二章(5)
「そんな時、貴方に出会ったのです」
垂氷の声に赤彦が顔を上げた。緩められた彼の表情を見て、赤彦の口元も自然と綻ぶ。
「貴方なら、私を孤独から救ってくれる」
垂氷は組んだ脚を解き、こつりと靴底を床につけ腰を浮かせた。そして赤彦の前に立つ。
彼を見上げ、頭上の白熱灯のまばゆさに目をしかめながら赤彦は言葉を返した。
「君がいました告白は神にしたものだ。俺にではないよ。許しを下さるのも、そう」
「ひと目見て、心奪われた」
声を遮り、垂氷が赤彦の黒髪に指を絡めていく。
「哀愁を帯びた儚げで気高い姿が、愛おしく感じた。動かぬはずの私の時の歯車が、ふたたび回りはじめたのです」
不穏な影が垂氷に指しはじめる。
赤彦がサイドテーブルに置いた銃に手を添えたのは無意識だった。
「二度と恋などしないと思っていた」
かまわず垂氷は独白する。手触りを確かめるように赤彦の髪を梳いては放し、また絡めては梳いて。
やがて動きを止め、垂氷の手は頬を包む。
「赤彦、私は貴方を愛してしまいました」
想いを告げたのち、わずかな間があった。
何も言わない赤彦の肩を掴み、垂氷はゆるりとソファーの背に押しつける。あくまで柔らかな物腰ながらそれは抵抗を許さない力。ソファーの脇に片膝をつくとそのまま覆い被さるように体を寄せ、赤彦を見つめた。
焼き尽くされそうなその眼差し。裏腹に肩を覆う冷たい手の平。ふたつの温度を感じながら、彼の様子を呆然と眺めていた赤彦がようやく唇を開いた。
「……何を……する気だい?」
「この世で望むことはひとつ。貴方が欲しい」
垂氷が切なげに口元を歪ませた。その顔に赤彦の胸がざわめいた。
今まで罪の告白をしていた彼が、唐突に何を言い出したのだろうか。にわかには思考がついていかなかった。
それでも赤彦から決して外そうとしない垂氷の目に、気持ちを疑う余地はなかった。
恋に焦がれて、哀願しているのは明らか。自分を欲して痛々しくも縋りつく男がここにいる。こんな風に求愛されたことがあっただろうか。
「君は苦しみからの解放を願っていたはずだろう?」
ふと我に返り、赤彦はほだされかけた自分を引き止めた。
淡い微笑みを浮かべてあやすように垂氷に言う。銃に添えた手は動かさず、自分を捕らえる彼の腕に片手を重ねた。
垂氷は無気味なほど優しげに、しかし有無を言わせない響きを持つ声で呟く。
「赤彦は寂しい人だ」
そのたった一言が、刹那に赤彦の顏から笑みを消した。
「神父として人の為に尽くしても結局は他人。そこに貴方の存在も幸せもないのですよ。聡い貴方ならば気づいているはずだ。満たされないと、感じたことはないのですか?」
体をかすかに硬くして、ひっそりと息を呑む。
はじめて言葉を交わした夜に、垂氷は自分の全すべてを知っていると言った。ずっと見てきたと。ふいにあの時の彼の記憶が蘇り、背筋にぞくりと寒気が走る。
動揺を覗かせる赤彦の答えを待つ前に、垂氷はなおも続けていく。
「優しさゆえに、貴方は己を犠牲にし過ぎている。もったいない。こんなにも美しいのに。望んでもいいのですよ。幸せを。唯一の存在として、激しく愛されたいのだと」
「俺が、寂しいって?」
「私ならば、貴方の心を受け止められる。同じように孤独を知る私ならば」
鼓動が否応無しに高まっていく。平静を装うが上手く笑えず、頬が少し引きつった。
心に巣食う虚しさを、寂しさと言い換えられないことはまかった。
なぜ彼は気がついたのだろうか。誰にも明かしたことがないというのに。
「赤彦は願っているはずです」
彼から逃れるように赤彦は顔を背けた。
心に更に秘めてきたものがある。それまでをもじわりと氷を溶かすように、そして容赦なく垂氷の言葉が暴く。
「男として情欲のままに求め、求められたいと。違いますか?」
赤彦の目は窓の外の闇を見つめ、しばらく間を置き、やがて肯定とも否定ともつかない声色で短く漏らした。
「そうだね……」
意図せず、溜め息が同時に滑り出る。
知っていた。自分は情欲に飢えていたのだと。
切なさに火照る体。鎮めようと手淫で快楽を貪るあの行為。それがなぜかと問いながら、答えは出していたのも同然だ。
鏡に触れ映りこむ像に抱かれながら、そこに錯覚しようとしていたのは人のぬくもりだったのだから。
「愚かだろう? 聖職者の……この俺が……」
一度花開けば留まることを知らずに広がっていくのではないかと恐れて、知らず知らずの内に心の奥底に押しこめてきた眠れる淫らなそれ。
曖昧にしておきたかった。つい先程まで凪人に感じていたのも、同じものだということは。体に残る凪人の感触を思い出したあの時、抱かれたいと確かに思ってしまったことなど。
しかし自覚してしまった。
あらわにされた自分の欲を嘲り、赤彦は誰にとでもなく力なく笑ってみせた。
自分の無節操さに胸が痛い。
「すべてが愛おしい」
垂氷が囁く。
赤彦の顎を持ち、彼は反らされた顔をふたたび自分に向けさせた。
そのまま指で赤彦の下唇をなぞる。押し開いてこぼれた歯に触れ、次いで舌先に。ゆっくり口の中へと入ってくる。
「……あ」
羞恥に思わず声を漏らしたのを聞き、垂氷は満足げに目を細めた。赤彦が望んでいるものを彼は見透かしている。そして与えてくれる。
顔を近寄せ、垂氷はそっと赤彦に唇を重ね合わせた。
はじめて赤彦のそこに、他人が触れている。
乱した心を慰めるようにされた口付けは、例えようが無く甘美だった。硝子とは違う生身のやわらかさ、淡い熱。吸いつくようなその感触、優しさ。
逃げようと思えば、逃げられた。それは今からでも。
「う、ん……」
しかしただ重ねただけの口付けが、赤彦を溶かす。熱い吐息を溢れさせ、垂氷の口の中に流しこんだ。
唇を密着させたまま、次第に垂氷の手が下に降りていく。喉をなぞり、襟元を掻き分けて胸を探るように愛撫され、赤彦の震えた指が銃をカタリと床に落とした。
「……だ……め、だよ」
唇の上でなされた消え入りそうな抗議に、垂氷は長い口付けをやめる。
そして言葉で誘惑した。
「貴方の心はそのままで十分に美しい。だからもう、隠さなくてもいいのです」
赤彦の肌にひたりと張りつくロザリオに軽く触れてから手を放し、代わりに体を抱き締めた。
途端に鼻腔をくすぐった彼の匂い。のしかかる男の重み。赤彦の口から溜め息がこぼれていく。
「放して……くれ……」
腕の中で身をよじり、首を傾け彼の唇から赤彦はわずかに逃れる。形ばかりの抵抗を見せ、いまだだに戸惑う赤彦を追い詰めて垂氷はまた唇を奪った。
今度はより深い口付けを。赤彦の舌に自分を絡みつけ、味わうように繰り返し唾液を吸ってみせる。
「あ……ふ……っ」
声は濡れ、ほの白い頬はうっすら染まり、目眩がするような快感に赤彦の四肢の力が抜けていく。その体を支えるように、受け止める彼の腕の強さが心地よい。
抗えなかった。目を覚ましはじめた淫らな疼き。扇情的な垂氷の眼差しが飢えていた赤彦を、いとも簡単におとしめていく。
「お互いの寂しさに引かれ、私達は巡り逢ったのですよ。赤彦」
垂氷が耳元に口を寄せ、息を吹きかけながら囁く。
運命だと。
「今、私は心から生きていきたいと願っている。例えこの先どれだけ人を殺め、神に背き続けてでも……ただ貴方とともに」
剣呑な望みを告げる彼の低音が腰に響く。
「駄目だよ……」
たしなめる言葉を口にしたが、体が心を裏切る。垂氷の肩口に額を乗せ、赤彦は身を委ねた。
火照った頬にそっと触れ、垂氷が赤彦の顔を上向かす。
「いや……だ」
虚ろな目で彼を見つめ、赤彦は小声で呟いた。
残る理性が叱咤している。
それでも口付けが欲しかった。
手中に落ちた悩ましげな男の様を眺めながら、焦らすように垂氷は吐息を吹き掛けるだけで、なかなか触れようとしない。赤彦は眉を苦しげに寄せた。
やがて彼は自分を待ちわびる赤彦の唇を軽くひと舐めし、腕の中から解放した。
「あっ」
期待を砕かれ、糸の切れた操り人形のように赤彦の体はソファの上に崩れていく。
「私はせべてをさらけ出した……さあ、赤彦。その鉛玉で私を撃ちますか?」
立ち上がった垂氷はおもむろに両手を左右に広げ、『鬼狩り』に胸を差し出した。
「かまわない。言ったはずです。もしこの世を去る時が来るとしたら、赤彦の手で逝きたいと」
依然として愛を囁きながら、自分の行く末を赤彦に選択させる。
「君は……意地が悪い」
赤彦は床に落ちた銃を拾うことが出来なかった。恨みがましい目を垂氷に向け、自分の両肩を抱いた。彼の愛撫をこの上更に望み、打ち震えてしまう体をどうにか抑制しようとして。
垂氷が黒衣をひるがえした。
わずか開けた戸の隙間にするりとその身を滑らせて、彼は闇に戻っていく。
「私は同じ過ちを繰り返さない。愛しいものは、何をしてでも手に入れたいのです」
消え去りざまにふと青白い顔を物憂げにひずませながら、そう言い残して。
垂氷はまだ悪夢を終わらせる気がないのか。
「俺のせい、だね……」
命を奪えなかった自分の前に、彼は必ずまた現れる。
彼の堪え難い誘惑は恐怖。その時、自分はどうするのだろうか。
開いたままだった戸が風に押されて、錆び付いた蝶番に軋む音をたたせながら閉まっていく。見つめながら、赤彦はしばらく肩を抱く手に力をこめていた。
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