赤色

 

二章(2)

 
 辺りは静まる繁華街。
 深夜、極彩色のネオンは眠りについた。今はただガス灯の淡い光が、濡れた石畳の道に長く伸びている。
 聞こえるのは、わずかな人声と近くを流れる河のせせらぎ。そして異様に響く硬質のブーツの規則正しい足音。それはこつりこつりと、ビルディングの谷間に滲むように広がっていく。
 酒の臭いを漂わせ家路につく人々とすれ違う男がひとり。短銃を懐に忍ばせた赤彦が『飢え』た鬼を探してさまよっていた。
 澄み渡る凛とした大気は、雪の前触れの匂い。体は芯から冷えていく。外套の襟を立てて凍てつく風をしのぎながら、赤彦はその身をかすかに強張らせていた。
 はたから見ればまったく気づかない程の緊張は、寒さのためだけではない。『鬼狩り』の驚異的な技量とは裏腹に、赤彦の心には、いまだに不慣れが巣食う。銃を撃つ時の引き金の感触、肉をえぐる音、飛び散る赤色、そして死臭。救いをもたらすためとはいえ、その行為には罪悪感が伴う。
 一晩の内に彼等と遭遇しなければ、どこか安堵してしまうのも確かだ。
 それでも、やらなくてはならない。彼等が獲物を見つける前に。
 そう自分に言い聞かせなくてはならない赤彦を、凪人は甘いと笑う。

 ふと脳裏に浮かんだ男の名前を。今は仕事の直中だと、払拭して赤彦は足を止めた。白い息を吐きながら、何もない遠くを見据える。
(この時間だ。時間切れか)
 地上で鬼を探すのは、そろそろ難しい。
 今夜の徘徊は成果のないまま、数時間を越えていた。
 今はもう見切りを付け、鬼が獲物を引きずりこむ旧地下水路に入るべき頃合い。
 『鬼狩り』は暗闇で赤く光るその眼を探す。しかしそれ以外さほど人と変わらない外見をもつ鬼を見つけ出すのは困難なこと。長年の経験をもってしても、この広い街で出会う確率は極めて低い。
 巣窟と化している地下に潜る方が確実に狩れる。ただしその場合、彼等はすでに息絶えた犠牲者をはべらせているが。
 人は喰われ、鬼は自分に殺される。赤彦の一番好まない結末だった。

「‥‥っ!」
 その時、不意に背後から何者かが腕を掴んだ。
 思考する前に懐の銃に手をかけ、赤彦が振り返る。
「よう、赤彦。今日は狩りの日か?」
 自分を呼ぶ、親しい声が耳に届く。目に映ったのは知った顔。近づく気配を全く感じさせないのは、幾千の修羅場をくぐり抜けてきたこの男の得手。
 そこにいたのは凪人だった。
「振り向きざまに撃つつもりかよ。危ない神父様だな」
 凪人は赤彦から手を放し、にやりと悪戯げに笑う。
「凪人……」
 赤彦は取り出しかけた銃を戻し、ぎこちない返事をした。
 あの晩から三日が経っている。いい加減にしろと、言い放たれたあの晩からだ。数日間、絶えず凪人の低い声色が意識を支配していた。この男に会うのが恐ろしくもあり、同時に会いたくてたまらなかった。
 建物の壁に寄り掛かり、凪人が煙草に火をつける。
「吸うか?」
 紫煙がのぼると、立ち尽くす赤彦にシガレットケースを差し出した。
 勧められるままにそれを唇に銜えると、凪人が長身を屈め、煙草の先端と先端をそっと触れ合わせた。やがて赤彦の煙草にちりちりと音を立てて朱色が灯る。
 何気ない彼の振る舞い。
 お互いに唇からゆるゆると煙を吐き出しながら、川沿いの通りに並ぶガス灯を眺める。
 そして流れる心地よく静かなる沈黙。
(気にしていたのは、俺だけなのか?)
 器官を巡る『CHERRY』のほのかに甘い香りは彼のもの。
 煙草を持つ指を軽く唇に添え、赤彦は凪人の隣で背を壁にあずけた。

 街角で佇む二人の男に、橋のたもとで春を売る女が色目を向けている。彼女達の頭上にある時計の盤上では針がひと時の逢瀬のために重なり、零時を告げた。
 川向こうのひそまる住宅地。最後の明かりが今消える。
 月もなく、星もなく、果てしなく広がる闇空のもと、眠れる街はただ青い。
「何?」
「赤彦……」
 ふと凪人の視線を感じて赤彦は横目で彼を見た。名前を呼び、何かを言いかけ、凪人はすぐに口を閉ざす。その顔にかすかに浮かんだ狼狽を赤彦は見逃さなかった。
 ゆっくり景色に目を戻し、赤彦が唇を押し開く。 「何?」
 風が吹き、煙草の煙が揺らめいた。細く長くゆらゆらと、まるで生き物のように。
 そしてしだいに大気に溶けていく。
 消え行くそれを何処までも虚ろに見つめながら、凪人がこぼす。
「いや……寒いな」
 

 

 

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