三章(2)
赤彦は、明かりのない廊下を突き進む垂氷の後を追っていた。足下すら見えないその中に浮かぶ、彼の青白い横顔だけを頼りにして。
ここは垂氷の自邸なのだろうか。床に靴音を響かせて、黙々と行く彼は何も語らない。
彼に導かれて足を前に踏み出すたびに、闇はより深くなっていく。どこからともなく流れてくる隙間風が建物に入った時から、絶えず赤彦の髪を揺らし頬をくすぐっていた。
一つ一つの要因が赤彦の胸を掻き乱す。
(……何を、今更)
小さくかぶりを振り、躊躇う自分をたしなめた。
ふと垂氷が立ち止まり、赤彦もそれに習った。
目を凝らすと、彼の前に扉があるとかろうじて分かる。触れただけでそれは重々しい音を立てながら、ゆるりと開かれていった。
突然、赤彦の視界に明かりが広がった。
それは月光だ。窓から差しこむ下弦の月の蒼い光が、室内に降り注ぐ。わずかな輝きにも関わらず、暗所に慣れた目は眩しさを感じずにはいられなかった。
湿ったほこりの臭いが漂う。そしてこの静寂。ここの時は、遠い昔に止まってしまったかのように見えた。その中で、卓の上に活けられた白い冬バラの花束だけが、鮮やかに生を放っている。
赤彦は歩み寄り花弁に触れた。それはここしばらくの間ですっかり見慣れたものと同じ。
(ああ、だから俺は)
背後から外套を脱がされ、見れば側に垂氷がいる。
彼は近くの椅子の背に外套を掛けると、頬に触れてきた。赤彦を赤い瞳に映し、指先で髪の生え際をくすぐっていく。車の中で赤彦の体温に馴染んだその手は、今はまた冷たくなっていた。それとは裏腹に、目はまるで燃え盛る炎を見ているよう。
彼が自分に欲情しているのは明らかだった。あの晩よりも熱く、そして確実に。
赤彦は眼差しから逃れようと伏せ目がちにうつむいた。しかし垂氷はかまわず、片腕を腰に絡ませて自分の元へと引き寄せる。
「……やめてくれ」
「それなら、なぜ私について来たのですか?」
久しぶりに発せられた彼の声は、平静を装いながらも上気している。
「貴方は、何を望んで……」
耳の中に甘く囁かれ、体に戦慄が走る。
唇が耳からこめかみに、そして頬へと落ちてくる。そうして辿り着いた赤彦の口唇に、彼のそれが重ね合わされた。
顔を背けようとするが、頬に添えられた手の平が抵抗を許さない。垂氷は赤彦を上向かせると、もう一度、唇を重ね直した。
やわらかな感触を堪能する長く静かな口付け。同時に服の上から腰を愛撫され、赤彦の四肢から力が抜けていく。崩れそうになった体を垂氷が抱き寄せた。
部屋の大半を占める天鵞絨の天涯に覆われた古めかしいベッドは、通されたのが寝室だと告げている。これから行われることは分かっているつもりだ。赤彦はそれを求めて自らここに来た。
しかし胸に立ち篭める暗雲は拭い去れない。
物憂げに歪みだした赤彦の顔を、真摯に見つめて垂氷が囁く。
「やさしくします。恐れないで」
天涯の中へ赤彦を寝かせ、垂氷は衣服の釦をつま弾くように外していく。下へ下へとゆっくりと。そうして下着が足の爪先から離れていく。
「綺麗だ」
裸体をまじまじと見つめられ、赤彦は思わず顔を腕で覆い隠した。
「震えていますね」
肌に触れる彼の指先の温度と暖のない部屋の空気が、赤彦をよりいっそう震わせる。
垂氷の手が赤彦の腕を掴む。顔から退かすや否や、彼は固く結ばれた唇に猛然と食らいついた。
「……ん、んっ」
痺れるまで舌をなぶられ、艶かしい音が赤彦の鼻から抜けていく。何度も唇を重ねる角度を変えてはねっとりと歯茎や口蓋を舐め回され、飲みこみきれない唾液が口の端から流れて顎まで伝っていった。
息もつけないほど濃厚な口付けに赤彦の肌はほのかに色付き、瞳が潤みだす。しかし翻弄されながらもいつの間にかその感覚に夢中にさせられている。ようやく解放された時には、知らず知らずの内にうっとりと溜め息を漏らしていた。
震えることも忘れた赤彦の様を確認すると、垂氷は自らも服を脱ぎながら、今度は白い胸に口付けを浴びせていく。
やさしく啄み、時折きつく吸いついて花弁のような紅色の痕を残す。やがて全裸で被さると、脇腹に添えた手の指を妖しくうごめかせ、皮膚の上から骨と筋をなぞる。
繰り返される唇と指先の執拗なその愛撫。
今まで知りえなかった触れられ方を、垂氷が一つずつ体に刻みこんでいく。
身をよじると彼の肌に下半身がこすれ、自分がすでに高ぶっていることに気がついた。
「可愛い人だ。もうここをこんなにして……」
垂氷はさも嬉しいものを見つけたとばかりに呟く。
体を下方に滑らせていき、張り詰めた赤彦のそれにひたりと舌を押しつけた。
「だっ……め!」
信じられないところを舌が這う。一度も触れられていないのにはやくも兆しを見せ、先走りの雫まで滴らせていることだけでも恥ずかしいのに。居たたまれず赤彦はシーツに爪を立て、目蓋を伏せた。
それでも垂氷は赤彦の欲情を赤彦自身の知らしめるように、輪郭をゆるりとなぞっていく。先端を浅く銜えてわざとらしく音を立てながら、溢れる蜜を吸ってみせる彼が恨めしい。羞恥を煽られ赤彦は頬を染め、四肢を硬直させた。
一通り舐め回すと垂氷はそれ以上追求せず、何事もなかったかのようにそこから離れていく。赤彦の片脚を軽く持ち上げ、腿から爪先の方へと唇を移動させた。
(……嫌)
通り過ぎていった後に残るのは安堵ではなく、愛撫への未練。
欲しいところではない場所に念入りに口付けをほどこす垂氷を、赤彦はうっすら開けた目で見つめ、そっと唇を動かした。
(もっと……)
しかし口走る寸前に我に返り、慌てて言葉を呑みこんだ。淫猥な衝動に流されていくあられもない自分が恐ろしい。
垂氷が動きをぴたりと止め、赤彦の顔を横目で見ながらにんまりと笑う。向けてしまったねだるような眼差しを彼は見逃してはくれなかった。
「御所望とあらば、いくらでも」
垂氷が赤彦の脚を左右に大きく開き、股間に顔を埋める。
「あ……ぁ……っ」
赤彦の唇からかすれた嘆声が溢れた。
脳髄まで溶かすようなその心地よさはひとたまりもなく、思わず垂氷の髪に指を絡めてしまう。
根元からじっくりと味わうように舐め上げて、先端に行き着くと口に含んでした舌先でくぼみを刺激する。赤彦が達しそうになると愛撫を緩め、そうしてまた掻き立てていく。
何度も焦らされ目眩を覚える。熱が行き場を求めて悲鳴を上げているのに、垂氷は喘ぐ赤彦の反応を楽しむように口の中で弄ぶ。
「……も……う」
赤彦は弾む息の切れ間に切なげな声を上げながら、垂氷の髪をぎゅっと握りしめた。
「お願、い……だから……」
はしたなくても自分ではどうすることも出来ず、彼に縋るしか術はなかった。
啜り泣くように懇願してくる赤彦に垂氷はようやく満足して、唇で扱く動きを速め絶頂へと導いていく。
「……っ」
抗えないその激しさに赤彦の背筋がぞくりと痺れる。
刹那に白濁を垂氷の口膣に吐き出して、深々と溜め息をつきながら果てた体をベッドに沈ませた。
垂氷は受け止めた液体を喉を鳴らして飲み込むと、赤彦の性器から口を放す。
「とても良い声で鳴く。もっと……」
言葉を終える前に内腿にしゃぶり付く。興奮を抑えきれないとばかりに。
「もっと聞かせて下さい」
「たる、ひ……っ」
休む間もなく赤彦の秘部に唇を寄せ、彼はぬるりと舌を挿入した。
入れたかと思えば突然引き抜かれ、全身が総毛立つ。制止を請うように赤彦は首を左右に振った。それでも垂氷は唇を密着させ唾液を流し込みながら、入り口をほぐすように舐めていく。
自分でも触れたことのないそこでうごめく舌の生々しさに、性器をなぶられた時のような心地よさは到底感じられない。押し寄せる不気味な感覚から逃れようと身じろぐたびに、シーツが汗ばむ体に纏わりついて赤彦の自由を奪う。ただ虚しく布ずれの音が響くだけだった。
息を詰まらせながら「やめて」とうわ言のように呟いても、垂氷は聞く耳を持ってくれない。
「……んっ」
更に深部に侵入してきた異物が、垂氷の指だと気づくのに時間はかからなかった。
内壁をこそしてすり上げ、弧を描くようにかき回し、抜き差しを続けていく。赤彦に痛みを与えないようにと慎重に。
次第に触れられている部位に甘い疼きが生じてくる。異物を拒んでいたはずなのに、内側からじりじりと滲み出てくる狂おしい熱が、確実に赤彦を捕えていく。
「あ……ん……」
自分に起こった変化に戸惑っても、唇からは濡れた声をこぼしてしまう。
垂氷は指を秘奥で動かしながら体を起こし、抗うのをやめ大人しくなった赤彦の顔を覗き込んだ。
「良くなってきたようですね」
言いながら指の数を増やし、じんわりと中を押し広げていく。それはもう快感でしかなかった。とろけるような波に揉まれて、おかしくなりそうだ。しかしもっと良くなりたくてたまらない。
一度精を放ったにも関わらず、ふたたび熱が集まり出した性器は蜜を流して股間を濡らす。些細な刺激も逃すまいと、卑しく彼の指に粘膜が絡み付いていくのを感じる。
「なんて淫らで、美しい……」
赤彦の艶かしさに見蕩れていた垂氷は舌舐めずりをした。
月に照らされて赤彦の反らした喉に浮かぶ汗が蒼くきらめく。胸を上下させ、力なく開いた唇から白い息を小刻みに吐き出している。喜びにひくひくと痙攣する肢体は彼の牡を目覚めさせる。
垂氷は待てないとばかりに指を引き抜き、代わりにそそり立つ自分のそれをあてがった。
時間をかけてほぐされたそこは、拒まず彼を飲みこんでいく。
指とは比べ物にならない質量に圧迫され、赤彦は苦しさに眉を寄せた。それでも薄い粘膜同士が重なり、こすれ合い、言い知れない快感を呼び起こす。
体の力をわずかに緩めた途端、垂氷がいっそう腰を進めてくる。やがて根元まで埋め、赤彦の最奥を侵した。
「貴方は私に純潔をくれた」
髪を撫でながら、恍惚として垂氷が呟く。
「この契り、決して消えることのない事実だ」
赤彦の虚ろな目に影が揺らめいた。
失ったのは自分自身。
この淫らな行為はこれまで固く守ってきた信条、礎を崩していくもの。
垂氷が赤彦の睫毛の先に唇で触れてくる。思わず目を伏せると目蓋が震えた。そのままシーツに頬をすり寄せながら、赤彦は逃れることの出来ない自分の罪を噛み締めた。
「そして私が分け与える……いや、徐々に理解していけばいい」
垂氷の顔に狂気がちらついたのはわずかな間。
「今はただ、私を感じて下さい」
すぐに彼は笑みを浮かべると、投げ出された赤彦の両脚を抱え上げ、縛めの杭を動かしはじめた。
赤彦の憂う意識は次の瞬間、快楽の渦の中に飲みこまれた。願い通りに何も考えられず、すべてを忘れて。
残酷なほど甘く緩やかに、何度も体の芯を突き上げられる中で、赤彦の唇から一人の男の名前がこぼれた。
そのことにも、一瞬、垂氷の顔が強張ったことにも気づかず、夜が明けるまでそこにいたのは本能のままに乱れた獣。
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