赤色

 

一章(5)

 
 夕暮れ時、明かりのない部屋。窓辺に置かれた鏡に、赤彦の裸体が浮かぶ。
 窓の外では夕日が赤々と燃えながら沈んでいく。室内はいよいよ薄暗い。壁のひび割れ、天井の雨漏りのしみ、すり減った木板の床、決して豊かとは言えない安アパートの屋根裏部屋での生活は、すべて闇の中へと消えていく。
 辺りはすでに夜半の静けさに包まれ、見えるものは鏡に映る赤彦の姿だけ。
 赤彦は自分の体に指を這わせていた。
 雪国生まれの白い肌。うっすら透ける淡青の静脈。まるで天鵞絨の肌触り。鬼をも倒す肢体はしなやかで、均整のとれた骨格を有している。衣服で隠すその部位を今は覆うものは何もなく、赤彦しかいないこの空間で狂おしい程の色気を惜しみなく放っていた。
 長い睫毛の下から覗く甘い眼差しが、柘榴のようにぱっくり割れた唇が、口付けをねだる。
 赤彦は誘われるままに顔を寄せ、鏡の中の男に自分の唇を押し当てた。冷たい硝子の感触。しかし彼はうっとりとして赤彦の口付けを受けていた。吐息が鏡を曇らせる。
 次第に体をまさぐる手の平を鏡の上に滑らせていく。自分の手に手をそっと重ね合わせ、そこにぬくもりを探すかのように触れた。
(どうして、こんなにも虚しさが募るんだろう)
 喉が動き、唾液が食道をくすぐるように落ちていく。

 自分が人から愛されていることを、赤彦は知っていた。
 心優しき神父を誰もが慕ってくれる。彼等に応え、神父として尽くすことが赤彦の喜び。不満はなかった。
 しかし時折、苦しいくらいに胸を締めつける切なさが、体をひどく火照らせる。
 赤彦はそのたびに、鏡の前で手淫をしてきた。
 快感に白む意識の中で覚えるすべてを忘れ、すべてを埋めてくれるようなあの安らぎ。錯角だと解っていても、赤彦は他に体を鎮める手段を知らない。
 誰にも漏らしたことのない空虚を、知っているのは鏡の中の彼だけだ。
「この一時が心を癒してくれる。俺は、妄想に取り憑かれているんだろうか?」
 語りかけても彼の答えはない。同じ口の動きで問いを反復するだけ。赤彦はその唇に顔を寄せ、濡れた舌を押しつけた。眉をひそめて眼をつむり、静かに鏡を舐めていく。
「随分、いい眺めだな。赤彦」
 背後の暗がりから声が上がり、不意に赤彦は現実に引き戻された。
 そっと口を放して鏡に頭をもたせ、力なく息を吐き出した赤彦に、ふたたび揶揄する男の声がかかる。
「いい時に来たな」
 赤彦は振り向かず、男がいつから部屋にいたのだろうかと思いを巡らした。それから彼は常に気配を感じさせないな、と微笑した。

 男が歩く様を耳で知る。消したばかりのストーブがぬくめて淀んだ空気をかき分ける、硬いブーツの足音。踏み出すたびに木床がきりきりと悲鳴を上げた。
 それに混ざって布擦れの音。
 ほどなくして姿が鏡の端から映り出す。赤彦のすぐ後ろで立ち止まると、男の外套がざらりと赤彦の肌に触れた。布に染みこんだ外気の匂いが漂い、鼻腔をくすぐる。
「続けろよ。見ててやるから」
 男がからかいながら、日除けにかけた色眼鏡をはずした。
 男の大きな目が覗く。鏡の中の赤彦の目と目が合うと、彼は年下の友人に口を歪めて笑ってみせた。
「それとも、俺がしてやろうか? こうやって……」
 男の腕が動き、赤彦の肩を抱く。
 その時、袖口から蒼ざめた手首が覗いた。
「っ……凪人!」
 次の瞬間、首筋に生あたたかな感触をあてがわれる。
 赤彦は思わず男の名前を呟いて、体を震わせた。いや、その男――凪人の腕にしっかりと肩を抱かれている。実際には、体は微動だにしなかった。
 凪人の唇が首筋を這う。ちゅっと小さな音を立てて薄い皮膚に吸いつくと、肩を抱く手に力をこめてきた。
 痛みはかすかだ。しかし急激にその箇所に熱が集まり、脈打ちはじめる。背筋に甘い痺れが這いずり回り、一瞬、意識が白んだ。
「は……っ」
 喉をのけ反らせて火照った吐息を漏らすと、凪人は唇を離す。
 口付けから解放されたそこには、はっきりと鬱血の痕が残っていた。

 長い付き合いがある凪人に、手淫の場面を見られたのははじめてではない。彼は昔から勝手に部屋に入ってくるし、赤彦もそれを許してきた。
 とはいえ、今までこんなふうに触れられることはなかった。しかし彼の行動に、深い意味はないのだろう。ただの戯れだ。
 戯れがすぎると思っても、咎める言葉は出てこない。久しぶりに無事な姿で尋ねて来た男の体温が愛しく思えて、腕を振り払うことができなかった。
(会いたかった……)
 心が呟く。
 肩を抱く凪人に体を預け、赤彦は彼の腕に頭をもたせて目を閉じた。
 この男に会いたかった。夢に見るほどに。
「おい。あんまり大人しいと、犯すぞ」
「君はどこまで本気なんだい?」
 赤彦は軽く受け流して微笑すると、さりげなく股間を手で隠した。
「どこまで、か……」
 不意に凪人がぽつりと呟き、赤彦の肩を抱く手を動かした。股間に添えた赤彦の手に手を重ね、低い声で耳打ちする。
「本気で望めば処女をくれると言うのか?」
 その言葉に目を開いてみれば、鏡に映る凪人の顔に笑みはない。向けられたのはl妖しい鈍色の目。何もかもを射すくめるような鋭い眼光。
「凪人?」
 赤彦は怪訝に眉を寄せ、鏡の中の凪人を見つめ返した。
 凪人は何も言わない。
 沈黙の中で彼は、指を赤彦の指に絡めてくる。一本、また一本と徐々に追い詰めるように密着させ、やがてすべて絡み終えると赤彦の手ごとそこを強く握りしめた。
「あ!」
 淡い痛みに、赤彦は悲鳴を上げた。

 数秒の間があった。
 突然、凪人が吹き出した。彼の笑いは止まらず、うつむき、声を殺して肩を揺らす。
 赤彦はその様子を見て短く息をつき、さっと凪人の手を払いのけた。
「……放してくれ」
「怒ったのか?」
 凪人が悪びれもせずに聞いてくる。
「そうだね」
 曖昧に返答して顔にかかる髪を掻きあげながら赤彦が腕越しに見た彼は、すでに何事もなかったかのように外套からシガーケースを取り出している。
 ただの戯れだ。
 凪人は煙草を摘むと唇に寄せ、何気なく口付ける。ふと赤彦の視線に気がつき、片眉を上げた。
「なんだ?」
「いや……服を、着てくるよ」
 赤彦は呟き、凪人に背を向け歩き出した。
 部屋の奥で仕切りのカーテンの割れ目を重ねて閉じると、レールが甲高い音を鳴らして鋭く夜気を震わせる。布に姿を隠して独りになり、赤彦は天井を仰いだ。
 平然を装っていても、動が揺抑えきれない。耳元で鼓動が熱く打ちつける。
 怒ったわけではない。一瞬、本気にも見えた鏡の中の彼の眼差し。あの目を見た時、口唇を震わせながら赤彦は何かを恐れ、何かを期待した。
 カーテンの深緑色のスエード地を透かして、ぼんやり煙草の朱色の火が映る。遠くで凪人が溜め息にも聞こえる長い息を紫煙とともに吐き出している。
 赤彦は凪人のつけたわずかに疼く痕をなぞり、そっと目を閉じた。
 

 

 

Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!