三章(4)
「そうですか……どうも、お手数かけました」
宗一郎は頭を下げ、閉店後の片づけをはじめていたその飲食店を後にした。
店の扉をくぐると、途端にビルディングの谷間風が体に容赦なく吹きつける。寒さに震え、襟巻きで鼻先を覆った。
カシミヤ地の下から溢れ出た白い息の量は、溜め息の深さを物語る。
こんなところにいるわけがない。分かってはいたが、思いのほか落胆は大きい。
懐中時計を見ればとっくに零時を過ぎている。わずかな痕跡も見つけ出せないまま、今日も日付けが変わってしまった。
「赤彦さん、どこにいるんですか?」
赤彦が姿を消してから一週間が経つ。宗一郎は彼を捜していた。
しかし今の店で赤彦と訪れたことのある場所は、すべて網羅した。これ以上、彼と接点のあるところを知らない。
とてもこのまま帰宅する気にはなれず、行く当てもなく宗一郎は深夜の街を歩き出した。
悔やんでも悔やみきれない。
あの日、独りになりたいと言われ、なぜ素直に部屋を出てしまったのだろう。意地でも留まっていれば、こんなことにはならなかった。尋常ではなかった最近の赤彦の様子。それを思えば彼にとって自分は一欠片の救いにもならないのかと、不甲斐なさを感じている場合ではなかったはずだ。
教会では、シスター達が慌てふためいている。簡単に職務を放棄する無責任な人ではない。だからこそ余計に胸騒ぎがしてならなかった。何もかも捨てて失踪するほど、思い詰めていたのかと。
赤彦が笑顔を見せなくなってから、随分と経つ。しかし決定的に変わったのは、最後に鬼狩りに行った翌日からだ。日暮れになっていつものように部屋に行くと、赤彦は明かりもつけず床に座りこんでいた。
「ここにいたのに……ほんの、さっきまで。どうして、行っちゃったんだろう……」
ただならぬ気配に恐る恐る何があったのかと聞き、ぽつりぽつりと返ってきた言葉は凪人のことを言っているのだと瞬時に察した。
それから食事もろくに取らない、睡眠も十分ではない、どこか遠くを見つめてばかりいた彼は、宗一郎のことなど頭の片隅にも置いていないようだった。
そしてあの日、赤彦はいなくなった。
赤彦と凪人の間で何があったのかは知る由もない。しかしすべての原因が凪人にあるのは明らかだ。
気づけばいつの間にか大通りから外れ、裏路地に迷い込んでいた。まばらだった人影はすっかりなくなり、自分のたてる足音が異常なほど辺りに響き渡っている。
寒さもさることながら、昼間とは一転したこの閑散とした寂しさは、にわかには信じられない。知った街も別のものに見えてくる。
街灯の光りも届かないこの中を月明かりだけを頼りにして、いつも赤彦は鬼を狩るために彷徨っているのだろうか。
(何を感じながら、独りで、彼は……)
その心を共有できるのは同じ『鬼狩り』である凪人だけ。
宗一郎はそこで歩みを止めた。
飛ばされてきた広告が脚に絡まり、また風に吹かれて離れていく。高々と宙に舞い上がったそれを目で追いながら、奥歯をきつく噛み締めた。
いなくなって改めて感じた。こんなにも赤彦が好きだったのかと。彼のいない日々は世界がくすんで見える。なんの価値もないものに思えてくる。
笑顔を見ているだけでいいと考えるのは、綺麗事だ。彼を自分のものにしたい。自分だけをあの瞳に映していて欲しい。
ほぼ毎日、一つ屋根の下で寝食をともにしてきた。出会ったのは遅くても、今は凪人よりも近くにいる。それなのに赤彦は凪人のことばかりを考える。
彼に尽くし、こんなにも想っているのに、心を寄せてくれないのはなぜなのか。
「……っ!」
突然視界がぐらつき、思考が遮られた。
何が起こったのか、頭がすぐにはついていかない。
地面に腰を打ちつけ、見ればいつしか目前に男がいる。信じられないほどの力で両腕を掴まれ、ひと回りも小柄なその男に組み敷かれていた。
「何をするん……!」
宗一郎は言葉を失った。
男の顔は死人のように青白く、双眸がひどく赤い。
咄嗟に脳裏に浮かんだその存在。
(お……鬼?)
全身に舐めるような視線を這わせながら、男はごくりと喉を鳴らした。
知識はあった。
赤彦が連れてきた犠牲者の傷、そして赤彦自身が負わされた怪我のほども知っている。それでも出会ったことのない鬼というものを、どこか絵空事のように感じていた節がある。
しかし今ここにいるこれは、紛れもない現実。
「いい匂いだ。目をつけて」
正解だったなと、ただただ唖然として目を見開く宗一郎に男が口の端を上げて笑った。その口の中にちらついた、わずかに尖った犬歯を目の当たりにして宗一郎は息を呑む。
あの歯を皮膚に突き立てようというのか。
「あ……あ、あ……」
恐怖。それしか感じられない。
「暴れろよ。狩りはすんなりいっても面白くない」
我に返り、もがきはじめた宗一郎に男が嬉しそうに言う。
「やめっ……助け……っ!」
拘束されている腕は微動だにしない。脚をばたつかせても上手く男を蹴ることが出来ない。なぜ体に力が入らないのか。
「ほら、もっと」
脳天から血の気が音をたてて落ちていく。背筋に悪寒が走り、嫌な汗が浮かぶ。焦れば焦るほど込み上げる恐怖で息が詰まり、悲鳴を出すこともままならない。
男は腹部に座りこみ、抗う非力な獲物を舌舐めずりをしながら楽しんでいる。
ここは、夜は無人のビルディングの谷間。助けを呼んでも、誰にも聞こえるはずがない。
「は、放してください! 放し……っ」
その時、何かが弾ける轟音が耳を貫いた。
宗一郎は思わず身を固くして目をつむる。鼓膜を振動させたその音の余韻がまだ覚めきらない間に、体の上にずっしりと重たいものがのしかかってきた。
目蓋を明け視界に飛びこんできたのは、宗一郎の肩口に顔を埋めて動かない男の姿。その背中にある銃痕、そこから湧き出る赤黒い血液。
「何しているんだ」
聞こえてきた声に顔を上げれば、鳶色の外套を纏った長身の人影がそこに立っている。
硝煙の立ち上る銃を手にした、凪人だった。
「な……ぎ……」
言いかけた言葉が瞬時に頭から消え失せた。凪人が宗一郎を冷ややかに見下ろしている。彼のその目に射ぬかれて、一命を取り留めたという安堵よりも更なる驚愕が宗一郎を襲う。
そこに普段の彼はいない。確かに睨みつけられたことは度々ある。しかし今向けられている眼差しの威圧感は比べ物にならない。瞳の深奥にギラギラと燃えたぎる炎がある。辺りに放たれているその光は大気をもすくみ上がらせる。
まさに狩りを行う獣の目だった。
(これが、凪人さん?)
鬼を見るのがはじめてならば、『鬼狩り』を見るのもはじめてだ。
これが『鬼狩り』。
ひしひしと認識させられる。赤彦が身を投じている世界が遠いことを。
「死にたくなければ、首を突っこむんじゃねえ」
凪人は銃をしまいながら、開いた口を塞ぎもせずまじまじと見つめてくる宗一郎に言い捨てた。そして踵を返して何事もなかったように去っていく。
ふと宗一郎の頬に何かが触れ、気づけば男の体が髪の先から灰になりだしている。慌ててそれを突き飛ばして立ち上がった。
赤彦が言っていた。鬼はこの夜を彷徨う亡者。かりそめに手に入れた命を失えば、とっくに滅びていたはずの肉体は元の姿に戻っていくと。
今夜は風が強い。残った灰すら宗一郎を掠めて周囲に跡形もなく散っていく。
その光景を目にしながら、宗一郎は男の血で染められた外套の端を握りしめた。
認めたくはないが、赤彦を自分だけで捜すのには限界がある。現に明日からなにをすればいいのかも、思い当たらないのだから。
ここに赤彦のもう一つの生活を、熟知している人物がいる。
(頼るしか、ないのか)
赤彦の失踪は彼のせい。それでも背に腹は代えられない。
いまだに震え続けている脚に力をこめ、宗一郎は凪人の後を追った。
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