一章(4)
藍色の分厚いカーテンから、傾きはじめた日が部屋に差しこむ午后。ゆらゆらと揺れ動くほの暗い青い光が辺りを包み、ここはどこかと思わせる。
その中で長椅子にうつぶせで倒れている男が、安らかな寝息をたてていた。冷たい大気に薄白い息を唇から吐き出しては、藻屑のように散らせていく。三十近くの、背の高い、野性味あふれる男。影の落ちた頬が異常に青く見えるのも、やはり光のせいなのか。
呼吸をするたびに大きな肩を静かに上下させ、まるで海の底に眠る獣。
やがて瞳をとろりと開き、何も映さずにただ宙を見つめた。
振り子時計が鳴りわたる。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
よっつ。
午后四時。音の数で時を知る。
(……まだ早いな)
男のかすかに覚醒した意識が呟く。
カーテン越しに太陽の熱を皮膚に感じていた。陽光を苦手とする体をもつ彼、凪人は夜明けと共に眠りにつき、日暮れに起き出す。起床するにはまだ早い。
ふたたび凪人は眠るために目を閉じた。
目蓋の裏に映るのはひっそりとした青闇。しだいに意識はそこに落ち、呼気が寝息に変わっていく。
ふと腕がだらりと床に垂れ、シャツの袖口からわずかに手首を覗かせる。
そこには血脈に沿って無数に残る歯の痕。一帯が、痛々しく赤紫に変色して痣になっている。
半刻が過ぎて、またひとつ時計が音を打ち鳴らす。
気がつくと、凪人は目蓋を開いていた。
いまだ日が差し込む中、いつから目を覚ましていたのか自分でも知らない。ただひとつ分かるのは、貪欲な『飢え』が眠りを妨げたということ。ギラギラとしたそれは、体の奥底から『食事』をもとめて沸き上がりはじめていた。
顔をしかめた凪人は億劫な肢体を動かして、煙草を取り出し火をつける。銜えたまま、唇との隙から灰白色の煙を漏らしていく。吸気に触れ、音をたてながら朱色に燃えた先端。もえがらがはらはらと散って辺りを汚す。
そうしながら凪人は、自分の手首の傷痕をずっと見つめていた。大きな目をまばたきのために、閉じることも忘れて。
やがて薄笑いを浮かべ、煙草を落とす。気休めに銜えたそれも、生存本能がつき動かす食欲の前では無意味だった。
ほのかに開いた唇を傷痕にこすりつけながら、またかと最後にわずかに残る理性が自嘲した。
床に落ち、細い煙を立ちのぼらせてしばらく燃えていた煙草の火は、ほどなくして鎮火する。
雲に日が隠れ、辺りを照らす水面のような光のきらめきがすっと静かに消え失せた。滲むように影が広がり、奇妙なほど潜まるこの密室。暗がりでひたりと水音が立ちはじめる。
ひたりひたりと静かにたっては消えていくその音は、自分の手首にうずめたわずかに尖った凪人の犬歯の隙間から溢れ、床に落ちてシミを作りだしている液体の音。それは赤赤とした血。
凪人は手首の皮膚を引き裂いた。
行き場を見つけ、瞬時にだくだくと流れ出す鮮血。横たわる獣が舌に絡めて貪り舐めていく。赤く濡れて艶めかしく照り輝くその舌を肌にぺとりと押しつけて、何度となく手首から肘にかけて這わせていった。
恍惚の表情を浮かべる凪人の全身を、性的快感にも似た震えが支配していく。
濃い血の味が充満する口中から白く熱い息が吐き出され、辺りは異様な臭いに包まれる。
どれだけそうしていたか。やがて『飢え』が満たされて、落ち着きを取り戻しはじめた思考が血に快楽を覚える性分を静かに自責した。幸か不幸か、長年繰り返すその行為に凪人が慣れることはない。
虚ろな眼で体の『飢え』を癒す唯一の『食事』に見入りながらその視線の端にふと、黄金色にかがやく瞳を映した。
そこにいたのは飼い猫だ。離れた暗所で微動だにせず、黒色の雌猫が主人をひそかに凝視していた。
(……来いよ)
貧血でいよいよ白濁していく意識の中、凪人は溜め息まじりに彼女につけた名前を呼んだ。
「来いよ、『あかひこ』」
汗が滲んだ顔に悲痛な笑みを貼りつけて、血の滴る深紅に染まった腕を救いを求めてすがるように差し出す。
その名前の先に、他ならぬ赤彦本人を見ながら。
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