三章(1)
「主よ永遠の安息を彼に与え、絶えざる光を彼の上に照らし給え。彼の安らかに憩わんことを……」
墓前で鎮魂の祈りを終え、赤彦は唇を閉じた。
教会脇の墓地に、弔いの鐘が鳴り渡る。けたたましくも厳かに、湿った空気を振動させる。
遺族の方へと向き直った赤彦の胸に、夫を失った婦人が泣き崩れてきた。なりふりかまわず自分の胸を濡らしていく彼女の震える肩をさすってやりながら、赤彦ははるか高い天を仰いで息をついた。
死んだのは、よく知った男だった。
墓の上に咲いた寒木瓜の花と花の間から覗く空に日輪の姿は見当たらず、正午を回ったばかりだというのに辺りは薄暮と変わらない。悲しみを感じられない赤彦の代わりに、立ち篭めた雲が今にも水滴をこぼしてくれそうだ。
やがて婦人は親族に支えられて去っていったが、赤彦は空を見上げたままその場からいっこうに動こうとしなかった。
「今井神父」
いつしか側に立っていたシスターに呼ばれ、我に返り赤彦は彼女に視線を向けた。
「このところ、憔悴しきっていらっしゃる」
初老の彼女は、顔のシワを更に深くして表情を曇らせる。大丈夫と頷きながら、かすかに笑みを作って見せた。
「そう、見えるかい?」
目の前で起こる出来事が、すべて体をすり抜けていく。人の死も、そして自分の口から発せられる祈りの言葉でさえも。しかし心を表に出しているつもりはなく、他人に知られているなどとは思いもしなかった。
「神父は、いつもお一人で……」
神父としての、人としての業を疎かにする赤彦をたしなめるわけでもなく、彼女は優しく声を掛ける。
「悩みをご自分の心だけに留めないでください。私達ではお役に立てないのでしょうか?」
小雪の混じった寒風が、赤彦の神父服をはためかせる。
「中に入りましょう」
浮かべた笑みを消し、ふたたび遠くを見つめはじめた赤彦の背を押してシスターが促した。
凪人を最後に見たあの日から、どれだけの時が経っただろう。随分と日にちを重ねたと思うが、彼の言葉は昨日のことのように覚えている。
葬儀の後の雑務をすませ夕暮れ時、アパートに帰ってきた赤彦は自分の部屋の前に立っていた。戸を押すと鍵はかかっていない。なんの抵抗もなく開いていく。訪問者がいることを知り、抱きそうになった期待を押しとどめたが、部屋に入ると赤彦は無意識に辺りを見回してしまった。
「お帰りなさい、赤彦さん」
待っていたのは、やはり宗一郎だった。落胆すると分かっていても、凪人の姿を探すのが習慣になっている。
教会での一日を終え、アパートに帰る。そしてまた朝を迎え、赤彦は神父服に袖を通す。日付けを数えなくても朝と夜は交互に訪れ、何も変わらず空々しく日常は駆け抜けていく。
赤彦は宗一郎にかすかに頷き、外套を脱がずに長椅子に身を沈めた。
窓にはすでにカーテンが引かれ、室内に小さく電燈が灯っている。明かりの下で宗一郎は、食卓に花束を活けていた。
彼が手にするその白い冬バラの花束は、今日のような薄暗い日に必ず部屋の前に置かれていた。いまだに誰から贈られてくるのか分からないそれを見ると、赤彦の胸はなぜかざわめく。
「食事にしますか?」
花に視線を向けていた赤彦と目が合い、宗一郎が屈託なく笑った。
そして嬉々として夕食は赤彦の好物だと、赤彦の探していた本を古本屋で見つけたとまくし立てる。彼の声を赤彦は黙って聞いていた。
内容は理解しているつもりだ。しかし感情がついていかない。
「宗一郎、独りになりたいんだ。悪いけど……」
話が途切れた間に、赤彦は顔を背けて呟いた。
宗一郎は口を噤み、しばらく神妙な面持ちで赤彦を見つめていた。やがて何かを言いたげに眉を寄せたが、結局、帰り支度をはじめた。外套を着込みながら赤彦をちらちらと横目で見ても、ふたたび目が合うことはない。
「ちゃんと寝てください。それと、少しでもいいので食べてください」
それだけ言い残し、彼は部屋を出ていった。
宗一郎の足音が遠ざかるのと連動するように、いよいよ雲の中の日は落ちて室内に濃い闇が広がっていく。その中で健気に抵抗を見せる電球の緋色の光が物悲しい。
顔をしかめた赤彦は長椅子から立ち上がり、窓辺の鏡に吸い寄せられると自分の像に手を重ねた。
そしてそっと唇を寄せる。
以前はそれだけで満たされていたにも関わらず、今そこにあるのは人のぬくもりとはほど遠い冷たい硝子でしかなかった。
体が覚えている凪人の指の感触に思いを馳せ、赤彦はで自分の肩を抱き締めた。
あの日、凪人に抱き締められて、心底嬉しかった。他人に求められる喜びを知らしめられ、同時に拒絶される絶望を味あわされた。
いとも簡単に壊れてしまった七年近く彼と築いてきた関係は、すべて戯れだったのだろうか。
(どうしてこんなにも突然、何もかもが変わってしまったんだろう……)
理由も分からないまま一方的に突き放され、胸に風穴が開いていた。そこから日に日に、心が崩れていく。友人としてでもいい。ただ凪人の側にいたい。たったそれだけの願いも、彼は聞き入れてくれない。
赤彦は嗚咽を噛み殺しながら、鏡に額をこすりつけた。
疲れていた。答えの出ない問いを繰り返すことに。悶々とした日々は、いつまで続ければいいのか。
左胸が痛くてたまらない。
「助けて……」
唇から溢れた息が鏡を曇らせる。
弱い心は剥き出しになり、何かの支えを必要としていた。だが祈りの言葉も聖典の教えも赤彦を癒してはくれない。神を見失っているこの愚かな自分の救いに、誰がなれるのだろう。
その時、赤彦は息を呑んだ。鏡に触れる唇がかすかにわななく。そしてそっと振り向き、彼は戸を見つめた。
部屋を叩く音が響いたような気がした。
信じるだけ傷は深まる。それでも甘い期待を捨てきれるほど、頑なにはなれない。
赤彦は咄嗟に駆け出し戸に縋りつく。はやる気持ちを抑えることも忘れて、勢いよく開け放った。
瞬時に外気が肌に突き刺さる。背筋が震えたのは室内との温度差のせいだけではない。
「……垂氷」
目前に立つ男を、赤彦はその名前で呼んだ。
垂氷は赤彦の瞳を真直ぐに見据えている。想像もしていなかった訪問に、赤彦は戸の縁を握る手すら動かせずただただ彼に視線を返していた。
「外に車を待たせてあります」
垂氷は静かに告げる。
彼との記憶が赤彦の脳裏によぎり、たった一言が赤彦を捕えた。
強制はしていない。垂氷はあの晩のように、また赤彦に道を選ばせている。それでいて、すでに確信している。まるで心を見透かしているように。
垂氷は背を向け、赤彦を残して立ち去っていく。階段を降りる彼の足音を聞きながら、体がふらりと崩れていき赤彦は床に膝をついた。
気づいてしまった。
すべてを忘却させてくれるものがあると。思考も許さないほど、圧倒的な力でもって。
それは救いの光というよりも、闇への堕落。
赤彦に魔がさす。今はただ楽になりたいと心が悲鳴を上げていた。
アパートの前に、煌々と前照灯を光らせる黒い車が停められていた。
赤彦の部屋から降りてきた垂氷は、排気口から吐き出され辺りを満たす煙に足を埋めながら後部座席の戸を開いた。乗り込むと悠然と腰を下ろして長い髪をかき上げる。
戸は開け放たれたままだ。
しばらくして車の踏み段に足が掛けられる音が彼の耳を掠め、同時に車体がわずかに揺らめいた。
座席に腰を下ろし、自ら戸を閉めた赤彦を視界の端で確認すると、唇を歪めて垂氷が笑う。そして赤彦の手を握りしめた。
赤彦は垂氷を見ず、窓の外に視線を向けていた。窓硝子に映り込む自分の顔は憂いに沈む。しかしもう後戻りはできない。
赤彦を掴む垂氷の手に、力がこもる。
「行って下さい」
走り出した車は街を出て、見なれない土地を突き進んでいく。
長い沈黙の中で、垂氷の冷たい手の平が自分の体温に徐々に馴染んでいくのを感じながら、赤彦は夜に包まれた流れ行く景色を放心して見つめていた。
一時間ばかりが経ち、やがて行き着いたのは針葉樹の森に囲まれて、ひっそりとたたずむ朽ち果てた瓦屋根の洋館だった。
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