二章(4) ◆ ◆ ◆ ◆ 「私のことは」 男は思案を巡らし、やがてゆるりと薄い唇を押し開く。 「『垂氷』と呼んでください。本当の名前など、とうの昔に忘れてしまいましたから」 男の願い通りに、赤彦と彼は場所を安宿の一室に移していた。 部屋には簡易ベッドがひとつ、そして座面の割れた独り掛けのソファーがふたつ。薄汚れた壁と床。天井の白熱灯は黄ばんだ光を放出している。男が懺悔の地に望んだここは、実に粗末なものだった。 彼は紳士的に赤彦をソファーへと導き、座らせると自分も向かい合うソファーに腰を下ろす。それから窓越しに見えた軒に連なるつららを目にしながら、かりそめの呼び名を赤彦に告げた。 垂氷(たるひ)と。 「何からお話ししましょう。そうですね……」 明かりの中で、今は黒い垂氷の瞳。赤彦に向けていながら、その目が見ているのは遥か彼方。 肘置きに腕を乗せ、優雅な動作で長い脚を組みながら、彼は歴程を静かに語りはじめた。 「では、はじめから。かつて私がまだ『人』であった頃から。遠い昔のことです。それなのに脳裏に浮かんでくる光景は、どれも昨日の事のように鮮明だ」 時計が刻む音が、やけに重たく耳に障る。それは彼に流れてきた悠久の時を彷佛させる。 長くなる。 サイドテーブルに銃を置き、赤彦は膝の上で両手を重ねた。 「私は、身分の高い娘と恋に落ちていました。美しい人でした。天涯孤独だった私に同情し、あらん限りの愛情を注いでくれた。そして私も唯一無二の存在として彼女を愛した。人目を忍ぶ逢瀬の度に愛を囁き合い、契りを結び……幸せでした。この上なく」 垂氷は言葉を区切る。思い出に浸り、夢見るようなその顔。ふとそこに、彼はかすかな陰りを覗かせた。 「しかし私達は身分が違いすぎた」 順を追って当時の事を思い起こし、幸せな記憶と共にゆるりと酷な記憶もまた蘇る。 「密事が彼女の親族の知るところになるのは、時間の問題でした。随分と、手荒な事をされた」 それは拷問に近い私刑。肉体は悲鳴を上げ、心には怒りと憎悪が渦巻くその中で、垂氷を正気に繋ぎ止めていたのは恋人の優しさ。 「彼女は自分が悪いのだと、己を強く責めながら涙を流してくれました。そのぬくもりが、心身共に傷を負った私を癒してくれた。彼女に逢うたびに私への仕打ちは酷くなっていく一方だ。それでも私達は逢瀬を重ね続けた。そしていつしか思うようになったのです。この世では、決して結ばれない定めなのだと」 追い詰められたその極地。 「あれは晩秋だった。新月の闇に紛れて私達は手を取り合い、人知れず沼に身を投げたのです」 そこまで言い終え、彼は目を伏せた。ソファーの布地に爪を立て、きつく唇を結ぶ。 それでもその後を続けようと、震える声を喉から絞り出した。 「しかし繋いだ彼女の手は放され、私は独り、冷たい沼の底へと……沈んでいった」 生の世界の光と音から遥かに遠ざかる、淀んだ緑のほの暗い水の底。呼吸をするだけで生きているなどとは到底呼べない、目の退化した異形の魚類が辺りを囲む。鈍い動作で彼にぬめった肢体を擦りつけて、小さな歯で水で潤んだ皮膚と肉を啄んだ。 肺から溢れ、昇っていく最後の気泡を目で追いながら垂氷が抱いたのは死の恐怖よりも、すべてだった人に裏切られた悲しみ。 赤彦は顔をしかめた。彼の心の叫びが痛い。 女は躊躇したのだろうか。それとも元より、垂氷と運命を共にする事を望んでいなかったのか。真実の答えは、今はない。 ふいにその時、風に吹かれて窓硝子が甲高くおどろおどろしい音を鳴らした。隙間から漏れ出した空気が垂氷の頬をくすぐり、夢から覚めたかのように彼は赤彦に視線を上げた。 「疲れましたか?」 そして気遣う声をかけた。赤彦がそっと首を横に振ると、落ちた髪を耳にかけ垂氷はわずかに強張る口元をぎこちなく綻ばせてみせた。 「あの時、私は確かに死んだのです」 悪夢はまだ続く。 「しかし気づけば闇夜の街をさまよい歩いていた。あの日から優に十数年の時が過ぎていると知った時は、愕然とした……なぜ私は蘇生したのでしょうか。誰がこの肉体に再び息吹を吹きこんだのでしょうか。何も分らぬまま、ただ己が『人』でなくなった事だけは明白でした。 『飢え』ですよ。私の冷えきった体は、生者の熱い血潮を求めていた。制御できないその疼きが私に人を襲わせ……一度血の味を覚えてしまえば、あとは狂ったケダモノがそこにいた。 理性を失い、それから幾晩もの間、私は体を満たそうと同じ行為を繰り返しました。ろくに思考もできぬまま、しかし罪深く汚れていく私を微かに残っていた『人』の心が、惨めだと嘲笑っていた。 どれだけ人を殺めた後だったか。『飢え』に切れ間に、次第に思い出せるようになったのです。正気を。そして愛し、愛された人との穏やかな日々を。私は……確かに、彼女を恨んでいました。しかし私の生涯で唯一幸せを感じていた記憶は、そう簡単に消せるものでも、諦めきれるものでもない。 今でこそ己の中の獣を操る術を知ったが、当時はあれがいつまた目を覚ますか予想もつかなかった。自身に怯えるその中、理性がある内に彼女を一目見てから私は悪夢を自らの手で終わらせようと思ったのです。せめて彼女の姿を焼きつけてから逝こうと、縋るような思いで私は……だが、この目で見た彼女は家庭を持ち、子をもうけ、そして……笑っていた」 垂氷は口をつぐんだ。 唇を開くが、言葉は続かない。溢れ出たのは音のない吐息。 ソファーの背に身をあずけ、隠すように口元に片方の手の平を軽く添えながら、彼はしばらく目を閉じていた。 「その時、彼女の顔が涙で濡れていたら」 やがて深々と息を吸い、感情を殺したより低い声色で結末を綴っていく。 「それが私のためのものでなかったとしても、彼女が泣いていてさえくれたら……現状はどう変わっていっただろうか。もしかすると私は彼女の裏切りを許せ、すべてを断ち切れていたのかもしれない。しかし彼女は笑っていた。幸せそうに。過去にあった私の影など、一切忘れてしまったかのように。だから、欲望のままに私は彼女等をこの手にかけたのです」 女の前で子供の喉を切り裂き、夫のはらわたを引きずり出し、最後に彼女の首を絞めて。 『飢え』のせいではない。理性はあった。垂氷に惨殺をさせたのは他でもなく、彼自身。 「かつて愛を語りあったその瞳に私を映し、悪魔と罵りながら息絶えた彼女の顔が忘れられない。私は……若かった……っ!」 最後はかすれた叫びとなった。 訪れた静寂の中、また時計の音が耳につきはじめる。 決して乱れず、ただ規則正しく、そして重々しく時間は流れていく。 赤彦は噛み締めるかのように耳を傾けていた。 「それから随分と長い歳月を生きている」 垂氷は髪をかきあげると、すっと肩の力を緩めた。自嘲するかのように力なく笑いながら、赤彦に視線を戻す。追憶の旅から現在に戻った彼の目は、ようやく赤彦の姿を映して捕えていた。 「一時は覚悟を決めたにも関わらず、己のしてきたことを思えば最後の審判の神の裁きが恐ろしく、自ら二度目の命を絶つ気にはなれなかった。そうしてまた『飢え』をしのぐために罪を積み上げていき……私はね、赤彦。もう疲れたのですよ」 何度となく教会を訪れてきた垂氷だが、いつも告白できずにいたこの懺悔。教会を去る時の悲嘆に暮れる姿を知っているからこそ、彼から目を反らせなかった。 懺悔は終わり、赤彦の役目も終わった。今はじめて彼は軽く下を向き、小さく息を漏らした。 「終わりのない悪循環に。胸に空虚を抱えたまま永劫の時を漂うことに。この街も随分と様変わりした。変わらぬものなど何も無いというのに、私の心は止まったままだ。いつまでも、ただ独り……これではあまりに寂しすぎる」 彼の悲しみの温度。外とさほど変わらず、室内は寒かった。
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