三章(6) ◆ ◆ ◆ ◆ 仰々しい音をたてる重たい扉を押し開き、宗一郎はその部屋に足を踏み入れた。室内は暗く、奥にある小さなランプがほのかな明かりをもたらしているだけ。光に照らされて浮かび上がるのは、ゆったりとした天涯に覆われた古めかしいベット。目を凝らせば、中に横たわる人影が確認できた。 「赤彦さん?」 宗一郎は近づきながら恐る恐る声をかけた。 すり切れた絨毯を踏み締めるたびに、湿ったほこりの臭いに包まれる。外の温度とほとんど変わらない、こんな荒れたところに人がいるとは信じられない。騙されているのではないかと疑いながらも、宗一郎は天鵞絨の天涯をかき分けて中を覗いた。 確かに赤彦がそこにいた。 裸体にガウンを羽織っただけのしどけない姿で、四肢を投げ出し眠っている。 彼の溢れんばかりの色香を間近に感じ、目眩を覚える。宗一郎は言葉を失い、思わず生唾を飲みこんだ。肌は蒼いくらいに透き通り、今にも消えてしまいそう。うっすら濡れた唇が艶かしく目に映る。 しかし同時にあの男に赤彦が、何をされたのかを察してしまった。胸元に残る無数の紅い痕が追い討ちをかけるようにそれを物語っている。 「赤彦さん、僕です。分かりますか?」 宗一郎が顔を近づけると、気がついた赤彦の目蓋が開かれていく。まどろみの中を彷徨いながらも徐々に光を宿していくその瞳に、ようやく宗一郎の姿を映し出すと赤彦はそっと唇を動かした。 「宗……一郎? どうして、ここに……?」 言い終えて上半身を起こそうとするが、途中で力つきてシーツの上に崩れてしまう。宗一郎が両手で肩を支えると、赤彦は辛いとばかりに白い息を吐く。 「痩せましたね」 スエード地のガウンの上からでも、その細さが分かる。 痩せただけではない。赤彦からはまるで精気を感じられなかった。 「帰りましょう。この二週間、ずっと心配していたんですよ」 引きつる顔で笑みを作り、宗一郎はできるだけやさしく彼に語りかけた。 短期間のうちにこれだけ変わってしまうとは、あの男に囚われている中でどれだけ無理を強いられていたのだろう。それだけではこの衰弱のほどは説明しきれない。何か他の要員があるように思えたが。 「もうそんなに経つんだね」 「赤彦さん?」 「何?」 伏せ目がちに受け答えする赤彦は、自分の状況が把握できていないように見える。違和感を覚えながら宗一郎はゆっくりと息を吸った。 その名前を出すのは、少しためらわれる。 「凪人さんも捜しています」 「……凪人が」 途端に赤彦は顔を曇らせ、痛々しい微笑みを浮かべた。 「どうして?」 「どうして、って……」 「理由がないよ。彼はもう俺と会わない。俺のことなんて、はじめから……」 「凪人さんがそう言ったんですか?」 悲痛な赤彦の声を聞いていられず、宗一郎は言葉をさえぎった。 凪人の気持ちは分かっているつもりだが、なぜそんなことを言ったのかは検討もつかない。しかし赤彦の悲しみの原因がそこにあるのなら、胸の内で否定し続けてきた憶測を肯定せざるをえなくなる。 宗一郎は上着を脱ぎ、赤彦の肩にかけた。今はぐだぐだと凪人のことを考えている場合ではない。 「とにかくここを出ましょう。あの人は、あの人は人間じゃありませんね」 短銃を取り出し、赤彦の手に平の上に乗せて声をひそめた。けれど彼の視線は宙に浮いたまま。いっこうに受け取る気配はない。宗一郎が添えていた手をのけると、銃はぽとりと彼の膝の上に転がった。 「大丈夫。垂氷はよくしてくれるよ」 「『垂氷』? どういうことですか。あの男は赤彦さんをっ!」 そこまで言うと、赤彦は自分のはだけた胸元に気がつき、さっと襟を重ねて閉じた。羞恥に染めた顔を宗一郎から背け、ガウンを握る手を震わせる。 その様を見て宗一郎は、知らず知らずのうちに赤彦の肩をつかむ手に力をこめていた。 考えたくはない。言いたくもなかった。それでも鼓動が苦しいほどに高鳴り、確かめずにはいられなかった。 「合意の上で、だったと言うんですか?」 赤彦は目蓋をきつく閉じた。 「だから……大丈夫……」 宗一郎の思考が止まる。 次に動きだした時に沸き上がったのは、行き場のない怒り。 嫉妬だった。赤彦が悲しみから逃れるためにあの男に抱かれたのならば、もたれ掛かるのは自分でもよかったのではないかという汚い妬み。 差し出されたように目前にある赤彦の無防備な首筋に、宗一郎は手の平を滑らせた。 赤彦は体を震わせ、唇から熱っぽい吐息を漏らす。それは無意識なのだろうが、性的な快感を知らない無垢な反応とは到底言えるものではない。 「どうして、僕じゃ……」 言いかけて我に返り、宗一郎は素早く赤彦から手を引いた。この状況で赤彦に欲情している自分が信じられなかった。うな垂れて卑猥な衝動をやり過ごそうとするが、欲望は膨らむばかり。 「お願いです。帰ってきてください!」 喉の奥から絞り出した宗一郎の願いを、赤彦は目蓋を伏せたまま黙って拒絶する。 「ごめん」 やがて聞こえてきたのは謝罪。しかし何に対して謝っているのだろうか。 これほど他人に憎悪を抱いたことはなかった。宗一郎を突き動かすのはそれだけ。 赤彦の膝から銃を拾い、宗一郎は踵をかえして廊下に出た。 後ろから赤彦の呼ぶ声が聞こえてくるのを期待するが、それも叶わない。 割れたモザイクタイルの床を踏む靴音が、徐々に速くなっていく。 ひびの入った壁からは隙間風が漏れてくる。至る所に蜘蛛の巣とほこりが溜まり、その上にカビが生えている。 あの男のことはもちろん、こんな廃虚に赤彦をおいてはおけない。 (凪人さんだったら……) ここに来たのが自分ではなく凪人だったら、赤彦は迷わず帰ることを選んだだろう。 小さくかぶりを振り、宗一郎はすぐにその考えを打ち消した。 情けない。力のない自分が。 玄関の扉をくぐり数段の階段をかけ降りて、宗一郎は止まることなく赤彦が『垂氷』と呼んだ男に歩み寄りながら銃を構えた。 「赤彦が自らの意志で外した」 垂氷は白いロザリオを、手に平に乗せて宗一郎に差し出す。構わず一メートルばかりはなれて立ち止まり、宗一郎は銃の撃鉄を起こした。 「先生、貴方を呼んだ理由が分かりますか? 事実を六條凪人に伝えてください」 垂氷は銃を向けられているにも関わらず、涼しい顔をして言葉を続ける。 「厄介な恋敵は、早めに葬っておきたいと思いましてね」 凪人の名前を出した途端、歪んだ赤彦の顔を見て確信してしまった。赤彦の心を占めるのは凪人だと。友情を抱いているのではなく、恋をしているのだと。それを知る垂氷の眼中にも、宗一郎はいない。 「赤彦さんの体の衰えようは尋常じゃない。このままいけば彼は」 医師でなくても、それは一目瞭然だった。 「少々、私の纏う霊気に当てられているのです。それも今だけだ。じきに赤彦は永遠を手に入れる」 宗一郎は訝しげに眉を寄せた。 「……何を、する気なんですか?」 「もう独りで生きるのには疲れた」 答えになっていない。しかし赤彦に害を及ぼそうとしているのは明白だ。 「貴方は、赤彦さんの悲しみにつけ込んでいるに過ぎない。彼が貴方を愛しているとでも思っているんですか?」 宗一郎の言葉にそこまで自信に満ちていた垂氷がすっと目を細め、凍てつく眼差しで凝視してくる。怯みそうになった意識を奮い立たせて宗一郎は言い放った。 「貴方は鬼だ」 「それが? どうしたというのです」 「人じゃない」 「確かに。しかし愛するという感情まで、いさめられる筋合いはない」 紫がかったまばゆい光が辺りを覆い、二人の顔に濃い陰影をつける。 その刹那、雷鳴が轟いた。同時に宗一郎の手中の銃が火を噴く。 大気が震え、屋敷を囲む針葉樹の森からおびただしい数の鳥類が飛び立った。ざわめきながら天高く舞い上がり、やがて張り詰めた静寂を残して方々へ散っていく。 硝煙の立ち上る銃を構えたまま。宗一郎は垂氷を睨みつけていた。彼は微動だにしなかった。放った弾丸は、彼の黒衣の端にわずかな穴を開けただけだ。 「体を好きにしても、赤彦さんは貴方のことなど愛さない」 垂氷は衣の裾を掴み、その穴を見つめる。そしてゆっくりと視線を宗一郎に戻した。 「あまり私を怒らせない方がいい。貴方を殺せば赤彦が悲しむ」 彼の顔に浮かぶ冷笑に、宗一郎の背筋を悪寒が駆け抜けた。呼吸をするのもままならない威圧感。今まで彼が放ってきたものなど比ではないそれが、容赦なく宗一郎を包む。このまま心臓を凍りつかせようというのだろうか。 「時間通りですね」 宗一郎の限界を見計らったかのように、背後の道なき道から車が姿を現わす。垂氷は赤彦のロザリオを宗一郎の手に握らせて、かすかに禍々しい気配を和らげた。 「帰りなさい。そして六條に伝えてください。時は次の満月、私が自ら出向いて差し上げよう。その夜が貴方の最期になると」 もはや逆らうことはできなかった。 ◆ ◆ ◆ ◆ 銃声が聞こえた。 間違えるはずがない。それは自分のデリンジャーの音。 宗一郎が去っていった時の体勢のまま、青ざめた顔で赤彦は開け放たれた扉を見つめていた。 「君は、宗一郎を……」 そこに現われた垂氷の姿を見て、赤彦がうわ言のように呟いた。 垂氷は黒衣を脱ぎ、近くの椅子に放りながら赤彦に片眉を上げて笑ってみせる。 「安心してください。無駄に命を奪うのは、趣味ではない」 赤彦は肩にかけられた宗一郎の上着を握りしめた。 垂氷が言うのは事実だろう。彼は『飢え』をしのぐことにも罪悪を感じているのだから。 宗一郎の無事を知り、ひとまず胸を撫で下ろした。 切羽詰まったように見えた宗一郎を、追おうとしたが立ち上がれなかった。体に力が入らなかったのも理由だが、それよりも垂氷と自ら体を重ねたことを知られた彼と向き合うのが怖かった。 (まさか撃つなんて……) 赤彦が銃の手入れをするのをいつも顔をしかめて見ている温厚な彼が、その銃を持ち歩いていることにも驚いた。 凪人が捜していると、宗一郎は言った。期待など、もう持ちたくはない。 置き去りにしてきたはずの心が揺れる。 鬼と交わった自分を、宗一郎は軽蔑しただろうか。そして知れば凪人はおそらくそうする。 「どうして宗一郎がここに?」 ベッドの縁に腰かけて顔を覗きこんできた垂氷に、赤彦は問い掛けた。 「すみません。貴方を試すような真似をした。確信が欲しかったので」 垂氷は切なげに眉を寄せ、真直ぐに赤彦を見据えた。 「しかし貴方は私の元に残ってくれた」 ふとした時に、彼は縋るような眼差しを向けてくる。 常に意識がはっきりせず、体は気怠さを覚えている。夢の中にいるような浮遊感を感じながら、呆然と時間を過ごすことが多くなった。その中で、垂氷の重苦しいほどの愛情にほだされはじめた自分がいるのは気のせいではない。 垂氷の長い髪に手を伸ばして指を絡めると、彼は赤彦の胸に顔を埋めて溜め息を漏らす。 「貴方が……すべてだ……」 垂氷に限ったことではない。必要とされれば、誰にでも胸を貸したいと思ってきた。しかし彼に感じるこの疼きは、万人に抱くそれとは明らかに違う。 宗一郎の上着がシーツの上に落ちる。そのまま赤彦は垂氷の髪を撫で続けた。
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