そろり…と頬を撫でられる感触に…はっ…と我に還る。寄せられた眉が幾分深い皺を刻み、組み敷いた体が小刻みに震えていることに気付いた。ぎしり、と固まる体と思考に、閉ざされていた瞳がゆるりと開く。
「…〜っ!」
潤んだ金色の瞳がぞくり、とするほどに美しく、両頬が包まれてびくりと肩を揺らしてしまった。それに気を止めることなく差し入れたままの舌を吸い上げた神虎は名残惜しげに唇を解いていく。
「…っ…はぁ…」
「は…っふ…」
互いの乱れた呼気を唇に受け止め、瞳しか見えなかった顔が徐々に写り込んでくる。
「…押し倒されちゃった」
「ッ!!!」
くすり…と笑う神虎にイワンはこれ以上はないほどに顔を真っ赤に染め上げる。ついでにいうとぐるぐると目を回しそうなほど混乱をきたしていた。固まったまま微動だに出来ずにいるイワンの頭をくしゃくしゃと掻き回してくる。
「気分はど?」
「…え…えと…気持ちいいです…」
正直に答えるときょとん、と驚いたような表情をされてしまった。その反応にあれ?と首を傾げると、神虎は盛大に噴き出して笑い転げる。
「え?…あの…?」
「あぁ、いやいや…急に解き始めると体調に悪影響が出るもんだからさ」
「…体調…」
「ま、気持ち良かったってんなら上々ってことだろ」
「す…すいません…」
答えが少々ずれていたことに気付いたイワンは涙が出そうなほどに恥ずかしくなった。くすくすと未だ笑い続ける神虎の上からおずおずと下りて正座をしてしまう。けれど一向に起き上がる様子のない神虎にイワンは首を傾げた。
「…神様?」
「うんー?」
「…こんな場所で寝る…なんて言いませんよね?」
「あぁ、うん…移動したいのはやまやまなんだが…解くのを張り切ったせいか体がだるくて起き上がれないんだよねー」
…お恥ずかしい…と軽い調子で答える彼は苦笑を浮かべている。冗談…ではなく、本当に動くのが億劫なようだ。ひらひらと動かす手もなんだか力がない。理由を聞く限りにも、原因は自分にあるのだ、と気付いたイワンは慌て始める。
「す、すいません!僕のせいで!」
「いんや?俺が加減を誤っただけだし…」
「中まで運びますっ!」
「いや、大丈夫…俺、結構重いし…」
寝ころんだままの神虎の首の下へ腕を通すと上体を抱え起こした。先ほどよりも更に軽く感じる重みに少し首を傾げるも、とにかく運ばなくては、と膝の裏にも腕を通すと持ち上げるように体を起こす。するとふわりと浮かんだ。
「…大丈夫か?」
「はい。走れないですが、歩けます」
「マジでか…」
「重いっておっしゃいましたけど…とても軽いですよ」
「えぇ〜?」
不思議そうな顔をされるが、両腕にかかる重みは言うほどもない。歩きながらでも会話が出来るほどだ。
「…呪いのせいかな?」
「え?」
「成長の妨げだけじゃなく、お前自身の力も封じられてるのかもしれないな」
腕の中からじっと見上げる金色の瞳は好奇心に満ちた子供のようにキラキラと輝いて見える。あまりに見つめられるものだから恥ずかしくて少し居た堪れなかった。
「あ…あの…お部屋は…」
「ん、二階の奥。」
指示された場所へと向かうべく階段を探してきょろり…と見渡すと、奥の廊下を指さされる。その方向へと足を向ければ、彫刻を施された手摺が付いた階段を見出した。腕に収まったままの神虎の体温に騒ぐ胸を抱えながら一番奥に見える紗が掛かった部屋へと向かう。
「そこまでよろしく。」
「はい」
ふわりと揺れ動く布を掻き分けて入ればあまり物が置かれていない広い部屋。けれど、寛ぐ事を最優先しているのだろう、ゆったりとした寝椅子に布がかけられ、クッションがいくつか乗せられていた。そっと神虎が指さしたのは幾重にも紗が重ねられた天蓋を備えたベッドだ。
「ん、さんきゅ。」
「いえ、当然の事だと…」
白いシーツに顔を埋めながらうつ伏せになった神虎はうっとりと瞳を細めて微笑んでくれる。
「案内してやれないけど…すぐ隣の部屋、好きに使ったらいいから」
「隣の部屋…ですか?」
「今日のところは一先ず…な?」
「…はい、ありがとうございます」
「ん。おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
本当は額に口づけしたいのだが、手を動かすだけで精一杯な神虎は少し赤いままの頬を一撫でして見送った。薄い布に遮られる部屋から律儀にお辞儀をして出て行ってしまったイワンにそっと熱い息を吐き出す。
「……すげぇな…これ…」
そっと呟いた言葉すらくらくらと眩暈がするほどの熱さを感じ取る。うつ伏せた体を仰向けに直して、肌蹴た前合わせの隙間から手を潜り込ませると肌を滑る指先の感触に小さく啼いた。更に撫で下ろして体の中心へと手を這わせれば形を変えた象徴をゆるりと握り込む。ぞくっと震えるままに喉を反らせて熱い呼気を吐き出した。
「…呪い…だけじゃない…な…」
ぽつりと呟いて躯の疼くままに手を動かすと…くちゅくちゅ…と濡れた音がたつ。びくびくと震える内腿を、膝を立てて手を挟んだまま擦り合わせた。僅かに流れる空気の流れにすら敏感に跳ねる躯を反らせてすぐそこまで迫った絶頂に手を伸ばす。
「ッーーー!」
声を立てない様にシーツに噛みついた。間一髪に弾けた白濁を腹に撒き散らしてびくびくと痙攣を起こす躯を持て余す。シーツを噛み締めたまま…ふーっ…ふーっ…と乱れた呼吸を繰り返して治まるのを待ち続けた。ぼんやりと天井を見上げて、ちらりと隣の部屋とを隔てる壁を見つめる。
「………」
神域に入った途端に崩れたイワンへ擦り寄った時、毛が逆立つ感覚で呪いの存在に気付く。応急手当として体液の交換を行ってみれば意図した通りに呪いの効果が薄める事が出来た。
一度目は軽く済ませた為に変化はさほど現れなかった。けれど、イワンの様子からもう少し流し込んでおかないと…立った途端、眩暈を起こすだろうと二度目を仕掛けたのだ。
…そこまでは想定の範囲だった…
しかし、深く呑み込んだイワンの体液が四肢へ熱く甘い痺れを広げていく。じん、と痺れる脳髄に…まずい…と思った時には遅かった。
体内に蓄積される熱がざわざわと肌を逆撫でる。腕から力が抜け落ち、崩れそうになるのを抱きかかえられる…冷たい下草が火照った肌に心地よく…抗いがたい蜜の味に酔い痴れる…口内を弄る舌に上顎を舐められて躯が跳ねた。そこでようやくぐずぐずに溶かされた理性を奮い立たせる。
重たい腕を持ち上げて頬を撫でれば夢中だった口淫がぴたりと止まった。そろりと瞳を開けば間近に見える紫の瞳がゆらりゆらりと光を宿す。
これは…何の光なのか…
深く考えようにも注ぎ込まれる甘い蜜に痺れた躯が言うことを聞かない。ひとまず開放してもらわねば…と離しがたい舌を一度吸い上げて名残惜しく思いながらも離れていった。
「(…えらいもんを召し上げちったかな?)」
壁の向こうにいるであろう、少年を頭に思い浮かべながら、神虎は襲い来る眠気に意識を手放した。
* * * * *
ふわりふわり…と揺らぐような心地よさに眠りは一層深くなる…はずだった。
「ッ!?」
ゆったりと漂っていたはずの体が一瞬にして駆け巡った痺れで大きく飛び跳ねた。両の眼を痛みが生じるほどばっちりと見開くとすぐ目の前に誰かの腕が見える。軽いパニックに陥ると先ほど味わった痺れに再び襲われて声を上げた。
「ぅひゃあ!?」
「お、やっと起きたかー?」
耳にかかる熱い吐息とともに聞こえた声はどこか悪戯に成功した子供のように楽しげで…思わず両耳を自分の手で伏せてそろりと視線を上げる。すると逆光の中に淡く微笑む男の顔が見えた。
「…あ…あの…」
「呼びかけても起きないからさぁ…ちょっと悪戯しちゃった☆」
ぺろっと舌を出しておどけてみせるのは昨晩出会った神虎だ。人の形になっているが、昨夜のように一糸纏わぬ姿ではなく流水模様の狩衣を纏っている。ただ、袖括りを引き締めてある為に腕が晒されていた。
「お…おはようございます…」
「ん、おはよう。飯出来てっから起きてこい」
そういってぽふぽふと頭を叩かれると、彼は寝台の上から降りていってしまった。いまだぼんやりとする頭を持ち上げながら座り込むと、部屋の中がよく見える。淡い若草色をアクセントにした貴重品の数々…とても高級そうなものばかりで目がくらみそうだった。それでも、ローテーブルと、座椅子、チェスト、ベッド…と最低限の物しか置かれていない部屋は、神虎の部屋よりは幾分狭く、不思議と心が落ち着き、ベッドへと体を投げ出すと沈み込むように眠りについた。
未だはっきりとしない頭でぼんやり座り込んでいると、部屋の入り口から神虎が顔を覗かせる。
「イワンー?」
「あ、はい!すぐに!」
二度も足を運ばせてしまった…と慌てて駆け寄れば、じっと見つめてくる金色の瞳。怒らせたかな…と思っていると小さく笑い声が零れ落ちる。
「ぼっさぼさだな?」
「え?…あ…」
くっくっ…と笑いながら撫でたのはイワンの頭。もともと猫っ毛でふわふわと飛び跳ねているイワンの髪だが、寝起きは一段と跳ね上がっているのが常だ。自分でも歩いていれば風に揺れる髪に、いかに飛び跳ねているかわかってしまう。
「先に顔洗って梳かそうかね」
「は…はい…」
屋内の案内を兼ねて連れて行かれたのは風呂場と続きになっている洗面台。壁掛け鏡の前に立たされると部屋がどの位置にある、とか、道具入れの場所などを聞きせてくれながら鳥の巣のような髪に櫛を通してくれた。冷たい水で顔を洗えば僅かに残っていた眠気も綺麗に吹き飛ばされ、太陽の匂いがする布で水を拭き取ればリビングへと案内される。
「…ふわぁ…」
机に並べられた湯気を上らせる食事に思わず感嘆を上げてしまう。漆塗りの器に白い豆腐とネギが浮いた味噌汁が注がれ、蓮の葉模様の小鉢には胡麻を振りかけられた瑞々しいほうれん草のお浸しが盛りつけられている。質素ではあるが、決して貧しさを感じさせない食事に刺激された腹が…きゅるるるるる…を切ない音を奏でた。
「ッ!」
「正直な腹だなぁ…ほら、座んなさい」
「…はい…」
顔を真っ赤にしつつ、示された座布団の上に正座をする。すると、向かい側に座った神虎は横に置いた櫃からご飯をよそい始めた。差し出される椀を受け取ってちらりと見上げると、向かいにも同じように盛られた椀が置かれている。同じように受け取った椀を机に置くと、再び何かを差し出された。
「?」
「どっちがいい?」
目の前に差し出されたのは二膳の箸。青藍に緑の蔓が描かれたものと…茄子紺に同じような緑の蔓が描かれたものの2つ。それを見比べてきょとりと瞬きつつ神虎を見上げると、少し首を傾げる。
「え…っと?」
「生きる糧を口に運ぶ物は自分で選ぶもんだ。で、押入れを探してたらイワンに合いそうな2つを見つけたんでどうかと思って」
「…そうだったんですか…」
押入れを探して…という言葉に思わずその光景を思い浮かべてしまった。
「(神様が押入れを探し回るとか…)」
とんでもない事だな…とも思うが…どこか可笑しい気がして思わず笑みを浮かべてしまう。そして、目の前に差し出された二つから茄子紺の方を受け取った。
「こちらがいいです」
ほわりと微笑む顔に満足したのか、神虎も笑みを浮かべた。
「では、合掌。」
「はい。」
「いた〜だきぃますっ!」
「いただきまーす!」
ともに合掌してぺこりと一礼。元気よく挨拶も済ませてさっそく箸を持ち上げた。ほこほこと湯気をくゆらせる玄米の混ざった白米を恐る恐る口の中へと運ぶと、頬が落ちそうな美味しさにきゅうっと瞳を細めてしまう。あまりの美味しさに黙々と箸を進めていたのだが、ふと瞳を上げた。
「……うん?」
「あ、いや…あの…」
「おかわりはまだあるから遠慮せずに食えよ?」
「は、はい…」
あまりにじっと見つめすぎたらしい。首を傾げつつ違う解釈をされて慌てて頷いた。けれど湧き上がってしまった小さな疑問は燻ったままで…ついつい箸を止めたままにしてしまう。
「…あぁ、びっくりした?」
「へ?」
「神様もご飯食べるんだなぁ…ってとこじゃね?」
「…あ…あ、はい…」
不思議に感じていた事をずばり当てられてしまって俯いてしまう。少し偏見のある見方をしてしまっていただけに態度が悪かったかもしれない。そんな心配を余所に神虎は椀の中のご飯を掻きよせながら普通に会話を続けた。
「まぁ、食べても食べなくていいんだけどな?退治の仕事とか、大掛かりな術を使ったりしたら自然回復じゃおっつかないから飯を食ったりとかして回復を図るんだ」
「…そうなんですか」
「そ。んだから毎年もらってる供え物が結構溜まってるんだ。先何百年は食い扶持に困らないだろう」
「な…何百年…って…僕、生きてないんじゃ…」
「んー?そんなこたないだろ。使いになるんだからお前も寿命が果てしなく延びるんだぞ?」
「…えぇ!?」
「なぁんだ、気づいてなかったのか。まぁまだ契約の儀はしてないからな。今は普通の人間だよ」
「ほ…本当に…すごいことになったんですね…僕…」
「他人行儀な言い方だなぁ…」
「だ…だって…実感がわかなくて…」
とんでもない事実を聞いてしまった…とイワンは思わず頭を抱えた。さっきまではいい匂いが立ち込めていた食卓も、あまりの混乱に嗅覚が利かなくなっている。さらに目の前が回っているかのようだ。
そんなイワンをちらりと見て神虎は味噌汁の椀に口をつけた。本当ならば今朝も特に食事を取る必要はないのだが…呪いを早めに薄めて本来の力に目覚めさせたいと思っている。その為には少々急ピッチで呪いを解かなくてはならず、力をつけて挑まなくてはこちらが呑まれてしまいかねない。契約の儀を行うにしてもかなりの力が要する。
しばらくは食事が不可欠になるな…と少し面倒に思うが…誰かと供に食事をする事は嫌いではない…むしろ好きな方だ。だから何一つ苦にはならない…と小さく笑いを零すと、傾けていた椀を戻した。
「………」
「…っ…っ…」
向かいでは未だショックから抜けきれずにいるイワンが相変わらず頭を抱えていた。その様子にまた一つ笑みを浮かべながら囁きを零す…
「…どちみち呪いを解いたら長寿になるだろうけどな…」
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