二章(3)
雑音交じりの旋律が、蓄音機から流れる。
数杯目の甘味果実酒に口をつける赤彦の顏から、ふっと笑みがこぼれた。
「何なんだ? さっきから」
凪人が面白いものでも見るように、そんな赤彦を眺めている。
グラスに唇を添えたまま、赤彦はちらりと向かい合う彼に視線を上げてふたたび微笑した。
「どういう風の吹き回しだろうと思ってね。君が狩りを放棄するなんて」
「皮肉か?」
器用に片眉を上げながら、凪人はたまにはいいだろうと付け足した。
「そうだね。お互い物騒な恰好だけど」
空いた椅子の背にかけた二人の外套の中には、ナイフと銃。
唇を濡らした液体を軽く指先で拭い取り、赤彦は続ける。
「俺は歓迎だよ」
打ち解けたその表情。酔いも手伝っていた。しかしそれは三日ぶりに覗かせている笑顔。そのことに赤彦自身は気づいていなかったが。
「こうして君とゆっくりするのは久しぶりだ」
なんの理由があるわけでもない。ただ淡い喜びを感じるこのひと時。
小さな卓に空にしたグラスを置くと、凪人が新たに酒を注いでくれた。
あの後、ビルディングの地下にある酒場に凪人に連れこまれた。
白粉と香水の匂いを漂わせる老婆がひとりで給仕をする、薄暗いランプの照明でセピアに塗られたアールデコ調の店内。客数はまばら。低い木製の椅子に腰を下ろし、臙脂色の天鵞絨の背にもたれ掛かりながら誰もがレコードに聞き惚れ、しっとりと酒をすすっている。
時折聞こえてくる堅苦しい議論のやり取りを背景に、さっきから二人は何気ない会話を繰り返していた。
「赤彦、なんで……」
ふとした話の切れ間に凪人が言う。しかし言葉を詰まらせて、すぐにまた自分の水割りで口を塞いだ。喉を動かし、体内に飴色の液体を流しこむ。
「いや」
グラスを弄び、脚を組み直し、目は宙を泳ぐ。
酒の中で球状に削られた氷の塊が鈴のような音を立ててひび割れた。
「何?」
「いや。前々から思っていたけどな」
赤彦の眼差しに見つめられながら促され、意を決したようにやがてぽつりと漏らした。
「なんで、あいつを寄りつかせておくんだ?」
「あいつ?」
「医者」
赤彦はああと頷く。
「あの優男、意外と食えない」
「彼のことがあまり好きではないみたいだね」
「別に」
邪見にする理由など見つからない。赤彦は出掛けにいたく自分を心配していた宗一郎を思い出す。
「彼はいい人だよ」
いつもに増して無茶をしないで欲しいと、真摯に懇願したあの姿。きっと今も赤彦の部屋で眠らずにいるだろう彼。
こうして平穏に酒を飲んでいると、心が咎める。
「やけに弁護するんだな」
吐き捨てるように言い、憮然として凪人はそっぽを向いた。
今までそんな素振りは見せなかったのに、何がそれほどまで宗一郎を嫌わせたのか。赤彦はふっと息を吐きながら椅子の背に寄り掛かった。こめかみに軽く指をあて、どうしたものかと考える。
「肩の怪我はもういいんだろ? なのに……」
なぜなのか。
再度はじめたその問いを、赤彦はやんわりと制した。
「怪我は一年も昔の話だよ」
なおも何かを言いた気に凪人は赤彦を見たが、それ以上の追求をやめた。そして普段通りの不適な笑いが彼の顔に浮かぶ。
「あれはお前らしくなかったな」
それでいい。
(君は笑っている方が……)
気にもしていない事柄で赤彦は話を続けた。
「前に散々なじったのに、まだ足りない?」
「仕様がない。あの時は随分と肝を冷やされたんだ。このくらい許せよ」
凪人の言葉に赤彦は軽く目を伏せ、口元を綻ばせた。
「本当かい?」
彼の中にいる自分の存在を確認して、ふいに込み上げてきた安堵感。
「嬉しい……ね」
三日間、思いを巡らしていた。そして凪人の心に自分は不必要なのだと、結論付けはじめていた間合いでのこと。喜びはひとしお大きい。
蒼の切子グラスに付けた凪人の口から、酒で火照った吐息がゆるりと漏れる。そうして割れた唇を彼は舌でひと舐めした。かすかに湿り、卓上のランプに照らされて薄く光をまとうその色が、奇妙なほど艶かしく眼に映る。
(あの唇が、俺の肌に口付けた……)
見つめていると感触が蘇る。
戯れで押し当てられた甘い唇。今はもう消えた、首筋に浮かんでいたあの紅色。
赤彦は人知れず、そっとその箇所をなぞった。
今まで、しばらく姿を暗ましてはまた赤彦の前に現れる、凪人はそれを何度となく繰り返してきた。心に漂う寂しさを否むことはできないが、だけども体が覚え、知っている。いつも泡沫のように消え失せる彼の存在を。今、この場で凪人と綴る言葉よりも確かに、彼の感触がそこにある。
同じように彼の腕に、指に、唇に、赤彦の存在がわずかにでも残されているのだろうか。
熱に冒されたかのような濡れた眼差しに気が付いて、凪人は赤彦に視線を上げた。
「酔ったのか? 赤いぞ」
「大丈夫……」
顔色を言われ、赤彦は額にかかる髪をゆっくりと指先で払った。
思いを悟られないように。
久しぶりに飲むにしては、酒量が過ぎていたかもしれない。それでも目の縁が染まっているのは、酔いのせいではない。
凪人が赤彦のその様を舐めるように熟視している。
「分ってやっているのか? 今の自分がどんなに……」
やがて歯切れの悪い言葉を残し、凪人はさっと赤彦から目を反らす。そして卓の上に勘定を置き、すぐさま腰を浮かせた。
「気にするな。出るぞ」
赤彦は凪人を見上げる。
「そうだね。宗一郎も待っているだろうし」
言いながら平静を装い、自分の外套に袖を通した。
その赤彦が凪人のしかめた顔を見ることはなかった。赤彦の声が宗一郎の名を呼んだ時に、きつく口元を結んだ彼の顔を。
足早に先を行く凪人の広い背中に従いながら、彼の外套の下で触れ合う金属の音を耳にして悪戯っぽく赤彦がほのめかした。
「いくらなんでも、酒を飲んだ上での鬼狩りはやめてくれよ」
「気が削げた」
しかし凪人はぶっきらぼうに受け流し、一瞬の間を置き、また言い捨てる。
「今夜は女でも探すことにする」
まるで拗ねたようなその口振り。
「そう……」
赤彦は顔を曇らせ、伏せ目がちに相槌を打った。
人ひとりがやっと通れる階段を、皮張りの壁に手を添えて上がる。店内の明かりはすでに届かない。音のない未明の闇へと昇っていく。
二人の間に流れる沈黙は、心地よいものではなかった。ほんの少し前までの穏やかな空気は、どこへ行ってしまったのだろうか。息が詰まるほどの重圧が赤彦の胸にのしかかる。
硝子扉を開き、店を出ると刹那に冬の張り詰めた大気が肌を刺す。それが甘美な時間に終わりが来たのだと、否応無しに知らしめている。いや、二人で過したその時は、すべて夢に過ぎなかったのかもしれない。
赤彦は凪人に顔を向けた。眉を寄せ、揺らぐ瞳で彼を見る。
もうこの男と別れてしまうのか。
「赤彦」
見つめられて凪人が切なげに名前を呼ぶ。彼の顔に張りつくのは、はじめに見せたあの狼狽。
何も分らないまま、現実さえも信じられないまま、ただ静かに赤彦と凪人は目を合わせていた。
言葉はない。
(その腕で女を抱くのかい?)
力なく開く赤彦の唇から白い吐息だけが溢れ、辺りに漂う。
意識の奥底まで蹂躙するやるせなさ。
(俺を……抱かないのに……)
その想いの意味を解く前に心が呟く。
先に背を向けたのは凪人だった。
明かりの消えた繁華街へと去っていく彼の後ろ姿を、いつまでも目で追いながら後に残るのは行き場を失った言霊。
「ねえ、凪人……」
風に流れて散っていく。
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