赤色

 

二章(9)

 
 目の前に母親がいた。
「そっくりね……」
 格子越しに見る顔は悲痛に歪み、声は我が子に向けたものにしては、あまりにも冷たすぎた。
 そっくり。誰にとは聞かなくても分かる。凪人は無言のまま、彼女を凝視していた。

 幼い頃から、暗い座敷牢に幽閉されてきた。自らの放つ悪臭で満ちる三畳ほどの狭いその空間にただ独り、まるではじめからこの世にないもののように隔離されていた。
 与えられていたのは薄い着物が一枚と、格子の隙間から差し出される粗末な食事。運んでくる使用人は、誰もが凪人に汚らわしい物を見るような目を向けて罵った。
 化け物と。
 自分は旧家『六條』に嫁いだ女が、鬼に孕ませられた子供。忌わしい鬼と人の間に生まれた混血の凪人は、同様に忌むべき存在。もたらさせた知識は少なくとも十分すぎた。
 過酷な仕打ちの中で泣き叫ぼうともしない、体が衰えることもない。時折、自分の手首に食らいついて気を失うまで自らの血を啜る凪人を、彼等が怯えるのはもっともだ。凪人自身が一番恐ろしかったのだから。
 血を貪ると、そのまま死ぬのではないかと思わずにはいられなかった。
 いつ失うか分からない命。殺されずにいることも不思議だった。失ってしまった方が楽になれたのかもしれない。それでもやはり生きたいと望んでいた。
 貧血で意識が朦朧とする中で必ず胸を締めつけたのは、感じたことのない人のぬくもりへの憧れ。
 何も分からなくなるくらい、何も考えられなくなるくらい、強く誰かに抱き締めて欲しかった。

「一度は、あの人を……」
 後の言葉は聞き取れない。座敷牢の前にたたずむ母は、それを最後に口を噤んだ。しかし目は凪人を映し続け、いっこうに立ち去る気配は見られなかった。
 十数年も自分を放っておいた彼女が、何を思って突然現れたのかは分からない。名乗らなくても、どこか懐かしさを感じずにはいられなかった彼女が、母親なのだと瞬時に察した。
 かつて自分を手篭めにした鬼の面影を、凪人に重ねて見る彼女の瞳には影がちらつく。それはいまだに続く苦しみ。
 彼女に恨みを持てるはずがなかった。今まで触れてさえくれなかったのに、それでも母親の愛情を欲していた。
「お前を苦しめた鬼は、俺が息の根を止める」
 凪人は誓った。その鬼を殺した時、彼女が笑い掛けてくれるのではないかと淡い期待を抱いて。
 自ら負った『鬼狩り』の枷。鬼の血を体内に流す凪人がそうするのは、人であるという確信を持ち続けるためにも必然だったのかもしれない。
 遠く離れた土地に辿り着き、夜な夜な街を徘徊し、凪人は出会った鬼を容赦なく切り刻んでいった。彼等の苦痛と恐怖に歪んだ顔を見ると血がたぎり、心が狂喜する。この狂った性分は仕方がない。それ以外に生きる目的を知らないのだからと、自分に言い聞かせてきた。

 月日は流れ、あれからもう十五年近くになる。
 母親を見たのはあの一度だけ。それでも脳裏に焼きついている。悲しみに支配された顔が、冷たすぎた声が、想像の中だけでも決して愛してくれないその姿が。
 定期的に金が送られてくるが、便りのひとつも出していない。受け取ることで彼女に自分が今もなお生きていることを知らせているつもりだった。
 しかしそれが、どれだけ彼女の胸に留められているものなのだろうか。
 自分に似ているという『父親』を、凪人はまだ見つけていない。


◆         ◆         ◆         ◆

 夢が途切れ、目が開いた。
 何か懐かしいものを見ていたような気がするが、夢の内容は思い出せない。
「……っ」
 ただ漠然とした悲しみだけが残っている。
 凪人はわけも分からず乱れる心をやり過ごそうと両手で目を覆い、唇をきつく噛み締めた。
 その中でふっと耳に聞こえてきたのは、安らかな寝息。
 音に誘われて手を退け、顔を横に倒すと側で赤彦が突っ伏して眠っていた。
(ここは、どこだ……?)
 自分はなぜここにいるのか、状況がにわかには把握できなかった。しかし乱れた心の方は彼の横顔を目にして、いとも簡単に治まっていく。
 体を動かすと脇腹が引き攣り、早朝に赤彦の部屋に転がりこんだことを思い出した。
 室内は薄暗い。
 閉じられたカーテンに空から落ちる雪片の影が、朧げに映りこんでいる。すでに夕刻が近いのだろうか。日の光の強さは感じられず、体のけだるさは今朝ほどではなかった。
 凪人は上体を起こし、掛けられていた毛布をよけた。腹部の包帯は新しい。わずかに痛みは残っているものの、血はとっくに止まっているようだった。
(ずっとお前が看て……? 俺がいろと言ったからか?)
 赤彦を横目で見ながら凪人は眉をひそめた。
 眠る前に、なぜ彼にあんな言葉を投げ掛けてしまったのだろう。普段ならば決して口にしない。衰弱した体が、意識までをも弱気にさせていたとしか考えられなかった。
 それでも赤彦は当然のことのように、不審な自分の言動に応え手を握ってくれた。
 今回に限ったことではない。彼ははじめて凪人に笑いかけてくれた人。惜しみないあたたかな愛情を持って。手は常に差し向けられている。凪人がそれを受け取れないだけ。

 凪人は赤彦に顔を近寄せた。唇を重ねようと、眠る彼をじっと見つめる。
(何しているんだ、俺は)
 しかし馬鹿げた行為を鼻で笑い、赤彦に触れる寸前で体を引くと、唇の代わりに片手を彼に伸ばした。
 あの鬼が奪ったという唇を、自分のものにしたかったのだろうか。
 やわらかな髪を撫でながら、鼓動が高鳴っていくのを抑えきれなかった。
 胸に渦巻くのは嫉妬だ。
 想いを秘め続けるのは、もう限界なのかもしれない。赤彦の愛は誰にでも分け隔てなく注がれるものだと分かっていながら、優しくされるとつい彼も自分のことをと錯覚してしまう。
 知らず知らずのうちに、彼の名前が口からこぼれていく。
「赤ひ……こ……」
 ひどくかすれたその声。それは先程まで眠っていたからではない。凪人は自分の口を手で覆った。
 全身に悪寒が走る。気がついてしまった。今、自分が人でないことに。
 体の奥底からギラギラとした欲望が、物凄い勢いで沸き上がってくる。赤彦に流れる血液の音が耳元で聞こえ、目が彼の無防備な白い首を捕えて放さない。鼻につく甘い匂いは、成熟した生命の香り。
 『飢え』ている。

 すっと凪人の目が据わり、中に赤色の光がかすかに灯った。赤彦にふたたび手を伸ばし、首筋に透ける淡青の静脈に震える指を這わせていく。
 この滑らかな肌に吸いつき、食い破り、命を飲み干したらどんなに彼を感じられるだろうか。赤彦の血が体内に溶け、彼と自分は一つになれる。
(簡単なことだ。赤彦を俺のものにしたいなら……)
 くすぐるように愛撫され、赤彦が目蓋を開ける。
「凪人? 起きたんだね。よかっ……た」
 ゆっくりと顔を上げ、凪人を虚ろな瞳で見上げると、まどろむ声で呟いた。
(奪ってしまえばいい)
 汚い囁きが凪人の脳内を蹂躙する。
 首に触る凪人の手に手を重ねながら赤彦は伸び上がり、自分に見入っている彼を覗きこんだ。
「寄る、な……」
 かすかに聞こえてきた言葉に赤彦の表情が怪訝に歪み、更に顔を近寄せて問いかける。
「傷が痛むのかい?」
「寄るなっ!」
 絞り出した声を張り上げ、凪人は赤彦の肩を掴み強引に抱きすくめた。
 赤彦が息を呑む音が耳を掠める。それでも構わず首筋に顔を埋めて肌に唇をすり付けた。獣のように呼吸を荒げて、舌を押し当て貪り舐めていく。ここから流れるものが欲しいとせがむように。
「凪人……」
 激しく求められて赤彦が恍惚とした声を漏らす。そして躊躇いもなく凪人の背に腕を回し、身を委ねた。
 その抱擁はあたたかだった。自分の思惑など知らず、応える赤彦の優しさが伝わってくる。
 失いたくはない。この愛しいぬくもりだけは。

「くっ!」
 わずかに残っていた理性が押しとどめ、咄嗟に凪人は赤彦の体を引き剥がした。
 突き飛ばされて床にへたり込み、赤彦が唖然と見つめてくる。肩をぜいぜいと揺らしながら、再度、伸ばしかけた手を血が滲むほど強く握りしめ、凪人は彼から顔を背けた。
 そうしている間にも、『飢え』は留まることを知らずに膨れ上がっていく。喉がひどく乾いていた。
「寄るんじゃねえっ!」
 視界の端で赤彦が動き、すかさず凪人が叫ぶ。赤彦はびくりと体を震えさせて、それ以降、微動だにしなくなった。
 ここにいてはいけない。
 しかし赤彦から離れるのは至難の技だった。
(せめて……せめて、ほんの少しの間だけでいい……消えてくれ!)
 自分の中の『鬼』に願う。
 本能が突き動かす欲望を押し殺しながら、凪人はゆらりとベッドから降り立った。
 足取りはおぼつかない。何度もつまずきそうになるが、一歩づつ足を前に踏み出していく。果てしなく続くのではないかと思わせる部屋を出るまでの道のり。椅子の背にかけてあった自分の外套を掴み、ようやく戸に行き着くと、赤彦に背を向けたまま乾ききった喉から声を引き絞る。
「お前とは、もう……二度と会わない……」
 いや、会ってはいけない。
 未練を断ち切るように、凪人は力任せに戸を開け放った。

 朝に姿を見せていた日も、今は厚い雲の中。灰色の空からは教も重たい雪が降る、何もかも覆い隠し、残酷なほど静かに真綿の雪が世界に降り積もる。
 凪人の唾液で濡れた首筋に外気が纏わり、赤彦を身震いさせた。
 大丈夫だ。太陽さえ見えなければ、少しばかり体が辛くとも、凪人は無事に帰ることができる。彼が走り去っていった戸の先を凝視したまま、そう思いを巡らす赤彦の頬を一筋の涙が伝う。
 冷静であったならば気づいたかもしれない。凪人が『鬼』に支配されていたことに。薄暗い室内で、彼の瞳がかすかに赤く見えたことに。
 しかし今は、もう知るよしもない。
「どう……して?」
 こぼれた言葉は、涙とともに床に滲みて消えていく。答えてくれる者は、どこにもいなかった。
 

 

 

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