プロの手によるメイクは本当にあっと言う間だった。アイマスクを付けたまま…というのもあるが…シャドウの色やリップの色を始め、あらかじめ使うものを決められていたのだろう…動く手は一瞬の淀みもなく次々に必要な物を掴み、顔へ着色を施こしていく。
鏡に写る自分の顔がどんどんと華やかになっていく様をタイガーはぼんやりと見ていた。この前のパーティーの時は半ばやけくそだった気もする。何せ、あんなに楽しそうなファイヤーエンブレムから逃れられそうにない…というのを本能的に察していた、というのもあった。
そして今回…マンスリーヒーローの緊急企画。テレビに大々的に出た事もあって、本当にタイガーなのか?という問合せが殺到していた事…加えて新聞の一面でバーナビーにお姫様抱っこされていた姿でより決定打となった『女になったワイルドタイガー』。当人としては、薬の効果が切れるまで今まで通りに…そっと…平和に時が過ぎて欲しかったのだが…上層部はそうもいかなかったようだ。
アニエスが言っていた通り、今回の企画はワイルドタイガー個人の撮影とあって自身に大きなビジネスを生み出している。賠償金を払い終わる事も夢ではないだろう。
けれど…ワイルドタイガー…こと虎徹は複雑な気分だった。
確かに…よく相棒の足を引っ張っていた…ドジを踏む事もしばしばあった。うっかり器物破損もしてしまっていた。
…それでも…
『元の自分』が全くの用無しに感じてならない。
存在の否定。
直接言われたわけではないのだが…感じてしまう心を否定出来なかった。
「お待たせ。」
突然響いたアニエスの声で我に返った。用意されていた女性用のパンツスーツを身に纏い、スタジオの隅に設けられた休憩スペースにぼんやりと座っていたらしい。自分にこんな器用な事が出来るとは…と思わず苦笑を浮かべてしまう。
「(お仕事、お仕事。)」
軽く息を吐き出して椅子から立ち上がるとようやく顔を上げた。………そして固まってしまう。
「…あれ?折紙??」
アニエスの後ろに見覚えのある男が立っている。…というか…久しぶりに見た…『男の自分』だ。どうして?と思う前に自分が浮かべそうにない表情から『それ』が折紙サイクロンだとすぐに分かったのだが…何故彼がここにいるのだろう?
「彼も何枚か写ってもらうのよ」
「…へ???」
「以前の貴方と今の貴女を並べて撮った方が読者は分かりやすいでしょう?もちろん紙面にはこっちの『タイガー』は折紙サイクロンだって書くわ」
「…ビフォーアフターってやつですか?」
「そういう事。さ、セットに入ってちょうだい」
あっさりとした分かりやすい説明に…あぁ、ね?…と納得する。必要な説明が終わったアニエスはというとさっさとカメラマンの所へ移動してしまい、何やら確認をとっていた。なにはともあれ…撮影の仕事は仕事…早速セットへと向かおうとする。けれど、タイガーが踏み出してももう一人の『タイガー』に動く気配はなかった。
「…?…おい?立ったまま寝るとか器用な事してねぇで。動けって。」
「はい。だから…」
「ん?」
「言ってください。」
「…へ??」
至極真面目な顔の『ワイルドタイガー』にタイガーは首を傾げた。
「これはタイガー殿の体です。だから言ってくれないと動けません。」
「…言って…って…」
「拙者はタイガー殿の体を預かっている状態でござる。
でも体だけしか預かっていないのでタイガー殿がどう動くか…
どんな表情をするのか…分からない。だから御指導願いたい。」
「指導っつったってお前…日頃から観察して…」
普段から擬態するべく人の観察を良くしている折紙サイクロンが言うような言葉ではない。きょとりと瞬いて見つめていると…ふと思い当たった。
「……あの独り言…聞いてたのか?」
「何の事でござろう?」
「……………参ったな…」
こんな慰められ方をされるとは…思わず苦笑が滲み出てくる。
−「俺は…男…なんだよ」
その言葉はほとんど無意識だった。体が変化してから…悉く『女扱い』をされ、『女らしさ』を押し付けられる。そんな毎日が繰り返される内に…自分は本当に『おじさん』ではなく『おばさん』だったんじゃないかと錯覚してしまいそうになっていた。『おばさん』と呼ばれる事にも違和感を感じなくなってきて…
正直に言うと…絶望を感じ始めていた。
まるで…『虎徹』という『男』の存在がなかったんだと思ってしまいそうで。
けれど今…『虎徹という名の男の体』を持った折紙サイクロンは言う。
『この体は虎徹のものだ』と。
それは…『男の虎徹』は…手に触れられるほど近くに存在しているのだ…と…虎徹が動かす事の出来る『体』があるのだ…と…そう伝えているのだ。
分かってはいる…それは単なる気休めだ…いくら折紙サイクロンが自分そっくりに化けても『ソレ』は『自分の体』ではないことは重々承知している。
けれど…それでも…心が救われた。
しかも…薄れてしまいそうになる『男の自分』を…折紙サイクロンが擬態できることで『虎徹という名を持つ男』が幻ではなかったと認識できる。
深く長く呼気を吐き出す。胸の奥につっかえていたものが溶けて吐き出されたような気分だ。
閉じた瞳を…ゆるり…と開く。
目の前でじっと立っている『自分の人形』を見上げた。
「…しっかり動いてくれよ?お人形さん?」
「合点承知。」
その折紙らしい承諾の返事にタイガーは思い切り噴き出した。真剣な面持ちの自分の口から『合点承知』…可笑しいッたらない。あまりにもツボを刺激してしまった為に腹を抱えて蹲ってしまった。ついでに言うなら、涙まで出てきている。
頬の筋肉すら攣りそうなほどに笑い続けたタイガーは、こんなに笑ったのは久しぶりだ、と気が付いた。人前で『振舞う笑顔』は得意だ。それこそ…この体になってからは『取り繕った笑み』ばかり浮かべていたように思う。
けれど久しぶりに『笑った』。腹の底から笑い転げた。『笑わされる』のではなく『笑った』。
ようやく治まった笑いの衝動に一つ深呼吸をして呼気を整えると間近で棒立ちになってしまった『自分』を見上げた。わずかに首を傾げているところからきっと驚いたことだろう。
「っおっし!」
「?」
ひとつ掛け声を上げて勢い良く立ち上がる。そうして『折紙』を見つめてにっと笑いかけた。
「お仕事と参りますか、折紙君」
「え、あ…はぃ…」
「あれ?承知とは言わないの?」
「あ、えと…承知した!」
「オッケーオッケー。」
満足気に微笑を浮かべるタイガーに…吹っ切れたんだな…と小さく笑みを浮かべる。それとともに恩返しが出来た、と嬉しくなった。
キャンペーンの時、彼は自分を励ましてくれた。おかげで今もこうしてヒーローを続けられている。自信を持てるようになってきている。前向きに…考えられるようになってきている。それは全て今、擬態している『男』のおかげだ。
だから…今、『彼』を支えることが出来て多大な歓喜に包まれていた。
備え付けられたセットに立つタイガーの横へと並ぶとこちらを見つめられる。
「さて、折紙?」
「はい?」
「俺はお前に体を預けたんだよな?」
「はい、しかとお預かり申した」
「ということは…俺はお前がちゃんと仕事をまっとう出来ると信じて預けたって事だ。」
「………えと?」
「擬態のプロだろ?さっき聞いた『分からない』って言葉は返してやる」
「………」
「…とはいえ、こういった仕事での俺は見てないもんな?」
「え…あ…はい」
「ん。オッケー。じゃあ俺が違和感を感じたところだけ直していってやるよ。しっかり励みな?」
「…!…はい!」
にっと不敵な笑みを浮かべるタイガーに折紙は脱帽した…年齢の差…人生経験の差…どちらかは分からないけれど…『完全に吹っ切れた』ようだ。今の体をちゃんと受け入れつつも、元の自分を決して手放さないと決めたらしい。しかもその上で折紙の擬態技術の向上を手伝ってくれるという。
どこまでも人の為に何かをしようとする…憧れる…格好いい…ヒーロー…
彼を支える事はまだまだ無理らしい…けれど…今の自分でも、少しだけ…ほんの少しでいい…力になれたら……それでいい。
湧き上がる高揚感の中、折紙サイクロンは憧れのヒーローの横へと並び立った。
* * * * *
「おっはよ〜ぉさぁん!」
「あら。元気じゃない。昨日の仕事で落ち込んでるのかと思ったのに…」
「ん〜…まぁね」
紙袋を小脇に抱えにっと笑う虎徹がトレーニングジムに来たのは昼前だ。なにやら上機嫌な様子にネイサンは首を傾げるが、きょろきょろと周りを見渡して目標を見つけた彼女はすぐさま離れて行ってしまう。
「イ・ワ・ン〜!」
「あ、タイガーさん。おはようございまぶふっ!?」
「おっはぁ〜!」
「くっ…くるしいですっ…タイガーさんっ」
「ちょおっと来てくれるかなぁ?」
タックル付の挨拶を交わした後、虎徹はイワンを小脇に抱えるように腕を回したままフロアの隅に置いてあるベンチまで引き摺っていった。
「…何してるの?あれ」
「ん〜…分からないのよぉ…タイガーちゃんたらやけに上機嫌でねぇ?」
「…上機嫌?昨日の仕事がグラビア撮影だったのに?」
首を傾げる面々を尻目にベンチでは虎徹がイワンに何やら押し付けていた。
焦るイワン…ほくほくとした笑みの虎徹…
イワンが何か言い繕っているようにも…一方的に虎徹が畳みかけているようにも見えるが…
しばらく話合った後に、イワンは何度もお辞儀をし始めた。それに対して頭をくしゃくしゃと掻き回して笑顔になった2人は揃って移動していってしまう。
「…話がまとまった感じ?」
「ん〜…気になるわねぇ…」
その2人の後ろ姿をじっと凝視したまま動けなかった。雰囲気からしていつもの和やかなムード…と言っても可笑しくなかったからだ。これで下手に探ろうとしてへまをやらかす方があとあと面倒だ。
…けれど…
ちらり…と視線を下げるネイサン…
ちらり…と視線を上げるカリーナ…
考える事は同じのようだ。無言で頷きあった2人はこそこそと後をつけて行った。
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