赤色

 

二章(6)

 
 いっそ忘れてしまえれば、楽なことがあった。
 そして一時でも夢に逃れられればと女を買った。すでに顔すら思い出せない彼女との一夜限りの情事の中で、忘れられたのかというと答えは否だ。
 辺りは淡青に包まれ、ほのかに日の匂いが漂いはじめていた。雲の切れ間には宵の明星が瞬き、間もなく夜が終わる。
 家路を急ぐ凪人は、凍結した雪路に転がる金柑を忌々しげに靴底で潰し、ふいに歩みを止めた。
 長い坂を上り終え、教会の墓地の脇に差し掛かったところだった。頭上の寒木瓜の花から朝露が雨のように滴り落ちてくる。乱れた髪をしっとりと濡らし、はだけた胸元に流れていく。かまわず道の先を凝視していた。
 前方から朧げな人影が近づいてくる。立ち止まったのはそのためだ。
(感傷的になっている暇も、与えてくれねえんだな)
 すべての現況になっている自分の宿命は。
 後に続くうんざりするような言葉を心に思う前に呑みこみ、凪人は身構えた。

 人影は黒衣をまとった男だった。今はまだ遠く離れている彼の体内に流れる同じ匂いが、棘のように体に突き刺さる。
 同様に、すでに男も凪人の存在に気がづいているはずだ。それでも彼は何事もないように隔てる距離を縮めてくる。やがてすれ違い、凪人は引き止めた。
「素通りか?」
 背後で彼――垂氷の雪を踏む足音がやみ、一瞬の間の後に答えが返ってくる。
「急いでいますからね」
 お互いの声の中には、かすかながら強張りがあった。それはともに確信している証拠。『鬼狩り』と『鬼』という相手の正体を。
 ふと緊迫した大気に染み入るように、朝を告げる教会の鐘が響きはじめた。その音に目を覚ました黒い鳥が寒木瓜の樹から一斉に飛び立ち、空を染める。
 この時間、夜に比べて体は重たく腕もわずかに鈍る。その状態での鬼との遭遇は最悪とも言えた。
 しかし凪人の心は歓喜している。鬼を切り刻めるのだと血がざわめく。因果な性分を自嘲して、凪人は唇を歪めた。
 鐘は鳴り続ける。これから繰り広げられる荒々しい攻防の音を、すべて掻き消そうとするかのように。

「遠慮するな。少し遊んでいったらどうだ!」
 振り向きざまに二丁の銃を取り出し、凪人が構える。
「……っ!」
 しかし次の瞬間、銃身は同時に振り返っていた垂氷に押さえつけられていた。的から反れた銃口。放たれた初弾は地をえぐる。
「そう、いきり立つものではない」
 不気味な笑みを浮かべ、言うが早いか垂氷が凪人の体を蹴り退けた。
 墓地のフェンスに背を強打し、顔を引き攣らせたのはわずか。すぐさま体勢を立て直し、凪人は銃を持つ手を垂氷に伸ばす。
 左右のS&Wリボルバーが交互にうなる。
 大地を蹴り、垂氷が跳ぶ。引き金にかけられた凪人の指の動きと銃口の向きを読み取り、的確に狙う弾丸の雨を避けていく。
 凪人は舌打ちし、弾が底をつく前に外套の中で銃をナイフに持ち替え、足を前に踏み出した。駆け寄り、右手に握る煌く両刃を振りかざす。
 だがその凶器も、垂氷を仕留めることはなかった。垂氷が顔面の直前で、凪人の手首を捕えて攻撃を制す。切っ先が当った頬に血が滲み、赤い一筋が伝って落ちていくだけ。
 即座に凪人が左手で新たなナイフを抜く。しかし垂氷はそれをも受け止めた。
(この野郎、慣れてやがる……)
 死闘に。
 両手を軽々と奪われ、凪人は奥歯を噛み締めた。
 自分に苦戦をしいる鬼など、いたためしがない。それなのにこの様は何か。押さえこまれたままナイフを振り落とそうとするが、微動だにしない。手首から骨の悲鳴が聞こえてくる。

 屈辱にひずむ凪人の様子を、垂氷は細めた目で眺めながら口を開いた。
「『混血児』の六條凪人か。噂通りの馬鹿力ですね」
 同じ血を持ち、さほど変わらない能力をその身に宿す凪人の存在は鬼にとっての脅威。それでも垂氷は歯牙にもかけていない。
「不思議な巡り合わせだ。一晩のうちに名高い『鬼狩り』の二人に会うことになるとは」
 続けられた独白に凪人の顔が凍りついた。刹那に脳裏に浮かんだのは、赤彦の姿だ。
 聞くや否やはじくように垂氷の腕を払い、彼から飛び退いた。数メートル離れた後方で踏みとどまり、ナイフを垂氷に向けて突き出しながら睨み据える。
 いつしか鐘は鳴りやんで、木霊が鼓膜に残っている。耳鳴りのようなその音が凪人の不安を余計に掻き立てる。
「赤彦を……どうした?」

 凪人が把握する限り、この街に名の知れた『鬼狩り』は自分と赤彦だけ。鬼を救うなどと寝言のようなことを言う赤彦だが、甘さとは裏腹に出会った鬼は確実に狩る男だ。その『鬼狩りの神父』に会ったという鬼が今ここで生きている。それは何を意味するのか。
「そいつをどうしたのかと、聞いているんだ」
 焦りを隠せず再び問いを繰り返す。しかし垂氷は頬から流れる血を指ですくって舐めながら、ただ薄く笑う。
「答えろ!」
 叫びと共に凪人が走り出した。垂氷の胴を目掛けて風を起こし、大きくナイフを振るう。
「実に美味だった」
「なっ!」
 その一振りは衣の端をかすめ、後は虚しく空を切り裂く。
 揺らいだ凪人の体を垂氷は逃さなかった。
 垂氷の手が凪人に伸びる。
 回避する暇はない。次の瞬間、後頭部を掴まれ勢いよく地に叩きつけられた。脳天から全身に激痛が走り、視界が白む。思わずナイフが手を離れ宙を舞う。
 凪人の横面を尋常ではない重圧をかけ、雪ににじりつけながら垂氷が言う。
「彼のやわらかな唇ですよ。可愛い人だ。誰も穢したことのないそこは、震えながら私の口付けを受けていた」
 酔いしれるような口振りで。
「何を……つぅ!」
 凪人に発言を許さず、垂氷は更に手に力をこめる。顔を苦痛に歪めながらも、凪人はぎらぎらと光る獣のような瞳で彼を睨めつけた。
 垂氷は気にもしていない。逆撫でするように言葉を続ける。
「この腕の中でうっとりと」
「ほざけっ」
 吼えながら凪人が残る力を絞り出し、動いた手で三本目のナイフを抜いた。
 この状態での反撃を予測していなかったのか。垂氷が気づいて体を引くよりも、わずかに凪人が早い。
「くっ」
 垂氷が呻く。肉を切り裂く確かな手ごたえ。鮮血が弧を描くように空に散る。
 凪人は跳ね起き、すかさず垂氷にナイフを突き出した。彼が寸前でそれを避ける様を目の端に映しながら、片手は外套の下で銃を掴む。
 残した弾はあと一発。

 赤彦の無事が不明のまま、知ったことがただひとつ。
 いや、垂氷の言葉を鵜呑みにしたわけではない。それでも頭に血が上っていくのを、抑制できなかった。
(あの唇に、他の男が触れたというのかっ)
 抜いた銃が凪人の感情と共に爆発した。
 至近距離から放たれた最後の弾が、かわしきれない垂氷の肩を掠める。
 用途を失った銃を投げ捨て、衝撃に煽られよろめく垂氷に凪人が休む間も与えず斬りかかった。
「意気がるな、六條!」
 垂氷が黒衣の襟元を掴み、凪人に向かって脱ぎ捨てる。
 視界は突如として闇に覆われた。的を失いナイフはただ衣を突く。衣を払った時にはすでに垂氷は凪人から遠く離れていた。雪上に片膝をつき、傷から流れる液体で周囲を赤赤と染め上げながら。
「少々、貴方を甘く見ていたようですね」
 吐き捨てた声は低い。危険な色を孕む射ぬくような眼差しで、垂氷は凪人を見据える。そして手を脚にそろりと這わせていき、ブーツに仕込んだナイフを引き抜いた。
 凪人は空いた片手に取り出した更なるナイフを握り、両刀を構えてそれに応じた。
 流れる沈黙の中、辺りは殺気に満ちていた。にらみ合い、お互いを牽制する。

 その時、彼方の嶺の端から昇りはじめた朱色の朝日を受けて、両者のナイフがまばゆく閃いた。
 それは鬼の血を持つ者には、致命的にもなりかねない死の光。呪縛を嘲笑うように、容赦なく世界に生命を灯していく。
 先に口を開いたのは垂氷だった。
「お互い日を浴びると辛い体だ。この勝負、お預けにしませんか?」
「逃がすか!」
 声を引き金に凪人が地を蹴る。彼に日を恐れ、休戦を聞き入れる余裕などなかった。
「やれやれ」
 その言葉とは逆に、向かってくる全身総毛立った男を見て垂氷が唇を歪めて笑う。それは一矢報いなければ、気が済まなかったのだと言わんばかりの満足げな笑み。
「聞き分けのない子だ」
 

 

 

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