二章(8)
ほの暗いランプの明かりが、垂氷の青白い顔を闇の中に浮かばせる。
椅子の背に体を預け目蓋を閉じる彼に表情はなく、呼吸すらしていないように見えた。
眠りから覚めて間もない垂氷は微動だにせず、ただ身に感じる気配に気を注いでいた。神経は部屋の端々まで張り巡らされ、壁を這う蟲の数までをも把握できている。
その中で、気づかないわけがなかった。
「いつまで、そこにいるつもりだ?」
ひくりと眉間を引き攣らせ、垂氷は何も見えない部屋の隅に声を投げた。
どこからともなく流れてくる隙間風が、彼の髪をかすかにはためかせる。音はそれだけ。垂氷の問い掛けもなかったように室内は静まっている。しばらく闇は黙っていた。
「流石に察しがよろしい」
やがて聞こえてきた称賛の声は、ひどくしゃがれていた。
ふっと濃い影が揺らめき、刹那に三対の赤い目が暗所に灯る。それは音も立てずに垂氷の側に近づき、ランプの光を受けてようやく人の姿をあらわにさせた。
垂氷は目を開き、眼球だけを動かして彼等を一瞥した。
自分を変わらない青白い肌を持ち、不気味な時の底知れなさを臭わせる。
彼等は『老鬼』と呼ばれる者達だった。
背格好はさして変わらず、しわが深く刻まれたその顔は個々の判別が難しい。しかし垂氷にはどうでもいいことだ。
「私の屋敷に無断で上がりこむ許しを、出した覚えはないが?」
垂氷が自分達を快く思っていないことを、彼等は十分に理解していた。それでも別段、気にする様子はなく、胸に手を当てうやうやしく頭を下げてみせる。
「今朝がた、『鬼狩り』とお手を合わせたと聞きまして」
「耳が早い」
腰の低いその態度は垂氷の鬼として生きてきた歳月と、それを重ねるごとに研ぎ澄まされていく力に恐れを抱いているため。外見は若くとも、垂氷の方が遥かに長きを過してきた。
「して、どちらの?」
「貴方に傷を負わせるほどの輩ともなれば、『混血児』か」
「それとも『神父』か。奴等以外には考えにくい」
頭を下げたまま上目遣いに垂氷を見て、老鬼達は次々と口を開く。
頬に傷はすでに癒えているものの、肩と腕の方は思うよりも深く、だいぶ塞がったとはいえ完治とまではいっていなかった。
服の上からはまったく分らないその痕跡。しかし彼等は見抜いていた。
「目もいいようだ」
垂氷は一笑した。
「いずれにしろ、このままで済ます貴方ではないはず」
皮肉に対して老鬼達は薄笑いを浮かべて返す。聞き取りにくく耳障りな声は、どす黒い期待の念に満ちていた。
彼等を見ていると胸が悪い。垂氷は頬杖をつき老鬼達から顔を背けた。
「数多いる『鬼狩り』の中、奴等は別格。ここしばらく、我々の心休まる時はない」
「貴方が動き出したならば話が早い。両者共々、葬っていただきたいのです」
訪れた好機を逃してなるものかと、彼等はまくし立てる。
「我々だけでは難しいことです。『神父』に関しては能力はおろか、顔すら分らぬゆえ」
『鬼狩りの神父』の噂が、街の裏で囁かれはじめてから随分と経つ。しかし伝えられているのは、その胸に白いロザリオが揺れるということのみ。実際に聖職者であるかどうかも定かではない。
垂氷は知らずに赤彦に出会った。後に彼がその『鬼狩り』だと気づいても、事実をにわかには認められなかった。
しかし今は疑う余地はない。昨晩、自分に銃口を向けた途端に見せたあの眼差し。甘くとろけるような瞳の奥に潜んでいた鋭い眼光は、瞬時に獲物の自由を奪うに足りる。銃を下ろせばその光も消え失せたが、殺気とも違う静かすぎる威圧感に囚われて、しばらく垂氷の背筋はわずかに震えていた。
「『混血児』の方は『彼』から聞いていたことだが……」
老鬼達はそこで言葉を濁した。
「『彼』か」
ここまで口を閉ざしていた垂氷は、ふいに頬を支えていた手を放して独りごちた。
「左様。奴の父親から」
顔をしかめた老鬼達は、憎々しげに言い捨てる。
「確かに、よく似ていた」
垂氷は闇を見つめた。
人である女を愛し孕ませたが恋は実らず、自ら命を断った鬼がいた。
『彼』とは一、二度顔を合わせたくらいだろうか。記憶に思い馳せて懐かしめるほど親しかったわけではない。恋と結末は、すべてこのお喋りな老鬼達に聞いたことだ。
(闇に堕ちた身でありながら人を愛した……幸せな男だ)
話を耳にした時は、羨ましさに嫉妬を覚えた。
「あの愚かしい乱心のために『彼』を失うのは、少々、惜しかった」
ひとりのその言葉に、老鬼達は一斉にシワだらけの顔を更に醜く歪めた。
意味ありげな忍び笑い。自分とそう変わらない月日を生きていた『彼』の力にも、おそらく老鬼達はたかっていたのだろう。つくづく気分を害する奴等だと、垂氷は眉をひそめた。
それでも彼等は続ける。
「あの『鬼狩り』どもに死を。食糧ほどの価値でしかないにも関わらず、己の立場をわきまえな愚かな奴等には、支配者が誰であるのかを知らしめるべき」
老鬼達は持論に酔いしれる。人を見下し、自分達を優れた種族だと信じて疑わない彼等も、元は人であったはずなのに。
思いはたがう。垂氷は目を細め、声をより低くした。
「指図を受けるつもりはない」
鬼は、鬼でしかない。
日を見ることを許されず、闇にしか生きられない血塗られたあやかし。
「指図とは心外です。ただ、我々は同胞。助け合うのが得策かと」
白々しく言ってのける。へりくだって見せてはいるが、自らの手を汚さず、垂氷を都合よく利用しようとしているのは明らかだ。
垂氷自身、これまで目の前に立ち塞がった『鬼狩り』達を何度となく葬ってきた。
他の鬼をもしのぐ力を、誇示したかったわけではない。死への恐怖からやむをえずそうした。
「今までと同様に後ろ盾はいたしますゆえ、どうか御決断を」
確かにしつこく請い求めてくる老鬼達のうるさい口を黙らせるために、言われるままに無意味な殺戮を行ったこともあった。浅はかだった。それが彼等をつけ上がらせた。
「もう、私に構うな」
垂氷はこめかみを押さえ、苦々しく吐き捨てた。
赤彦と生きていきたいと願う今、争いごとには関わらずにただ静かに暮したい。
「何を躊躇っておられるのでしょうか。貴方には至極簡単なこと。花をこう……」
ひとりの老鬼が、ランプの側に活けてある白い冬バラの花束に視線をやった。
「手折るのと同じほど」
そして手を伸ばし、細い茎を指先で摘む。
「それに触れるなっ!」
彼の行動を目にするや否や、垂氷が動く。
腰を浮かせたのと同時に、素早く抜いたナイフを振り上げた。
「ぐあぁぁっ!」
肉と骨を切断する鈍い音が耳を掠め、次の瞬間襲った激痛にその老鬼が叫ぶ。
「腕が……! あ、あ、あ……う、腕がぁぁぁ!」
血の吹き出す肩口を押さえ、唇から泡を吹きながら床をのたうち回る彼の腕は、付け根から切り落とされ、垂氷の足下に転がっていた。
「あ、貴方という方はっ」
残りのふたりの間に緊張が駆け抜けた。全身を強張らせ、開けた口は塞がらない。それでも必死に恐れるものかと垂氷を睨めつける。
「失せるがいい」
足下のびくびくと痙攣する片腕を靴で踏み、彼等を見回しながら垂氷は唇を歪める。
「部屋を汚したくない」
返り血に塗られたその顔に浮かぶ穏やかな冷笑に、老鬼達は怯えを隠しきれなかった。
垂氷の脅威は、垂氷にたかる彼等が、一番熟知している。何が逆鱗に触れたのかは分らないのだろうが、これ以上食い下がれば腕を切られるだけでは済まされないと理解したようだ。
隻腕となり苦痛に白目を向いた老鬼を両脇から抱え、彼等はすっと後退した。
元来た闇へ溶けるように消えていき、後に残ったのはむせ返るような血臭。
完全に気配を感じなくなると垂氷はナイフを降ろし、ふたたび椅子に腰かけ目を伏せた。思案を巡らしはじめた彼は、すでに老鬼の存在を頭の片隅にも置いていない。
(赤彦……)
意識を占めるのはそのことだけ。
血の臭いが漂う中に冬バラの甘い香りが入り交じり、垂氷の鼻腔をくすぐっている。
赤彦を思わせるこの白い花。儚げでいて凛と咲き誇る美しさ。太陽の元で生きてきたそれを自分の手元に置くために、朽ちる前に摘み取った。
今からこの花々と同様に、赤彦からも日の光を奪おうとしている。
(確かに、花を手折ることは簡単……)
ふと自分の口付けを待ちわびていた彼の姿が脳裏に蘇り、垂氷は口元を綻ばせた。
あの時、確信した。日を追わずとも、赤彦は手中に落ちると。
この恋が狂気じみていることは心得ている。
しかし迷いは無あい。すでに後戻りも、立ち止まることもできない位置まで辿り着いていた。
(愛し合えばともに生きることを、貴方も望んでくれるはず。この私と、永遠に……)
垂氷は血で汚れた顔に笑みを張りつけたまま、夜までしばしの眠りを貪った。
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