一章(3)
紅色に開いた寒椿に霜が降りた。それは古びた安アパートの生け垣の花だった。
赤彦は側に立ち、誰もいない道の向こうをひとり見つめていた。花より赤い唇から溢れる白い息は、あたかも体の中にある命の温度を見ているかのよう。
静まる住宅街に、朝焼けで染まって赤みを帯びた靄がとっぷりと立ち篭める。視界はほのかにかすむ。日の光でゆるんだ柔らかな空気を肌に感じながらも、透き通る寒さがまだ身に滲みる早朝。
赤彦は目を覚ますや否や薄着のまま外に出て、それからずっと、こうしていた。
「赤彦」と、起きがけに聞きなれた声に呼ばれた気がしたのだ。
だけど望んでいた人の姿はどこにもない。声は目覚める直前に見た夢だと分かっていても、その声をもつ友人の影を探さずにはいられなかった。
未だに道の先を眺めながら、赤彦は霜で濡れた生け垣にひたりと軽くもたれた。シャツが冷たく湿って体にまとわり、しんなりしたその白布に肌の色がかすかに映る。蜜を吸うかのように寒椿の花に額を当てれば、とろとろと、涙のような雫が頬まで伝って流れていく。それをそっと手で撫で拭いた。
(しばらく、君の顔を見ていない)
実際、彼とはほんの数週間前に顔を合わせていた。それなのにもう随分と長い間、会っていないように感じてならない。
知らず知らずのうちに、濡れた顔をぬぐおうと上げた赤彦の手の平は自分の片肩を抱いていた。薄い布をへだてて指先の淡い熱が冷えきった肌をわずかに温める。もう一方の手も誘われるままに、ゆるりと肩を覆って抱きしめた。
その友人への危惧がつきないのは、彼が孤独な生き方を自分に強いているから。
長い付き合いになるが、彼が赤彦を心から頼ってきたことはまだ一度もない。
(俺では力不足なのかな……)
赤彦はたまらず、息を吐き出して目を伏せた。
吐息は寒さに出会って白くなる。辺りに漂い、やがて大気に溶け透ける。
靄の中でしだいに膨張し、辺りを覆いつくす暁光。朱色の輝きがてかてかと、赤彦の濡れた皮膚を光らせた。
「赤彦さん」
頭上から呼ばれても、赤彦は目を閉じたまま。振り返りもしない。
「そんな恰好じゃ風邪をひきますよ。何か羽織ってください」
アパートの最上階の窓から、宗一郎が気遣う言葉をかける。
そう言われてはじめて赤彦は服だけではなく、うっすらと積もる足元の雪で革靴までもがじっとりと濡れている事に気がついた。唇が寒さに小刻みに震えている。どれだけの時間をここで過していたのだろう。
「いいよ。もう戻るから」
宗一郎に聞こえないほどの小声で呟きながら、赤彦は静かに目を開いた。
「……ふ」
そして杞憂をふり払い、かすかな笑いを声に出した。
(俺が心配なんかしなくても、いつものように……君は今ごろ眠りについているんだろう?)
落日の頃に起き出し、日光のあるうちは息を潜めて薄暗い密室で眠る友人。
「ねえ、凪人」
赤彦は吐息とともに、その男の名前を唇から滑らせた。
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