かしたように、垂氷が口を開く。自由な左の手中にあるナイフをそろりと外套の裏にしまい、凪人は隙を伺いながら指先で愛銃S&Wリボルバーに触れた。
「……どういう意味だ」
「知っていますか? 赤彦が、ベッドの上でどんな声で喘ぐかを。恥じらいながら私を受け入れ、とても綺麗な顔をする」
凪人の髪が獅子のたてがみのようにたなびく。次の瞬、間凪人は無意識のうちに銃を抜き、引き金を引いていた。
予想していたように垂氷が避ける。そのまま落ちた自分のナイフに飛びついた。
凪人の銃が、ふたたびうなる。垂氷はナイフを拾って地面を転がり、乱射される弾丸から逃れていく。
「ほう」
轟く銃声が止み、地に膝をつけて立ち上がろうとした垂氷は、目を細めて感嘆の声を漏らした。
その時、凪人は垂氷の目前にいた。ナイフを彼の頭上に高々と振り上げながら。
ふたたびけたたましい金属音が生じた。
「二度と赤彦に触れられねえようにしてやる!」
振り下ろされたナイフを自分のそれで受け止めた垂氷の額に、もう一方の手にある銃を突き付け凪人が吠える。
これが、胸中に存在していたわだかまり。
考えなかったわけではない。囚われてもなお、赤彦が殺されずにいる意味を。しかし考えたくなかった。
男でありながら、赤彦は美しすぎる。そういう趣味を持たない男でも、肉欲を抱かずにはいられないことは、身をもって凪人自身が知っていた。
「やはり。貴方も彼を」
凪人の指が引き金にかかる。それは、垂氷が銃身ごと凪人の手を掴んだのと同時だった。
視界が揺らめく。瞬時のことで抗う間もない。銃を撃つことなく投げ飛ばされた凪人は、弧を描くように宙を舞う。
「しかしだとしたら、なぜ貴方達は……いえ、どうでも良いことですね」
地に叩きつける前に、垂氷が凪人の体に斬りかかる。凪人は地面に片手を伸ばし、わずかに触れたその時に勢いよく垂氷の腕を蹴り上げた。一撃は回避したものの、垂氷は微動だにしない。素早くナイフを向けてくる。
夜露の凍った足場は悪い。体勢を整えきれない。それでも顔面の数十センチ手前で凪人はそれを銃身で阻み、右のナイフで懐に飛びこんできた垂氷を狙う。
それは虚しく空を突いただけ。更に幾度も斬りつけるが、垂氷は涼しい顔で避けていく。まるで児戯を嘲笑うかのように。
自覚していた。自分の動きが悪いと。理性の抑えがきいていない。心の乱れは動作にも表れていた。当初は慎重を期していたというのに、感情を逆撫でする垂氷の言葉にうかつにも乗ってしまった時から、それは狂いはじめていた。
感情に任せた攻撃は彼に通用しない。体力を消耗するだけ。
凪人は垂氷から後方に飛び退き、攻防から離脱すると近くの建物の影に姿を隠した。束の間手に入れた休息時間はもって五秒。
呼吸を整え、平常心でいなければ勝算はないと自分に言い聞かせた。しかし心を落ち着かせるなど、今の凪人には不可能に近い。
赤彦を辱めたあの男が憎い。
言いしれない怒りで全身が、総毛立っていた。
(許さねえ……)
界隈に靴音が響き渡っている。
忍び寄る敵の気配に耳をすませながら、凪人は銃に弾を補充すると生唾をひっそりと飲みこんだ。
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