一章(6)
部屋にあふれる珈琲が沸き立つ軽快な泡音とアロマに、男の声が入り交じる。
「どうぞ。赤彦さん」
仕事帰りにやってきた医師、相川宗一郎が、赤彦の前に琥珀色の液体を並々と注いだ容器を置いた。
赤彦は、小脇に立って誠実な笑みを浮かべる宗一郎に礼を言い、苦めの珈琲を口に含んだ。
「それで?」
そして机を挟んで向かい合う凪人に、言葉を続けようとゆるりと唇を押し開く。
「ここ数週間、君はどうしていたんだい?」
「別に」
凪人は素知らぬ顔をして、机にばら撒いた薬莢(やっきょう)を短銃に込めている。はなから彼の口から答えが聞けるとは思っていなかった。
赤彦は視線を上方へと向けた。頭上から吊り下がる電燈の球がとろとろと緋色の光を滲ませている。すっかり夜闇に染まったこの空間で、わずかな抵抗を見せている。
「君は時々、思い出したかのように疎遠になる」
見つめながらぽつりと漏らした。
ふと凪人が銃を弄る手を止め、唇の片端を吊り上げて笑った。
「すっかり此処に居着いているんだな」
言葉の鉾先は赤彦の部屋であるにも関わらず、慣れた手つきでサイフォンを扱う宗一郎。言われて彼は濾過器の中の粉を捨てながら、凪人を非難するように冷ややかな目を向けた。
「そう睨むなよ。俺には?」
それでも気にせず凪人は珈琲をせがむ。
宗一郎は赤彦をちらりと見やった。視線の先にあるのは、シャツの襟元から覗く赤彦の首筋。白い肌の上に残る凪人の口付けの痕。
再び凪人に目を戻し、指先で自分の首をとんとんと軽く叩いて彼に見せた。
薬莢を摘まみ上げながら、凪人があぁと頷きにやりと笑う。
「そこにしか付けてないぜ?」
「当たり前です!」
肉食銃を彷佛させる男をものともせず、宗一郎は声を荒げて食ってかかった。糊のきいたシャツ、洒落たネクタイとベストを身につけた普段は落ち着き払った青年医師も、赤彦の事ばかりは常に引けない。
「彼に妙な事をしないでください。凪人さん、だいたい貴方は……」
「珈琲、出してあげて。宗一郎」
「はい。気は進みませんが、赤彦さんがそう言うのなら」
しかし赤彦に言われると一転して目尻にしわを寄せ、にっこり笑って答えてみせた。
「鼻の下がのびてるぞ」
揶揄する凪人の声はもはや無視をしている。
「毎日ここに来ているのか? あいつは」
ほどなくして凪人の前に乱雑に珈琲を置き、背を向けてふたたびびサイフォンの手入れをはじめた宗一郎を横目で見ながら、凪人が赤彦に聞いた。
「彼は朝晩の食事も作ってくれるんだ」
「へぇ……まあ、お前の料理は豚のエサ以下だからな」
「根に持つね。慣れればあれも悪くはないよ」
「飯は慣れで喰う物じゃねえ」
凪人の皮肉を受けて、赤彦は笑った。
たった数週間の隔たりだった。それでもようやく戻ってきたかのように思える凪人との時間に、心の底から安堵する。
「あまり見愡れるなよ。そんなにいい男か?」
思わず熟視してしまった赤彦に、冗談めかして凪人が言う。
「まあね」
赤彦の答えたその言葉は、あながち世事でもない。
無造作に肩まで伸びた黒髪に男の香り。逞しい胸や腕は外套の上からでもよく分かる。まるで狼のような双眸。不適に笑うその唇。同性にも一種の憧れを抱かせる雄々しさを凪人は持っている。
(だけど、少し顔色が悪い)
しかし彼の袖口から覗く手首の傷を目にすると、赤彦の顔が物憂げに歪んだ。
凪人に手を伸ばし、彼の手首にそっと指を這わせる。『飢え』を凌ぐために自分の血を飲んだばかりなのだろうか。まだ薄い膜がはっただけの生々しい傷跡を丁寧になぞりながら詮索する。
傷が自分のものであるかのようにひどく辛い顔をする赤彦を見て、凪人は苦笑いを浮かべた。
「もう、いいだろ」
言いながら振り払うように手を引く。そしてすぐさま二つ目の銃を外套から取り出し、また弾を詰めはじめた。
それは『鬼狩り』のための銃。
「今夜も行くのかい?」
凪人もまた『鬼狩り』。経験も、腕も、はるかに赤彦の上をいく。
しかし赤彦とは違う。彼の行為は、純粋に『狩り』だった。
「胸を貫けば、確かに彼等がふたたび蘇ることは無い。でもそれだけでは魂は決して救われないよ」
「お優しい」
赤彦は机に肘をついて胸の前で両手を組むと、凪人を真摯に見つめて穏やかに語った。
「死してもなお生きたいと願うのは欲深い。でもまったく理解できないわけでも無い……ただ、この世は生者のためにある。死者が彷徨う場所じゃない。生への執着を断ち切り、父なる神の元に昇天してはじめて彼等は罪を償い浄化される。人の心を忘れ、生き血を啜るためだけに存在し続けるのは辛い。だからね、俺は彼等に伝えたいんだよ。死を恐れることは無い。光の中へと還るのだからと」
「神父様の説教はいい。俺は奴等を救おうなんて少しも思っちゃいない」
投げやりな凪人の言葉に、赤彦は眉を寄せる。
「切り刻めれば、それで満足だ」
今にはじまったことではない。
凪人は鬼と人の間に生まれた不貞の子だった。
体内には『鬼の血』が少なからず流れている。鬼と変わらぬ強靱な肉体、人並み外れた腕力、光よりも闇を好む習性を宿し、そして数日に一度はその体を『飢え』が蝕む。
人でありながら鬼でもある。理性をも喰う、自分の中の鬼への恐怖ゆえに凪人は鬼に恨みを抱き彼等を狩り続けている。
赤彦が凪人を気にして止まない理由がそこにあった。
いつ自分を襲うか分からない『飢え』で人をその牙にかけないようにと、凪人は人と深く関わることを避け、常に孤独を強いて生きている。
(それは俺でさえ……なのか。伝わらないのか。俺の想いは)
凪人は自分の弱さを決して赤彦に晒そうとはしなかった。凪人の苦しみも彼が口にしたことではない。それは赤彦の推測で知った事柄だった。
「卑屈にならないでくれ。君は人だ」
「どうだか」
凪人が受け流して嘲笑う。
「ほら、こんなにも温かい」
赤彦は凪人の手をそっと包み込んだ。そこにあるのは生者の体温。赤彦から反らされた彼の目の色は漆黒。どちらも鬼のものではない。
「凪人。憎しみは何も生み出さない。悲しいだけの感情だ」
凪人は赤彦の手を振り払いはしないが、何も言おうともしない。
いつもそうだ。
「無責任な事を言っているのは、承知している。だけど、君は俺に少しも頼ってくれないのかい?」
いつしか赤彦は、彼に心を強いるような言葉を漏らしていた。
自分に庇護を求めて欲しい。凪人の自発にまかせようと、いくら思っても一度も口にしなかったその願い。胸に秘めておくのは、もう限界だったのかもしれない。
「俺に何かできない?」
言葉にしてしまえば、なんて軽薄に聞こえるのだろう。まるで弱音を吐いているようだと、赤彦は自嘲した。
それでも凪人は答えない。
赤彦の唇から、ふっと吐息が滑り出る。知らず知らずのうちに凪人に触れている両手に力をこめ、目を伏せた。
目蓋の裏に浮かぶのは、つい先ほどの凪人の目。あの時、芽生えた期待の疼き。
彼の目が忘れられなかった。たった一瞬、あたかも本心を覗かせたかのように見えた眼差しが。
「本気で望めば、と君は言ったね。俺は君が欲しい。君の心が。もし望むならいくらでも俺は……」
そこまで口にして、赤彦は言葉を詰まらせた。
その思い込みは馬鹿げていた。なぜ彼の戯れ言に固執してしまったのだろう。
視線を上げ、凪人の顔を見つめる。彼に表情は無く結んだ唇は何も語らず。瞳は宙を見て、赤彦の姿を映してはくれない。
「いや、忘れてくれ」
赤彦は凪人から手を放し、椅子の背に寄り掛かると自分に両肘を抱き締めた。
凪人が自分と体を重ねることで、執着してくれるでも思ったのだろうか。己の傲慢な思考に呆れ返る。
払拭するかのように自らも凪人から顔を背け、彼とは逆の闇を見た。
「どういうつもりで言っているんだ。いい加減にしろよ赤彦」
一瞬の間の後、ここまで沈黙を守ってきた凪人が呟いた。その声色は低く、赤彦の胸を貫く。
「悪かった……どうかしていたよ」
言いながら赤彦は再び目を伏せた。
「いくらお前が美人でも、俺にそんな趣味はねえぞ」
更に続ける凪人の言葉が痛い。ただ、ひたすら自己嫌悪だ。溜め息が口から溢れ出る。
「そうだね……」
二丁の銃を外套の裏の左右に仕込み、凪人が腰を上げた。
「もう、行く」
しかし立ち上がった彼は片手を机につき、遠く離れた窓辺のカーテンに映り込むネオンの光を見つめたまま動こうとしない。何かを思案するような凪人の横顔。その顔を赤彦が見ることは無かった。
直視できない。この次に会うのがいつになるか分からないのに。
「家に……猫が一匹いる」
やがて凪人が唐突に口を開いた。
「初耳だね」
赤彦があいづちを打つ。その声はここにあらずだ。
「あかひこ、って名前のがな」
凪人の言葉に過敏に反応したのは宗一郎だった、彼の顔を見て、目を大きく開く。
凪人が動き、外套の中で無数のナイフが音を鳴らす。
「冗談だ」
言い捨てると素早くその身を翻し、彼は部屋を出ていった。
赤彦に凪人の最後の言葉の意味を考える余裕はなかった。
気付けば、宗一郎の姿もいつの間にか無い。薄暗い部屋に赤彦独り。電燈の緋色の光が彼の顔に濃い影を落とす。
「馬鹿だね。俺は」
赤彦は儚げに笑い、ひとりごちに呟いた。凪人が離れていくのは自分の気持ちが重荷だからなのだと、今更ながら勘付いた。気づいてしまえば、これ程までに納得いく理由は他にない。
「本当に……」
◆ ◆ ◆ ◆
「凪人さん!」
階段を降りはじめていた凪人が、足を止めて振り向いた。宗一郎が神妙な顔つきで凪人を睨んでいる。
「赤彦さんと何があったか知りませんけど、あんな言い方はないんじゃないですか?」
凪人は黙ったまま、ふたたび階段を降りはじめた。後ろから宗一郎が足早に追ってくる。
吹き抜けの階段に、二人分の足音が高々と響き渡る。階を降りるごとに徐々に外気を体に感じ、呼吸が白く変わっていく。
幾つ目かの角を曲がった時、不意に凪人が声を発した。
「宗一郎。赤彦に妙な真似してみろ。ただじゃすまさねえぞ」
赤彦の部屋に居着いた男への警告だ。
「僕は赤彦さんの嫌がる事はしたくありませんから。だけどそれは貴方に言われる事ではないですよ……妙な真似をしたのは凪人さんの方でしょう?」
宗一郎は臆することなく言葉を返す。
「僕は心配なんです、彼が。赤彦さんは優しすぎる。それでいて、いつもどこか寂しげだ。傷つけないで欲しい。彼は貴方が思っているほど、強くない」
寂しげ。
言われてみれば、思い当たる節はある。常に自分のことに手一杯で、赤彦のそれに気づかなかった。気づこうともしていなかった。付き合いの年月など問題ではない。この男の方が自分よりもよっぽど赤彦に近しいのだと、凪人は淡い嫉妬を覚えて眉を寄せた。
凪人の表情の変化を見ることはなく、宗一郎はふっと短く息を吐き出して更に言葉を続けた。
「飼い猫が『あかひこ』ですか……笑えない冗談ですね。前々から思っていましたけど、凪人さん。貴方も赤彦さんを……」
そこまで言って、口を閉ざす。振り向いた凪人の獣のような双眸に睨まれ、それ以上は言えなかった。かすかに憂いを含んだ深いその色合いは、宗一郎の知る軽口をたたく凪人の眼ではなかった。
「……しゃべり過ぎましたね」
宗一郎が言葉を終えた時にはもう、二人はアパートの玄関まで辿り着いていた。冷たく澄みきった大気に触れ、上着も羽織らずに飛び出してきた宗一郎は肩を抱き、身震いした。
広がる暗夜。人の行き交うことを知らないこの界隈。あまりの静けさに耳が痛い。無人の建物の屋上に掲げられた広告ネオンが時折点滅しながら、うっすら積もる雪でぬかるむ水戸を照らし出す。
はるか頭上には、夜空に滲む朧月。
「明日は雪になるな」
凪人は無意識のうちにこぼしていた。瞳は道の遠くを映し、黒髪を寒風にたなびかせる。
「まだ降りますかね」
宗一郎が月を仰いでそれに答える。
「ああ、春には遠い」
今年の寒波は過ぎ去った。暦ではもうすぐ春になる。それでも冬は、まだ続く。
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