―幸―
「つまらないですよ……美堂くん」
遠くでそんな声を聞いた気がした。
視界にはぼんやりと誰かの足が映ってる。これは誰だろう?
背中には温かくなったコンクリートの壁。足の下には軋む木の床。少し雑草の匂いがする。
……ここは……草むらか……
昨日は四方コンクリート固めだった。
先週は絨毯の床で天井はなかった。
先月は一定時間経てば電車の音が響いた。
その間には必ず誰かの腕に抱えて揺らされている感覚があった。
……それは決して俺の愛した腕ではない。
俺はその腕から逃げてきたのだから……
ぱたん……と扉が閉まる音がした。
途端に部屋を……俺を支配する漆黒の闇。
……窓からは月も見えない。
俺を飲み込む闇。アスクレピオスが与える闇。
ふと瞳を閉じかければ、鮮明に垣間見える闇は俺の心を抉り抜け殻にする。過去に二度、同じ事があった。同じ事があって、その時は気にかけなかった。でも、闇が確実に捕らえて……俺を突き落とす。だから俺は……夢を見た日に、マリーアの元へ逃げた。
紅い夢。紅くて、黒い夢から逃げたくて………
その夢は……俺に闇が来ることを教えてくれる。
……その闇から逃れられないことも教えてくれる。
紅くて黒い夢に出てくる人は全てその夢の中に消えていってしまう。俺に光の心地よさを教えていなくなる。
呪い……
邪眼を持つ者への呪い。
俺が幸せになる事を拒む運命の呪い。
何度でも廻ってくる。廻ってきて、逃げられなくて、心を砕いて……通り過ぎていく。
もう……いらない。
なにも……いらない。
……誰も……いらない……
―……ん……
「……ちゃん」
「蛮ちゃんってば!」
「……あ、れ?」
「もう!こんなとこでうたた寝してたら風引いちゃうよ!」
「銀次?」
「蛮ちゃん?まだ寝ぼけてる?」
「……あ……いや」
「……キスしたら起きる?」
「ばっ!」
―がつんッ
「いったー……」
「当ったり前だ!このバカ!」
「もう……すぐ殴る」
「お前が変な事言うからだ」
「えへへ」
「なんだよ?」
「ばーんちゃん♥」
「乗るな……重い」
「蛮ちゃん大好き♥」
「はいはい」
「大好き♥だーい好き♥」
「連呼すんな」
「大……好き……」
「分かったっての」
「……ばん……ちゃん……」
「?銀次?」
「……すき……だ……よ……」
「銀……」
様子がおかしくて銀次の背に手を回す
目に映ったのは銀次を支える俺の手
……紅い……紅い手……真っ赤な右手……
正面から抱きついていた体が重くなる
いきなり重くなったことで支えきれずにその場に座り込む
紅い手の下……俺の腕……でも……腕は見えない
そこには…………
「っ!!!」
びくんっと、体が跳ねた。目が痛いくらいに見開いている。その目で右手に視線を落とせばがくがくと震えてる腕が見えた。そこには腕以外に何もない。吐く息も震えている。……いや……全身が震えている……
冷や汗が噴出してきて、体をぎゅうっと縮めて丸くなった。
もう……何日目だ?
こうして何もせずに抜け殻になったのは……
こうして……目覚めるのは……
―蛮ちゃん
―……蛮ちゃんどこ?
―……応えて?蛮ちゃん
相変わらず耳に届く声は、いつも聞いていた声で……前にも増してその声を聞くだけで幸せを感じられた。ついこの間まで聞こえては来なかった声は優しく俺を戒める。その優しさに縋ってしまいたくなる。呼びかけに応えたくなる。
あいつを……求めたくなる……俺を迎えに来てと……叫びたくなる……
願ってはいけない
求めてはいけない
今その優しさに……呼びかけに応えてしまえば
取り返しのつかない事になる
そうなれば確実に発狂してしまうから……
この世に存在してる意味を失ってしまうから……
痛みが伝わる。呼びかける声から痛みが滲み出て心に刺さる。
お前の元へ、すぐにでも行きたい。その腕に縋ってしまいたい。この瞳さえ、この腕さえなければ……すぐに行けるのに……これからもずっと側にいられるだろうに……
その両方を抉り取る勇気は俺にはなかった。
抉り取ったら、切り捨てたら、悲しまれると思うから。『大好きだ』と言ってくれた物を潰してしまえるほど、お前の事を中途半端に想ってるわけじゃないから……
応えたい……応えたくない……すぐにでも行きたい……行けない……その暖かい腕に縋りたい……縋れたら!
縋れたら……どんなに幸せなんだろうな?
どんなに暖かいんだろうな?
呼びかけと共に与えられる、包まれるような暖かさとは比べ物にならないんだろうな?
冷たく冷え切った心と体をきっと、包んで癒してくれるんだろう。邪馬人にも似た……いや、それ以上の温もり。惜しげなく注がれる情。体の外側から、最奥まで注ぎ込まれ、刻まれた情。これらを掻き消すことが出来たなら……
どれほど身軽になるのだろう?
どれほどの空間が体の中に生まれるのだろう?
今すぐにでも命を絶つことは出来る。でも、呼びかけをずっと……いつか消えてしまうまで聞いていたいと願ってしまう自分がいて……
……滑稽だな……
くるくる回る時の中で ずっと『ずっと』を夢見てた
―いつまでも続かないと分かっていた
永遠に『永遠』の夢を見て 二人はいつまでも側にいる
―ずっと側にいられる事はないと分かっていた
いつもいつも側にいる
―すぐにでも切れてしまうとも分かっていたはずなのに…
いつもいつも側にいた
―それでも……願ってしまったから……
あの腕の中で眠った最後の夜に聞いた歌。新曲だと司会者が紹介をしていたのを覚えてる。ラジオから聞こえるその歌はどこか自分と重なっていたような気がして、途中まで聞いてラジオのスイッチを切った。それ以上聞くのが辛い気がしたから。これから俺がすることを見透かされてる気がして、怖くなったから……
……そうして俺は今どこかにいる。
きっと……誰も気付くことのないような場所。
ここで……ひっそり……『俺の最後』がくる日を待っている。
風が扉を叩く……
俺に外へ出て来い、と命令しているかのように……
―キィ……
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