赤色

 

三章(5)

 
 自分の部屋にたどり着き、凪人はすぐさま長椅子に突っ伏した。着こんだままの外套の中で、無数のナイフが音をたてる。外は暗く明けにはまだ遠いこの時間、鬼狩りを早々に切り上げて帰ってきたのは『飢え』に感づいたからだった。
 切迫しているわけではない。ただ、あれから『飢え』に滑稽なほど怯えていた。赤彦をこの手にかけようとしたあの日から。
 煙草をくわえると、気まぐれに主人の帰りを待っていた黒猫が腕に頬をすり寄せてくる。凪人はシガレットケースに煙草をしまい、彼女の首の後ろを摘み上げて胸に抱いた。
「あかひこ……」
 自分でも分からない。猫を呼んだのか、それとも本人を呼んだのか。
 道端で猫を拾い、同じ名前をつけて飼いはじめたのが数年前。今はそれが仇になっている。いくら忘れようとしても、これを見れば思い出してしまう。凪人は自嘲ぎみに笑い、更に強く腕の中のぬくもりを抱き締めた。
「赤彦」
 今度は確かに自ら別れを告げた彼を呼ぶ。同時に唇から漏れた溜め息は、寒々とした室内に虚しく漂う。こみ上げる苛立ちに自然と笑みは消え、凪人はわずかに赤く染まりはじめた瞳で宙を睨んだ。

 会いたくて、会いたくて、たまらない。
 赤彦を傷つけたくない。そう思って二度と会わないと決心したのがほんの一週間前だというのに、自分の弱い意思にはほとほと呆れてしまう。
 人と関わるのを避けて生きてきた。そうすれば、飢えて襲いかかることもないと考えて。
 しかし赤彦と出会って惜しみない愛情を注がれる心地よさを知り、孤独を抱える辛さに気づいてしまった。近づきすぎれば、いつかこうなるのではないかと恐れていた。だから何度も距離を置こうと試みたが、結局、数週間とせず彼の部屋を訪れていた。
 顔を見たかった。声を聞かせて欲しかった。笑いかけて欲しかった。
 鉛のように重たいこの気持ちを、恋と呼ぶかどうかなど知らない。
 はじめて人らしい扱いをしてくれた彼に、固執しているだけなのかもしれない。
 それでも他のものは何もいらない。ただ赤彦が欲しいと願う。
「お前が、好きだ……」
 しかし体内に流れる鬼の血が、たった一つの望みを持つことも許してくれない。
 ふたたび溜め息を吐き出して、凪人は同じ名前を持つやわらかな毛皮に唇を埋めた。

 そうしながら目は自分の手首を捕らえて放さない。物心ついた頃から何度となく噛みつき続け、決して消えない青ざめた色になったその箇所を。
 主人の異常を察知してか、猫は腕をすり抜けていく。
「行くなよ」
 凪人はしなやかに歩く後ろ姿に声をかけた。彼女は離れた暗所で止まり、顔だけを向けると凪人を見据える。そして粘液質の鳴き声を上げた。
「喰わねえから」
 『飢え』を満たしてくれるのは、人の生き血。それだけだ。
 手首を口元に引き寄せると、甘い独特な匂いが鼻腔をくすぐる。うっとりと肌に舌を這わせていきながら、凪人は視界の端に玄関の戸を映した。
 鉄の戸が振動している。小さく叩かれる音を響かせて。
「凪人さん、開けて下さい」
 外から聞こえる声は、宗一郎のもの。躊躇いがちに、しかし執拗に姿を見せるようにせがんでいる。
 間が悪い。この上なく。
 すぐ近くに息づく生命が、欲望を刺激する。
 凪人は双眸の赤い光を揺らめかせて起き上がり、ふらりと足を踏み出した。

 戸を開けると、宗一郎が神妙な面持ちで立っていた。ようやく現われた住人の姿を確認し、手袋を握りしめながら息をつく。
 凪人は壁に半身を寄りかけ、廊下の照明のまばゆさに細めた目で彼を見下ろした。
 部屋の場所は、赤彦ですら知らない。
「……つけてきたのか?」
 尾行に全く気づかないほど、この『飢え』に気を取られていたのだろうか。
「それは謝ります。話があるんです」
「俺にはねえな」
「猫、本当にいたんですね」
 脈絡もなく、ふと宗一郎は眉をひそめて呆れたように呟いた。彼の視線は凪人の脇を通り過ぎ、部屋の奥で輝く猫の目に注がれている。
「なのに、どうして……どうして赤彦さんに辛く当たるんですか」
「辛く?」
 その名前を他の男の口から聞くのは、ひどく不愉快だ。
「お前に何が分かる」
 鋭い眼光を向けた凪人を、宗一郎は毅然として睨み返す。
「分かりませんよ。凪人さんのことなんて」
 自分の心を押し殺して、赤彦と離別せざるを得なかった。宗一郎がうらやましい。なんの障害もなく赤彦といられるのだから。
 他人の血は自分のものよりも甘美な香りを放つ。その誘惑は宗一郎への嫉妬と相まって、理性を飛ばす。あとに残るのは危険な思考。
「凪人さ……ん?」
 突然、両腕を掴み、肩口に額を押しつけてきた凪人の不可解な行動に、宗一郎は顔に困惑の色を浮かべた。
「失せろ……早く……」
 言いながら宗一郎を捕らえる手の力を、次第に強めていってしまう。凪人は嗚咽を漏らした。
「放して下さい。とにかく、今は言い争っている場合じゃない」
 先程、夜の街で直面した危機と同じものに瀕しているのだとも知らず、宗一郎は言葉を続ける。
 抑えきれない。この衝動を。
 凪人は宗一郎の首筋に顔を寄せ、口から犬歯を覗かせた。

「……くっ!」
 短く息を詰まらせて、その刹那、凪人が食らいついたのは自分の手首だった。
 唇から鮮血が溢れて宗一郎の外套を濡らす。凪人は彼を突き飛ばし、壁に背を預けて卑しく音を立てながら血を貪った。
 渇いた体が潤っていく。言い知れない満足感が押し寄せ、無意識のうちに凪人に浮かんだのは恍惚の表情。
 宗一郎は目の前で繰り広げられる異様な光景を、呆然と見つめていた。じおに視線が重なると、咄嗟に彼の瞳の中に嫌悪が宿る。
「貴方はいったい……」
 震える声での問い掛けに、凪人はくくっと笑いを喉から漏らす。
「俺が何者かって? 自分が知りてえよ」
 人なのか、鬼なのか。答えなど出ない。今までも、そしておそらくこれからも。
 嬉々として赤く濡れた唇を舐め回す凪人から目を反らし、宗一郎は吐き気を堪えるように口元を手で覆った。その様を一瞥して、凪人は早くも乾きだした傷口に再度噛みつく。
 今更、誰にどう思われようともかまわない。疎まれるのは幼少の頃からだ。ただ赤彦にだけ、この姿を見られなければ。
「凪人さん……」
『飢え』が満たされるまで一心不乱にそれを繰り返していく中で、ふと宗一郎の消え入りそうな声が耳をかすめた。
「赤彦さんがいなくなったんです」
 白みはじめた意識に、その名前がしみ渡る。わずかに正気づいた凪人は動きを止め、二度と目を合わせようとしない宗一郎の横顔を凝視した。
 灰色のコンクリートに血液が滴る。ひたりひたりと、徐々に速度を緩めながら。
「どういう……ことだ?」


◆         ◆         ◆         ◆

 さっきまで鈍い軋みを長々と響かせていたベッドは静まり、天蓋の中からは折り重なる二つのかすれた呼吸音が溢れ出る。
 嵐のような行為が過ぎ去った今、赤彦は肩を小刻みに揺らしながら波打つシーツの上でぐったりと俯せに倒れていた。乱れた着衣の端から覗く白い下肢に覆いかぶさる垂氷もまた乱れた息を繰り返す。
 束の間、屋敷を離れ、そして戻ってきた彼はいつものように睦言を囁くこともなく、すぐさま赤彦に脚を開かせた。感情の抑えが利かないとばかりに、激しく求められたのははじめてでない。
『食事』をしてきた夜は、決まって荒々しい一面を見せる。それでも傷つけるようなことは、決してしなかった。

 垂氷は近くの卓の上の瓶に手を伸ばし、中の水を口に含むと赤彦の顎をつかんで唇を重ねた。
 口腟をわずかにしめらせただけで離れていってしまう垂氷の首に腕を絡めようとしたが、あまりの疲労にそれも叶わない。垂氷はふたたび瓶に口をつけると、今度は赤彦の体を抱き起こして喉の奥まで水を流し入れた。
 冷たい雫が火照った体に落ちていく。呼吸が落ち着いてくると、赤彦は合わさる垂氷の唇にかすかに漂い残る血臭に気がついた。
(何をしているんだろう……俺は……)
 垂氷が人を殺め続けているというのに。
 人の生命を取り入れたばかりの彼の体は、ほのかに温かい。そのぬくもりすら、心地よいと感じてしまうなんて。
「愛しています、赤彦」
 見つめられていることに気がついた垂氷は挑むような眼差しを緩め、ふっと笑みを浮かべる。
「愛しています」
 やさしく甘い囁きは、麻薬のように思考を低迷させる。目蓋は重くのしかかり、かすむ視界に映るのは自分と同じように薄紅色に染まった垂氷の肌。
「しかし貴方はまだ、私を想っていない」
 続けられた言葉の意味を解く前に、彼の腕の中で赤彦は意識を手放した。

 いまだに赤彦は自覚していない。情事の最中(さなか)にその男の名前を呼び続けていることに。助けを求めるように、許しを請うように、そして愛しそうに。
「六條凪人……ですか」
 低い声で吐き捨てて、垂氷は赤彦の唇の端にきらめく水滴を吸った。
 

 

 

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