二章(7)
アパートの階段を駆け上る、荒々しい足音が聞こえてくる。早朝にも関わらず無遠慮なその音は、徐々に赤彦の部屋に近づいてきていた。
赤彦はマッチをすり、ストーブを点火した。燃えはじめた火種を見ていると、一睡もしていないせいか目眩がしてくる。
昨晩の記憶を拭い去れず、眠ることすら出来なかった。垂氷の口付けに我を忘れるほど溺れた自分のもろい心を思い出すたびに、漠々とした背徳の念が募っていく。
(ごめんなさい……)
何度繰り返しても声にならない謝罪の言葉を胸の中で呟き、唇からは吐息だけが漏れていく。無意識に赤彦は、服の上からロザリオを強く握りしめていた。
襟元からわずかに覗く純白のそれは人を、鬼を救うという信念と共に父親から受け継いだもの。神父であり『鬼狩り』でもあった父は、雄々しく偉大な人だった。彼の背中を見て育ち、自分も同じように生きていくのだと、使命に似たものを感じてきた。
敬愛というよりも、畏怖に近い。結核で他界してから随分と経つが、その存在は少しも褪せることなく赤彦に影を落とす。あまりに懸け離れている父を思うと、自分の果てのない情欲が愚かしかった。
苦しげに眉を寄せる赤彦の唇から、ふたたび吐息が溢れていく。
その時、鳴り響いていた足音が部屋の前でふと止まる。同時に勢いよく戸が開け放たれた。
「赤彦っ!」
呼吸を乱し、肩を怒らせ、切迫した形相で叫びながら飛び込んできた訪問者。彼を目にして赤彦が正気づく。
「どう、したんだい? 君が、こんな時間に……」
言いかけて気づき、直ちに窓にカーテンを引いた。遮光された室内に薄い闇が広がる。
昇りはじめたばかりの朝日が放つのは、穏やかでやわらかな光。しかしそれだけでも彼の体には負担があるはずだ。
「無事だったんだな」
凪人は赤彦の顔を見て、表情を和らげた。閉めた戸に背を預けると天井を仰ぎ見て、呼吸を整えるように深々と溜め息をつく。
彼に声を掛けようとして、赤彦は息を殺した。
ひたひたと、凪人の足下に液体が滴り落ちている。脇腹を押える彼の手の下から、止めどなく流れているそれ。
「悪い。床を汚した」
血だった。凪人が額に汗を滲ませながら、ばつが悪そうに笑う。
「見せてくれ!」
側に駆け寄り、赤彦はいっそう顔を曇らせた。
間が悪い。宗一郎は帰ったばかりだ。
「宗一郎を……いや、とりあえず止血を」
「かすり傷だ。舐めておけば治る」
肩を貸そうとすると、凪人は拒んだ。
皮膚を裂かれ、肉が覗く。傷は鋭利な刃物によるものだ。この状況で大したことはないと、言い張る彼には呆れてしまう。かまわず赤彦は凪人の肩を抱いた。
されるがままになりながら、凪人は眉間にシワを寄せる。
「観念してよ」
部屋の奥に連れていきベッドの縁に座らせても、依然として渋い顔をしている凪人に、赤彦は苦笑した。
凪人が溜め息をつき、ようやく血で濡れた服を無造作に脱ぎ捨てて上半身をあらわにする。
そこではじめて自分の怪我のほどを知り、赤彦が蒼くなるのも無理はないと醜態を鼻で笑った。
傷はすぐに塞がる。鬼の遺伝子が作り出した頑丈な体がこの時ばかりは有り難い。それでも辛さを感じてならないのは、やはり日を浴びすぎたせいなのか。
これほど多くの光に蝕まれたことはない。全身が焼けるように熱くざわめいている。数多の蟲が這いずり回っているかのようだ。
「痛むかい?」
患部を包帯で圧迫しはじめていた赤彦は、うな垂れる頭を片手で支えた凪人を見て不安げに問い掛ける。ただの貧血だと言い、彼はその体勢のまま押し黙った。
さっきまで残っていた覇気はすっかり失われ、ひどく大人しい。しかし出血の量は明らかに減り、はやくも乾きはじめている傷を目の当たりにして、ひとまず赤彦は胸をなで下ろした。
「昨夜……」
不意に発せられた凪人のくぐもる声が耳に届く。
「昨夜、あれから鬼に会ったんだろう?」
続けられた言葉に思わず赤彦は手を止めた。横目で凪人を盗み見るが、うつむく彼の表情は解らない。すぐに手当てを再開し、何気ない答えを選んで口を開く。
「彼に会ったのかい? じゃあ、この傷は……」
「赤彦、何をされた?」
そんな返事を聞きたいのではないと言わんばかりに、凪人は赤彦の発言をさえぎった。
喉元にナイフを突きつけられたような問い。相変わらず不明瞭な声は、怒りを押し殺しているふうにも聞こえた。
(何が、言いたいんだい?)
凪人が垂氷を知っている。告げられた事実が重くのしかかる。包帯を巻き終えた赤彦は、作った結び目を持ったまま動けずにいた。
「奴はまだ生きている」
「そう」
赤彦は汗ばむ指先を震わせて生返事をした。凪人の遠回しな口振りに不安がよぎる。
垂氷との時間を知られたくはない。しかしすでに垂氷は彼に語ったのではないか。だとしたらそれはどこまで、どのように。
息苦しい沈黙に追い詰められる。居たたまれず、赤彦は凪人に背を向けた。
「宗一郎を、呼んでくるから」
「悪かった」
しかし謝罪と共に腕を掴んで制され、咄嗟に振り向き彼を見つめた。
ようやく上げた凪人の顔には焦燥が浮かぶ。まるで独りで取り残されることを怯える子供のように引き止めていた。
「あんな奴はいい。お前が……」
瞳の深奥は赤彦を映して戸惑いに揺れ動き、開かれた唇から言葉の先は続かない。手に力がこもり痛いほどに握りしめられ、その箇所に速まる脈を感じている。それは自分のものなのか、それとも凪人のものか。
「お前がいれば……」
凪人がかすれた声を絞り出す。
愛しさを抱かずにはいれず、赤彦は静かに感嘆をこぼした。彼の叫びが心に波紋のように広がっていく。赤彦は自分を捕らえる凪人の腕に手を添えた。
「どこにも行かないよ」
あやすように囁くと、凪人の目元が安堵に緩む。
心に取り憑く鬼の闇。そのために凪人は、自分に孤独を強いる生き方をしていた。決して口に出さず、決して救いを求めようとはしなかったが、今はじめて赤彦に彼が弱さを覗かせる。
手が届いた確かな感触。
そして覚える違和感。切に求めていたのはこれだけなのか。
秘かに燃えたぎるストーブの音が室内を満たし、炎が見つめ合うふたりの頬を紅蓮に染め上げる。
内側から身を焦がしていく灼熱の温度。
左胸が痛い。ようやく辿り着いた想いが、留まることを知らずに溢れ出して。
「……少し、寝る」
赤彦を解放して凪人が呟いた。
「うん。それがいいよ」
今まで不思議なほど気づかなかったこの想い。乾ききった喉の粘膜が張りつくのを感じ、赤彦は唾液をそっと飲み込んだ。
促されて横になった彼の目蓋が閉じられる。ほぼ同時にゆるりとシーツに沈んでいった。
「凪人?」
呼んでもすでに反応はない。赤彦は額に張りつく髪の毛を払ってやり、そのまま眠るというよりも気を失った凪人にそっと触れていった。
腹部の白い包帯には赤黒い血が滲んでいく。顔色は悪く、体温は下がっていた。身を乗り出して温めるように覆い被さり、彼の胸に頬をすり寄せる。
雄々しい偉丈夫。彼の姿はわずかに父親を彷佛させる。
「誰でもいいわけじゃない」
いつから変わってしまったのだろう。凪人に抱く感情は、次第に行き過ぎていた。
抱かれたい。
そして欲しい。彼のすべてが。
彼をこの腕で包み、お互いを余すところなく委ね合い、深淵で繋がりたかった。ふたりの境が解らなくなるほどに。
「俺は、君がいい」
言いながら自分の想いを噛み締めるように目を伏せて、赤彦は微笑みを浮かべる。
(きっと俺はずっと以前から、そう願っていたんだね)
昨晩の悪夢は、いまだに忘れられない。彼に抱くのは純粋な気持ちなのだろうかと、疑わずにはいられなかった。内なる欲に正当な理由をつけようとしているだけではないかと。
凪人の逞しい胸が呼吸をするたびに上下する。愛しい鼓動に聞き惚れて、彼のぬくもりを感じていると行き場のない憂いが徐々に和らいでいく気がした。
にわかには答えが出ない。今はただ、このうっとりするような恋慕の情を信じるだけ。
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