一章(2)
小高い丘の教会から続く坂道を、路面電車が降りていく。
時折、けたたましく汽笛を鳴らしながら、重苦しい夜闇を泳ぐ魚のように突き進んだ。
車内は煌々と光る蛍光灯に照らされている。黄ばんだ光がまぶしくて目にしみる。群がる蛾がせわしなく羽をばたつかせ、埃のような鱗粉を撒き散らしていた。
電車の胎動のような揺れと音は心地よい。
時間は遅く、乗客は一人だ。
苔色の座席で、神父服を着た美貌の男がまどろんでいる。帰宅途中の神父――今井赤彦は体にのしかかる疲労に身をまかせ、座席に沈んでいた。
冷たい窓にこめかみを当て、硝子に映りこんだ自分の顔を眺めていた。ゆるゆると通りすぎる民家の灯りが、道端に均等に並べられたガス灯の火が、車窓を照らすたびに硝子に映る自分の像は消え、またおぼろげに浮かびあがる。
「神父様」
自分を呼ぶ声にうながされ、赤彦は窓からゆっくりと視線を外した。
気づけば、目の前に長い髪の男が立っていた。
闇色のマントを羽織った男だ。顔を上げ、明るい光に目を細め、ようやく見えてきた彼の顔には見覚えがあった。
歳は赤彦より、ひと回りほど上だろうか。しかしそれ以上の悠久の時を感じさせる。恐ろしく静かで、同時に不気味なざわめきを漂わせていた。
顔はひどく青白い。深々とかぶった山高帽から覗く双眸に光はなく、物憂げによどんでいる。
まるで生命を感じさせない。それでいて唇だけが妙に薄赤く、生々しく、精気に満ちあふれていて目を惹いた。
誰だっただろう。
赤彦は軽く眉を寄せながら、記憶をたぐり寄せた。
どこか異様なこの男と、以前にあったことがある。しかしなかなか思い出せない。
教会に通う信者の顔を脳裏に浮かべながら、赤彦は唇を開いた。
「君は確か……」
曖昧な問いに男は軽く会釈をしてみせる。そこで思い出した。
男はたびたび教会を訪れていた。
訪れるのは決まって、陽光が陰る逢う魔が時だ。懺悔を請いもとめて来るが、彼が罪の告白をしたことは一度もない。いつも震える唇をきつく噛みしめて、罪を口にできない自分の不甲斐なさに悲嘆に暮れながら「私は今夜もまた、罪を犯してしまうでしょう」と、奇怪な言葉を残して去っていく。
神の赦しを切望する、熱心な信者と記憶している。
しかし彼が気にかかるのは『救いを求める信者』だからという、それだけの理由ではないようだ。
さっきから赤彦は落ち着かない。目の前の男の体を覆いつくす、まがまがしい闇の気配のために心がざわめく。教会という聖域では身を潜めていたそれが、ここでならいとも簡単に感じてとれる。
なぜ今まで気がつかなかったのか。
彼と酷似した空気をもつ存在に、赤彦は精通していた。
男は赤彦の思考を見透かして、自嘲ぎみに笑う。そしてそれを肯定するかのように口を開いた。
「貴方のことだ。そろそろ私の正体に感づいているのでしょう?」
赤彦は静かに男を見つめた。
(彼は、人じゃない)
その時、汽笛が長々と鳴り響いた。まるで獣の咆哮のようだ。
振動した大気に音は、じっとりと滲みていく。軌道に沿って後方へ流れて消える。
かすかに漂いのこる余韻の中で、ふと男が吐息に紛らせて赤彦の名前を口にした。
「赤彦」
赤い唇をゆるりと開き、艶やかな低音を漏らす。
「私はずっと貴方を見てきた。貴方のことならば、なんでも知っています。慈悲深く、美しい……そして」
言葉を区切ると、男は赤彦の顔をちらりと覗き、揺れる眼差しを向けてくる。
やがて声をひそめて続けた。
「『鬼狩りの神父』だということも」
再度、汽笛が鳴りわたる。
鬼。それは死人でありながら生に異常な執着を持つあまり、魂が肉体にふたたび宿って蘇る亡者だ。生命の力を渇望する彼等は、人の生き血を糧にして、この世にとどまり続ける。彷徨える死霊を、『鬼』と呼ぶ。
街の闇に埋もれて狡猾に生きる彼等に、街で平穏に暮らす人間が気づくことは、まずない。運悪く知るのは食糧に選ばれ、命をなくす瞬間だ。
恐怖に怯えて暮らすよりも、無知でいた方が幸せなこともある。だからこそ自分が秘かに狩るのだと、神父として赤彦は自らその役目を負っていた。
そして、今、目の前に鬼がいる。
「そこまで知っていて、君は俺に何を求めているんだい?」
穏やかに問うこの『鬼狩り』は、人を想いながら鬼をも想っていた。
迷える不死者の魂の解放、魂の昇天。鬼を『狩る行為』は彼等を哀れみ、神の元へ還すために祈ることだと、赤彦は信じていた。
(だけど今、俺は彼を救える銃を持っていない)
がたりと電車が大きく揺れ動いた。
線路の繋ぎ目に車輪がつまずき、そのまま通過していく。蛍光灯の灯が一度消え失せ、即座にまた光りだす。散った蛾もすぐに光の中に所在を見つけてたかりだした。
「神父様」
そのまばたきほどの合間に、男は素早く赤彦の前にひざまずいていた。
赤彦が脚に置いた手の上に自分の両手を重ねてのせながら、そこに額をあて、祈るような姿勢を見せていた。
凍えるような死者の低体温。接点から体温を奪う。
「神父様……私は……」
男は言葉を詰まらせ、すっと顔をあげた。
赤彦を見る真摯な眼は、かすかな赤を発色して光る。それは確かに鬼の目でありながら、神を畏れ敬う信者の目。
(人の心を残す鬼、か……)
悲痛な面持ちで、鬼として存在する自分の罪の赦しを求める。
赤彦は男の頭に手をかざした。
そしてもう片手で十字を切り、祈りの言葉を口にする。
「主が、貴方と共におられますように」
一字一句のがさないように、赤彦の動く唇を男の視線は追っていた。やがて彼は受けとった言葉を噛みしめるかのように目をきつく閉じた。
「貴方はあたたかい」
ため息と共に言葉をつづる。
男は立ち上がり、帽子のふちを指先で軽くつまむと赤い唇を歪めた。
「赤彦」
知らないはずの名前をふたたび口にする。優雅な物腰で一礼しながら、更に続けた。
「いずれまたお会いしましょう」
次の瞬間、突如として電車の前後左右の扉が開いた。
狂風が車内になだれ込み、渦を巻く。
高々と響く悲鳴に似た風音。男の闇色のマントが風をはらむ。彼の長い髪が生き物のようにうごめいた。
「……っ!」
吹きすさぶ風の圧力に息もつけない。まとわりついては擦り抜けていく、引き裂くようなその勢いに体をひたすら硬くして、腕で顔を覆いながら赤彦は目をつむった。
永久に続くかとも思われた吹きすさび。
しかし次第に終わりを告げていった。風は徐々にぬるくなり、治まっていく。
ようやく腕の間から薄目をあけて見たそこに、男の姿はすでにない。風と共に忽然と消えていた。
赤彦は開け放たれた扉に駆け寄り、車外を見た。
電車が過ぎ去っていくそこにも、やはり闇ばかり。穏やかな夜風が頬を撫で、乱れた赤彦の髪をすくって揺らす。
まるで何事もなかったかのように、辺りは静まり返っている。
相変わらず続く坂道を路面電車が走り、降りていく。日々見慣れた景色がゆるゆると後ろに流れ、夜闇の中へと消えていく。
それでも男は確かにいた。赤彦は見えない姿をなおも追って暗闇を凝視した。
(彼の言うとおり、また会うことになるかもしれない)
彼が鬼である限り。
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