三章(3)
翌日、目覚めたころ時には、すでに日は傾いていた。
廊下の突き当たりの大きな窓から西陽が差しこみ、黄昏の輝きが一面を染める。窓の縁に腰かけた赤彦の影が、モザイクタイルの床に長々と伸びていた。
眼下に広がるのは、針葉樹の森と白い田園風景。見慣れた街はどこにもなかった。
昨夜は疲れ果て、眠りについたのがいつなのか覚えていない。
気づけば情事で汚れた体は、綺麗に拭われていた。それでも口付けの刻印は、消えることなく至る所に残っている。秘部も濡れているように熱く、いまだに垂氷が中にいるかのようだ。
ひどくだるい。体も意識も、覚めない甘い余韻に支配されて。
垂氷との行為を後悔しきるには、残っているそれは魅惑的すぎた。
知ってしまったこの快楽。自責の念は当然のごとく胸に渦巻く。しかし一度味わってしまうと、悲しいほど享受している自分もいる。
うっすらと結露した窓硝子に半身を寄り添わせ、赤彦は羽織っている外套の裾を握り締めた。
もう一度、抱かれたい。体はそう叫んでいる。
あれほど繰り返し快楽を貪ったにも関わらず、どこまで堕ちようというのか。
赤彦の目の前で、太陽が遠くの嶺に揺らめきながら姿を消していく。
垂氷は今、死人のように眠っている。分厚いカーテンに遮光され、偽りの夜がはびこるあの寝室で。
この日が沈めば、真の夜が来る。
(彼が目覚めて、俺はまた……抱かれてしまう)
凪人を想う気持ちを裏切り、他人に身を委ねた。その不実で淫らな自分を仕方がなかったのだと、必死に言い訳しようとしている。
しかし決して消せないこの罪と咎。
こんなにも惨めな自分の何が聖職者だというのか。人に慕われる資格など微塵もない。覚悟が甘かったのだと、まざまざと認識させられた。もう何も知らなかった日常に戻ることは叶わないのか。
「赤彦」
呼ばれても赤彦が声のした方を見ることはく、虚ろな瞳に映していたのは窓の真下に位置する荒れた裏庭。訪れつつある夜闇の中で白い冬バラが咲き乱れている。
(あの花……)
抱かれた部屋にも飾られていた。そして毎日のように赤彦のアパートに届けられていたのも、あの花。垂氷が贈り主だと知って納得した。あれに胸のざわめきを感じていたのは、こうなることを暗示していたのかもしれないと。
「こんな所にいたのですか。目が覚めて貴方の姿が見えなかったので、すべて夢だったのかと……」
手に手を重ねられ赤彦がようやく顔を上げれば、垂氷が切なげに眉を寄せてそこにいる。
気づかない内にも彼の目は、絶えず自分に向けられていた。秘かに情欲に身を焦がす浅ましい心を知りながらも、ずっと想っていてくれたというのだろうか。
抱かれながら何度も囁かれた、「愛している」という言葉が耳に残っている。その疼きは心地よい。
「体は辛くありませんか?」
垂氷は腰を屈めて座る赤彦に唇を寄せ、呟きに紛らせ口付けをする。
「こんなにも凍えて……」
窓辺の露で濡れた赤彦の髪を撫でつけながら、赤彦の下唇を自分のそれで軽く挟み、一度放してはまた同じことを繰り返していく。愛しくてたまらないと言わんばかりに。
凍えていたのは、体ではなく心の方。
「大丈夫。君が……温かいから」
赤彦の唇から漏れた呟きに、垂氷の目元が綻ぶ。次の瞬間、赤彦は胸の中に抱き寄せられていた。
肩を覆う死者の冷たさを持つこの腕に、耳を押し当てても鼓動も聞こえてこないこの胸に、言いしれないぬくもりを感じる。錯覚ではなく、それは確かに存在した。
(もう、やめよう)
簡単なことだ。逃れられない罪ならば、諦めてしまえばいい。
自我を手放して心を止めてしまえば、思い煩うこともないのだから。
ここにいれば彼が包み込んでくれる。ずっと、やさしく。
「何がどうなっても、いい……」
赤彦は目蓋を伏せ、自分に言い聞かすように口の中で呟く。そして震える唇をきつく結び、垂氷の胸に額をすりつけた。
しばらくして誰もいなくなったその場所を、太陽の代わりに空に現われた月が照らした。光を受けて、窓辺にほの白く浮かび上がったのは赤彦のロザリオ。
悲しげに、しかし何かを語ることも出来ずそこに置き去りにされている。
◆ ◆ ◆ ◆
「あれが『神父』だと、主(ぬし)は言うのか? 信じられん」
「胸に揺れたロザリオを、なんと説明する。あの方の御考えは分からぬゆえ、あながち憶測とは言えん」
「兎にも角にも、あれにひどく御執心の様子」
高々とそびえ立つ針葉樹が、おどろおどろしい音を立てて枝葉をしならせる。空が覆い隠され暗闇が広がるその中で、姿の見えない三つの不穏な影が囁き合った。
「人に心を奪われるとは、実に嘆かわしい」
「扱いにくいだけではなく、そこまで『彼』と同じか」
類い稀なる力を持つ男は、なぜにこうなるのだ。
とんだ腑抜けになったものよ。
「否、暇を持て余された上での、戯れに過ぎぬやもしれん」
忌々しげに吐き捨てる二つの影を、残りの影が冷静にたしなめる。
「あれの容姿、確かに慰み物には丁度良い」
その言葉に下卑た忍び笑いを漏らし、いきり立ちすぎたと影達は弁解した。
「『神父』かと、懐疑するのもまだ早い」
「ならば、しばし様子を」
密談は終わり彼等の気配は周囲に溶け込むように消えはじめ、穏やかな夜が森の中に戻りかける。
突然ふとヒバリがけたたましく鳴き叫んだ。聞く者の不安を掻き立てる不気味なその声が、どこまでも木霊していく。
「しかしあの御執心ぶり、油断はできぬ」
何ぞ。
忘れたわけではあるまい。かつての苦い記憶を。
否。忘れるはずがあろうか。
立ち去ろうとしていた影達が動きを止め、誰ともなく呟きを漏らす。
「あの方まで……血を分け与えると、言い出されなければ良いが」
核心に触れたその刹那、三対の赤い光が闇の中に煌々と閃き暴風が渦を巻いた。どす黒い怒りの念が辺りに充満し、大地を揺るがす。
血を分け与える、それは禁忌だった。自分達を選び抜かれた者と、信じて疑わない彼等にとって許しがたい行為。
「主等、だとしたらどうする?」
地の底から沸き上がるしゃがれた声が問い掛ける。しかし答えはすでに出していた。それはただ、合意を求めるために発せられただけ。
「知れたこと」
一瞬の間を置き、彼等の内だけで理解できる剣呑な暗号が交わされる。
「あの時のように」
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