赤色

 

二章(1)

 
「相川先生。巻きこんでしまって、すみません」
 以前、宗一郎は赤彦にそう言われた。
 あの日、赤彦が宗一郎の元に駆けこんだのは、偶然だった。
 まだ辺りが寝静まる明け方に、首筋から血を流す少女を抱えて、診療所の戸を叩いた美しい青年。自らも深手を負い、今にも卒倒しそうな顔色をしているにも関わらず、少女の容態ばかりを気遣っていた。
 まもなく彼女は輸血の甲斐なく息絶えた。
 その亡骸の傍らにたたずみ、涙を流さず静かに泣く赤彦の横顔は、今でも宗一郎の脳裏に焼きついている。
 その後、宗一郎に赤彦が語ったのは街の闇。
 にわかには信じ難かったが、見たこともない少女の首の異常な事態、たった一箇所の噛み傷から致死量に達するほどの血を抜かれたその鮮やかさ。そして赤彦の白い肩をえぐった残酷な爪痕を、目の前にして疑うことなどできなかった。
 事実に恐怖を感じるよりも先に、なぜあえて彼がそれを狩らねばならないのかと疑問を抱いた。殺生とは無関係のように思える、見目麗しい優しげなこの青年がどうしてなのかと。
「彼等は人が存在し続けるかぎり、生まれ続ける。誰かがしなくては、彼女のような犠牲者が増える一方だ」
 彼は使命だと言う。
 だからといって、その身を自ら危険に晒すようなことはして欲しくない。
 その状況の中で不謹慎ながらも、宗一郎の胸を締めつけた想い。性別など考える前に、瞬きほどの時間で彼に恋をしていた。

「相川先生、恋人と喧嘩でもなさったんですか? 今日は随分と浮かない顔をしていますよ」
 外来患者が途切れた間に看護婦が、回転椅子の肘置きに頬杖をつき、窓の外の雪ばかりを眺める宗一郎に声をかけた。
 気づけば、赤彦のことばかり考えていた。
「恋人なんて、いないよ」
 宗一郎は椅子に座り直し、白衣を整えながら彼女に笑ってみせた。
 気持ちが浮かないのは確かだ。
 昨夜の赤彦の様子が頭から離れない。凪人が出ていった後、一度も彼が笑みを見せることはなかった。
(赤彦さんの凪人さんに向けるあの笑顔は極上……)
 自分と過している時よりも感情の起伏が激しく、表情も凪人の言動ひとつでころころ変わる。宗一郎が赤彦に出会ったのが一年程前。七年以上も付き合いがあるという凪人と、自分との違いなのだろうか。
(だけど、あれではまるで恋でもしているかのようだ)
 宗一郎は顔をしかめ、すぐさまその考えを否定した。
 赤彦が凪人に感じているのは友情、そして神父の慈愛だと自分に言い聞かせた。凪人の生い立ちも、彼の手首の傷の理由もくわしく知らない。しかしそのことで赤彦は凪人を気にかけている。ただ、それだけなのだと。
 ふと、宗一郎は懐中時計を取り出した。
 時間はもうすぐ四時になる。
「いないだなんて、分かってますから。近頃、終診の時刻が近づくと、とっても嬉しそうですよ。恋人に会うのが待ち遠しいんでしょ?」
 看護婦が鋭く言う。
 自覚はある。赤彦の部屋にほぼ毎日通うようになってから、診療の合間に時計を見る回数が増えた。彼に会えるのだと思うと、ついつい顔がゆるんでしまう。
 数針縫った肩の怪我の痕もなくなり通院しなくなった赤彦の部屋に、はじめはその後の経過を心配する医師という立場を口実に出入りをしていた。しかし取ってつけたような理由が、いつまでも通るわけがない。それでも赤彦は自分の元に訪れる宗一郎を、嫌な顔ひとつせずに迎え入れてくれる。
 掃除、洗濯、料理を意外にも大雑把にこなす赤彦の代わりに、いつしか行うようになった自分はあたかも恋人のようだとひとり満足している。
 最近では、しばしば泊まることもある。
 断れない人だと知っていて、居着いてしまった。
「そういえば先生。この頃、神父様はお見えになりませんね。先生のご友人なんでしょう? 私、またお会いしたいです」
 ふいに看護婦が夢見るようにうっとりと胸の前で手を組んだ。まさかその神父様に、宗一郎が身を焦がしているとは思いもしない。
 宗一郎が苦笑した時、診療時間最後の患者が訪れた。


◆         ◆         ◆         ◆

 赤彦の部屋の戸を開くと途、端に灯油の臭いが鼻につく。同時にあたたかな空気に包まれて、宗一郎の外気で冷えた頬を火照らせた。
 燃えるストーブの音が静まる室内に響いている。
 今の時間、帰宅しているはずのないこの部屋の住人がそこにいた。
 部屋の間取りは縦に長く、カーテンで幾つかに仕切ってある。広いとは言えない室内に家具は比較的少ないが、何処も彼処も神学書が山積みにされていて、薄暗くなると歩行が困難になるほど足場は悪い。
 高い天井、白い壁。すり減り、艶やかな光沢をもった木床。大きな窓から望めるのは無人のビルディングの群れ。寂しげな景色が広がる。
 その窓際の壁に立て掛けられた姿見の真逆に、置いた長椅子。赤彦が教会から早々に帰り、そこに座っていた。
 ロイド眼鏡をかけて膝に乗せた本は開いているものの、肩から落ちるストールを直そうともせず、視線は物思いにふけって宙を漂う。訪問者の存在に気づかない彼は、昨夜のことをまだ考えているのだろうか。
「赤彦さん、こんにちは」
 宗一郎が声をかけて、ようやく赤彦は振り向いた。
「ああ、宗一郎……それは何?」
 そして眼鏡を外して長椅子の上に置きながら、宗一郎が両手いっぱいに持つ白い冬バラの花束をその目に映す。
「戸の前にあったんです。誰からでしょうね」
「俺が帰ってきた時は、なかったけど」
 赤彦がそれを受け取ると、顔を近寄せ香りを嗅ぐ。見つめながら宗一郎は、帰宅の理由を何気なく聞いてみた。
「早いですね。どこか具合でも?」
 察しはついた。
「シスター達がね、今日は帰れって言うんだよ」
 普段の彼の笑みを知る者ならば、今の状況を異常としないはずがない。予想通りの答えを出すとひと呼吸おき、赤彦の目はまた遠くを見た。
 確かに赤彦には、時折、ふっと見せる寂しげな表情もある。自分では気づいていないのか、すぐにそれは消える。しかし今、彼に落ちる憂いの影はいつまでたっても消えてくれない。
(凪人さん、か)
 宗一郎は、明らかにその原因である男の名前を心の中で呟いた。
「いたって元気なんだけど、どうしてだろうね」
 吐息に紛らせ、赤彦が続けた溶け透けるように儚げな声。腕に抱く白い花弁に唇が触れる。
 こぼれんばかりに咲き誇る『純潔』という意味を持つその花は、差出人の名前はおろか宛先も示されていない。それにも関わらず、赤彦に贈られたことを疑う余地はなかった。心も身体も汚れを知らない彼に、よく似合う。
「綺麗です」
 しばし見蕩れていた宗一郎は、思わず感嘆の声を口から漏らした。
 唐突な言葉に赤彦は片眉を上げる。宗一郎は吸い寄せられるように、そっと手を伸ばして彼の頬に触れた。
「……何?」
 熱い眼差しを真正面から受けて赤彦は、引き離そうと宗一郎の手に指を重ねた。しかし思いとどまり、そのまま添えた形になる。

 赤彦は鬼とは無縁だった宗一郎に、その存在を告げてしまったことに非を感じていた。
 宗一郎自身が鬼を見たことはない。知っているのは襲われた少女と、赤彦の肩をえぐった爪痕。だからこそなのか『鬼狩り』に赤彦が出ていく晩は安否を気遣い、眠ることなく部屋で待つ。出来れば鬼などという物騒な事柄に関わって欲しくないと思ってくれている。
 宗一郎のその優しさが、恋慕の情からくるものなのだということも分っていた。知りながら彼への態度を曖昧にして、惜しみなく注がれる好意に甘えてしまっている。
 赤彦は伏せ目がちになり、宗一郎の視線からわずかに逃げた。
「本当に綺麗だ……」
 赤彦の様子を見て宗一郎は彼の髪をすくってから手を放し、背を向けた。
「珈琲、煎れますね」
 そのまま仕切りのカーテンをかき分けて、流しの方へと足を進める。欲を理性で押しとどめ、素早く普段の通りに装った。
 外套と襟巻きを椅子の背にかけてネクタイを緩めた時、背後で赤彦がぽつりと呟く。
「ごめん……ありがとう」
 これまでにも幾度か不埒な欲望に囚われたことがあった。もし唇を無理やり奪っても、赤彦は今のように自分への引け目から拒めないのではないかと。気が済むのならと自分に身をあずけるのではないかと。しかしそのたびに赤彦が自分へ向ける笑みと引き替えになるぞと理性が叫ぶ。
「僕は……赤彦さんが笑っていてくれるだけで、嬉しいですから」
 本心だ。
 経済力もそこそこある。家事も苦ではない。自分には赤彦に人並みの幸せを与えられると、宗一郎は自負していた。赤彦も自立したひとりの男だが、このままこの生活が続けばいつかは彼も自分との幸せを感じてくれるかもしれない。恋人のような関係にならなくとも、彼が自分に笑顔をずっと見せてくれるならばそれでもいい。
(凪人さんがいなければ、の話だな)
 何につけても結局脳裏に浮かぶのは、やはり自分よりも赤彦を占める凪人の存在の大きさ。
 薄々感じていた凪人の赤彦への想いは、昨夜、確信に変わった。自分はこれ以上手を出す気はないくせに、他の男に赤彦をとられるところは見たくないと思っている。赤彦が凪人に対して持つのが恋愛感情でなかったにしても、内心穏やかではいられない。
 珈琲サイフォンのアルコールランプに火を点しながら、宗一郎は気づかれないようこっそりと溜め息を吐き出した。


◆         ◆         ◆         ◆

 昨夜の凪人の予言通りに、今朝がたから降りしきる雪は留まることを知らない。
 日も見えない高い空は灰白色。ひっそりと静寂がはびこる中、まるで虚無から落ちてくるような真綿の銀花がいよいよ街を覆い尽くす。
 視界が白白とかすみ、宗一郎は軽く目をこすった。
 急患だと赤彦の部屋に繋がった電話に呼び出され、座る間もなく部屋を後にした宗一郎がアパートの玄関口に立っている。
 傘を開こうとして、ふと人影に気が付いた。
 体に積もる雪を払いのけようともしない長い髪の男がひとり、生け垣の前で上を見上げている。視線の先を追ってみれば。そこには赤彦の部屋の窓。
「失礼ですが、何か?」
 宗一郎の声に男が振り向く。
 彼の顔を目にして、瞬時に宗一郎は息を呑んだ。黒い髪に黒い衣、その中に隠した青白い肌。死が迫った患者もここまでの顔色はしていない。
 光のない瞳が宗一郎の姿を捕え、襟の端から覗く形の良い赤い唇で音もなく笑う。
「相川、宗一郎先生ですね」
 知らないはずの名を呼ぶ声の低さに、脚が無意識のうちに震え出す。
 宗一郎の様を一瞥すると、唇に無気味な笑みを張り付けたまま男が衣を翻して歩き去っていく。
 頬にひたりと雪片が張り付く。それさえ温かく感じるほど底冷えさせた、男を包むその気配。
 姿が道の端に消えてなくなっても、彼の黒い残像が白い視界に焼き付いている。しばらくその場に立ち尽くし、宗一郎は指ひとつ動かすことができなかった。
 

 

 

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