赤色

 

一章(1)

 
 静寂が耳を貫く、旧地下水路。
 築かれた街の下に縦横無尽に張り巡らされたここは、だいぶ以前に封鎖されていた。すでに水は枯れているが、どこからともなくもれた地下水が所々に水溜まりを作り出し、辺りは湿気とカビ臭い異様な空気に包まれている。
 照明はまるで無く、あるのは闇だけだ。
 しかし今はその中で、二つの赤色の光が揺らめいていた。
 鬼の眼だ。鬼が一人、そこにいた。
 彼女の口元を、鮮血が濡らしている。顎から滴る赤いそれが一滴、また一滴と軽やかな音をたてて落ちていた。
 たった今、『飢え』を満たした彼女は、恍惚として闇しか見えない天井を仰いでいた。人から奪った生命が体内を駆け巡り、しみ渡る。その快感に酔いしれる青白い頬が徐々に薄紅色に染まっていく。
 鬼の足下には首筋から血を流し、苦しげに喘ぐ若い娘の体が横たわっている。鬼に捕食されたこの少女は、生死の境をさまよっていた。

 未明の地下水路は、鬼の巣窟と化している。人が足を踏み入れないここは、地上で捕えた獲物を引きずりこみ、時間をかけてじっくりと食事を取るのに都合がいい場所。
 辺りを覆い囲むコンクリートの壁は硬く、分厚く、腐敗臭も漏れず、骸になった獲物は誰にもその死を知られることなく静かに朽ち果てていくだけだ。
 みだりに姿を人に晒さず、獲物にだけ己の存在を知らしめる。
 街の闇に潜む彼等の、狡猾な生き方だった。
 ふと、鬼の至福を掻き乱し、硬質のブーツの足音が筒状の空間に反響しはじめた。
 その音は無気味なほどゆっくりと、前方から近づいてくる。
 やがて十数メートルばかり離れて止まり、代わりに甘くかすれた声が暗闇から上がった。
「その子には、まだ息があるようだね」
 暗所に慣れた鬼の眼が映し出したのは、そこに現われた美の造形。
 白皙の肌が闇に浮かぶ。歳は二十四、五。見た目の年齢にしては恐ろしく落ち着き払った雰囲気をまとい、その甘美な眼差しを見る者は彼に酔う。ぞくりと背筋を震わせる匂うばかりの美しさ。
 鬼も一時、男に見蕩れていた。しかし彼の外套の襟元から覗く白々としたロザリオを目にすると、顔を途端に強張らせた。
「鬼狩りの……神父……」
 そして彼の通り名を口から漏らした。

 街の裏で密やかに噂は囁かれていた。
 出会った鬼を確実に狩る、凄腕の神父がいるという噂が。生還した者がいないために、その『鬼狩り』の実際の力と素顔は誰も知らない。
 それがこの男だというのか。
 地下水路に自ら足を踏み入れた彼が、口を血に染める明らかに人ではない鬼の姿を見ながら微動だにしない彼が、『鬼狩り』であることは確かだ。しかしその容貌からはにわかに信じ難かった。
 問い掛けに答えず、神父は唇を開いて物静かに語り出した。
「人の心を忘れ、生き血を啜るためだけに存在し続けることは辛い」
 鬼もかつては人だった。
 生に執着するあまり、その魂がふたたび肉体に宿って鬼になる。
「人は死に、魂は父なる神の元へと還る。君もそうあるべきだよ。己の罪を認め、神の赦しを請うなら、君は救われる」  鬼は不老不死を手に入れ、その肉体は強靱、腕力は人をはるかに上回る。それでも心臓を貫けば、彼等は朽ちる。  狩りをすぐには行おうとせず、『鬼狩り』は彼女に懺悔を勧めた。
「死の前に、罪の告白を聞こう」
 彼の漆黒の瞳が鬼を見据えている。
 穏やかで、それでいて芯のある語り口はまさに聖職者のそれだった。
 しかし彼の手には鬼を殺せる武器もない。隠し持っているにしても鬼を目の前にしてあまりに無防備なその姿は、噂通りの百戦錬磨が成せる余裕なのか。それともただの盆暗なのか。
 細く長い彼の指はナイフや銃よりも、ペンや書物を持つ方がよく似合う。
「『鬼狩りの神父』がこんな色男だったとは。しょせん噂は、噂でしかないのかしら?」
 鬼は挑発するかのように唇に舌を這わせ、彼に問う。武器さえ抜けば、彼が本物であるかどうかがすぐに解ると考えた。
「主、我を愛す。主が強ければ我弱くとも、恐れはあらじ」
 鬼の意図を知ってか知らずか。誘いには乗らず、神父は声色を変えずに言葉を続けた。
「賛美歌の一節だよ」
 彼が言い終える前に、地を蹴り、長く伸びた凶器のような爪を振り上げながら鬼が跳ぶ。

 その刹那、容貌からはおよそ信じられない脚力で、神父は近寄る鬼をなぎ倒し、外套の裏から素早く抜いた短銃で彼女の腹部に鉛玉を撃ち込んだ。
 銃声が轟く。
 鮮血が舞い散り、辺りを汚す。
 悲鳴を上げる暇もなく、鬼の体は地面に叩きつけられた。
 瞬時の出来事だった。
 神父は鬼の側で膝をつき、短銃の銀色に光る先端を彼女の左胸に押し当てる。そして伏せ目がちに彼女を見た。
 彼女の体は痙攣し、腹の傷からは止めどなく血が溢れて流れていく。むせ返るほどの血の臭いが周囲を包む。鬼と言えどもその姿は痛々しく、神父は眉をひそめた。
 あまりの速攻に鬼自身、何が起こったのか解らなかった。
 しかし腹の痛みは、彼が確かに『鬼狩りの神父』である事を知らしめている。
「手荒なことをしてしまったね。だけど、急がなくてはその子の命が危ないんだ」
 神父はすまなそうに言いながら、目の端で鬼の犠牲になって横たわる少女を見た。あれほど荒々しかった呼吸音は消え、今はもう虫の息。一刻の猶予も許されない状態だ。
 鬼が咳き込み、吐血した。
 人は自分の死期を悟ると、襲いくる恐怖から逃れようと救いを求める。それはこの鬼も同様だった。
 張り詰めていた糸が切れたかのように、鬼は悲痛な声で叫んだ。
「死にたくっ……ない……!」
 赤い眼には涙が滲み、頬を伝って落ちていく。
「恐れないで。光の中で神が待っておられるよ」
 あやすように神父は言うと、手の平で彼女の視界を覆う。
 涙を拭うように、かすかに指先を動かす彼の慈悲の温かさ。鬼は自分にはない生者の体温を感じながら、静かにその目を閉じた。
  「鬼の魂も……私でも、天に昇れるの?」
 血の溢れる唇から、息の切れ間につぶやきを漏らす。
「己の罪を認め、神の赦しを請うならば。誰でも皆、平等に」
 引き金に指をかけたまま、神父は一度深々と息をつく。
「懺悔を」
 しばらくして、街の地下にふたたび銃声がこだまする。
 

 

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