「刹那?!顔を上げろ!刹那!!」
「那由多!刹那は!?」
「頑なに瞳を閉じて全てを拒絶したままだ…」
「…そんなッ…」
「刹那?!聞こえる?刹那!?!」
壁に背を強く押し当て全てから身を守るようにぎゅっと丸くなる刹那は瞳を閉じ、己の手で耳を塞いでしまっている。かたかたと震える体が痛々しい。マリナはこうなってしまった時は辛抱強く、無理に肩を揺すったりしないで呼びかけるようにといっていた。力尽くでこじ開けようとすれば脆くなっている心が更に悲鳴を上げて傷ついてしまうかもしれないからだ。
那由多の声にも反応しない刹那を心配してフェルトとクリスが必死に呼びかける。その様子を黙って見ているしかない周囲の中でニールが動いた。
「ライル、俺のカバンからトワレ持ってきてくれ。」
「え?」
「それからヨハン。刹那を包めるくらい大きい布を。」
「何をするんですか?」
「いいから、早く。」
「あ…あぁ…」
「分かり…ました…」
不思議そうな顔をするライルとヨハンに重ねて指示を出すとニールは刹那を囲む三人の下へ足を向ける。必死に刹那を呼び続けている那由多の肩へそっと手を置いた。びくりと驚いて振り返る那由多の瞳には僅かに涙が滲み出している。
「ロックオン?」
「少し代わってくれ。」
「…あぁ…」
真剣な表情のニールに那由多は刹那の正面からどいて場所を空ける。他の2人も倣って少し離れた。
かたかたと震える体と小さいが微かに聞こえる拒絶の声にニールの表情が歪む。ふつふつと腹の底から燃え上がる熱は、気付けなかった己の愚かさに行き場のない思いと、こんな少女に卑劣な手を講じた人間に対する怒りで埋め尽くされていた。しかし、それを表に出さないように一つ深呼吸をすると、刺激を与えないように、けれどちゃんと近くに感じるように距離を測りながら刹那の後ろの壁に両手を付く。小さく丸まった体を包むように体を沿わせるとそっと顔を近づけた。
「…せつな…」
ゆっくりと、はっきりとした声で呼びかけた。しかしまだ刹那は過去に囚われたまま戻ってきていない。もう一度深呼吸をして今度は少し強めに呼びかける。
「せつな。」
「ッ!」
すると期待した通り、びくりと肩が跳ねて体の震えが小さくなった。焦らないように…と心の中で唱えながら顔をもう少しだけ近づける。
「刹那。」
「ぁ…」
ようやく刹那が声に反応を返した。その様子を近くで見ていたフェルトに歓喜の色が浮かび上がる。クリスからもほっと小さく息が吐き出されたようだが、那由多は今だ険しい表情をしたままだ。そしてそれはニールも同じで…
「刹那?聞こえるか?」
ニールのその言葉にフェルトとクリスは顔を見合わせそっと邪魔にならないように刹那の顔を窺うと未だ瞳は固く閉ざされ耳にも手が宛がわれた状態だった。けれど、ニールの呼びかけにゆるゆると顔が上がってくる。けれどニールは決して手を出す事はなく、声だけで刹那に呼びかけていた。
「刹那?」
「…ろっ…くお…」
「刹那。」
「…ろっくお…ん?」
「うん、いるよ。ここに。」
僅かに隙間が出来た耳から声がちゃんと届くようにはっきりとした大きめの声で応えてやると耳を覆っていた手がゆっくりと伸ばされてきた。震える指先がニールの頬を捉える。そのまま形を確かめるように沿わされるのを好きにさせてやれば、両手が頬を包みそのまま止まってしまった。まだ戦慄いている唇が微かに開きはっきりと言葉が滑り落ちてくる。
「…こわ…い…」
「大丈夫。目を開いてもちゃんといるから。」
「…や…」
「大丈夫だ。ほら、近くにいるだろう?」
ふるふると弱々しく頭を振る刹那を驚かせないように、そっと腕を囲ってやる。ふわりと彼女の周囲をつつんだであろう自らの体温にぴくりと体が反応を示してくれた。頬に触れてた手が外れ、おずおずと背中へと回されて体を寄り添わせて来る。首元へ顔を埋めるようにしてきゅっと抱きついてきた体へ柔らかく包むように腕を回せば強張った肩から僅かに力が抜けていった。その様子にようやくニールの顔も弛む。幼子をあやす様にぽんぽんと背中を叩いてやるとずっと詰めていたのだろう、息がほぉう…と吐き出された。
「刹那?」
ふわりと力が抜けていく体を支えながら顔を窺い見ればぼんやりと瞳が開いていた。
「ろっく…」
「いいよ…そのまま寝ちまえ」
「…ん…」
ふっと気を失うようにかくりと眠りに落ちてしまった刹那に自らのコートを掛けてやり抱え直すとちょうどライルとヨハンが戻ってきた。そちらへ微笑を浮かべた顔で振り返れば周りにいたメンバーもほっと緊張が解かれたようだ。
…ただ一人を除いて…
刹那の服は無残に切り裂かれているのでヨハンが近づくことはなく、持ってきた布をライルに渡して少し下がった。ライルに頼んだトワレを布にふってもらいその中へ刹那を包み込む。そっと表情を窺ったが穏やかな眠りに着いたままらしい。
「後は我々で処理しておきます。ロックオンは刹那を部屋に連れて帰ってやってください。」
「リョーカイ、任せたぜ?」
刹那を抱えて立ち、周りを見渡せばメンバーが力強く頷いてくれた。
* * * * *
上下も…左右もない闇の中にいた。
何もない…ただの暗闇…
何もないはずなのに体を隅々まで余す事無く撫で回す無数の手を感じ取り、あまりの気持ち悪さに振り払おうとするが、四肢を押さえつける力を跳ね返せない。
どんなに振り払っても次々現れる手は消えず、絶えず襲ってくる不快感と嫌悪感…
手の感覚が僅かに離れれば、その後は必ず溺れたかのように苦しくなっていく。
首に手を回されゆっくりゆっくりと水底へ押し沈められるような…ただただ苦しいだけの…
足掻いても足掻いても楽にならず、苦しさは続いていく。
必死に手を伸ばしても誰も掴んでくれる事はない。
むしろ沈められる速度が上がっていくだけ…
瞳から涙が溢れているのか頬を何かが伝う感覚があった。
けれどどれだけ目を凝らしても何も見えない闇に、『自分』という存在があるのかすら分からなくなり…
次第に助けを求めて掲げた手さえも力なくしてだらりとぶら下がる。
『俺』はただ苦しいと感じることしかない人形なのだと思えばいくらかマシだ。
時間が過ぎるのを待っているだけでいい。
どれだけ苦しくても…きっと…
『あの人』が言うように必ず終わりがくる。
何時までも続く苦しみなどないと…そう教えてくれて…
それは…『誰』?
誰だったっけ…
ふと…苦しみがなくなっていることに気付いた。
いつの間にか閉じていた瞼越しに温かな光を感じる。
− せ つ な …
あぁ…そう…こんな感じの声…
− せ つ な
でも…音が違う…
− せつな
呼んでくれる名前も違う…だって…
−刹那
だって…俺の名前は『 』…
「刹那?」
眩しい光…けれどそれはとても小さく、でも複雑な形をしてきらきらと輝いている。
これは…『クラウン』…
ぼんやりと魅入っているとふわりと柔らかな感覚に包まれる。
さっきまでの気持ち悪さはもうどこにもない。
代わりに訪れたのはほわんとした優しい温もり。
ほぅ…と息を吐き出し、寄り添ってくる温かさに身を委ねる。
どのくらいそうしていただろう?
頭の芯までじんっと淡く痺れるほど温かかったのに…
その温もりが離れていってしまう。
いってしまわないで…
そう思って縋ろうと温もりを捜し求めて瞳を開けばまた闇が訪れていた。
あぁ…また闇の底へと沈められるのだろうか…?
襲い来る絶望に瞳を閉じようとすれば鮮やかな色彩が目の前に飛び込んできた。
朝露を含んだ深緑を映し込む春の湖のような…青のような…緑のような…
…綺麗…
不意に近づいてきたその色に魅入っていると離れてしまった温もりが頭を優しく撫でてくれる。あまりの心地よさに瞳を細めると鼓膜を優しく震わせる音を聞こえてくる。
「刹那?」
あぁ…知ってる…この声…
「…ろっく…お…」
「あぁ、俺はここにいる。だから安心して眠りな?」
「…ん…」
上手く動かない唇で名前を呼べばちゃんと応えてくれた。そうして額に口付けを一つ落としてくれるのにくすぐったくて身を捩れば眠りを促すように優しく撫でるから…
俺は思考を手放して白い闇に身を委ねた。
* * * * *
ひとまず落ち着いた刹那を抱えたままニールは自室へと戻ってきた。ベッドにそっと横たえると離れていく体温に気付いたのかもぞりと体を捩りうっすらと瞳が開かれる。ぼんやりとした瞳が宙を彷徨うので視界に入るように覗き込めば明らかにほっとした表情をした。ベッドの淵に腰掛け、上体を覆いかぶさるようにして頭を撫でてやるとうっとりと瞳を細める。
「刹那?」
「…ろっく…お…」
「あぁ、俺はここにいる。だから安心して眠りな?」
「…ん…」
そっと額に唇を落とすと少しくすぐったそうに、けれど嬉しそうな表情を浮かべ眠りへと落ちていってしまった。
後に残されたのは健やかな寝息とその穏やかな表情を見守る一対の瞳。
「…入ってきていいんだぜ?」
頬にかかる黒髪を優しく梳いてやりながら独り言のようにぽつりと囁く。すると少し間をおいて扉がゆっくりと開かれた。廊下の明かりで逆光になっているその空間に佇むのは今隣で眠っている少女と同じ背格好の別の人間だ。闇に紛れる黒の色彩の中に紅く光って見える瞳が酷く鮮やかだった。
そっと扉を閉めると音も立てずに近寄ってくる。ベットの上で丸くなって眠る刹那に視線を投げたあとその横に座る一対の瞳を凝視してきた。そんな不躾な態度にちょこんと首を傾げると何もなかったかのように視線を反らされた。
どこか所在無さげにしているように思えて刹那を挟んだ反対側を指してやる。するとその意味を正確に読み取ったらしく指された場所に回るとゆっくりと腰を落ち着けた。
「もう落ち着いたから心配はないさ」
「あぁ…安定したのは分かっている。もう発作も起こさない。」
「…随分はっきりした言い方をするんだな。俺らも双子だけど…やっぱりそういうのって分かるもんかね?」
「……………俺は双子じゃない。」
「え?」
ぽつりと吐き出された言葉に驚いて顔を上げると那由多は刹那を見つめたままそっと手を差し出して癖の強い黒髪を撫でている。聞き間違いか?と視線を反らそうとしたが…
「刹那に姉妹はいない」
「は?じゃ、お前さんは何者なんだよ?こんなに瓜二つな容姿して…実は他人です、なんざ世界仰天ビックリショー顔負けだぜ」
「他人…といえば他人だな。血の繋がりはない。」
「マジでか?」
「あぁ。それより何より…俺に血は流れていない。」
「………………はぁ?」
刹那の髪を柔らかく梳く手の動きはそのままに上げられた瞳は全く冗談めいた色は写していない。『血は流れていない』という単語から連想されるのは幽霊あたりだが、こうして話せる、触れる、しっかり見えるとなっては当て嵌まりそうにない。他は?と考えを巡らせても一向に何も弾き出してはくれなかった。
そんなニールの表情に那由多は小さく笑みを洩らすとポツリと話し始めた。
「俺は自分でもどうやって生まれたのかよく覚えていない。けど俺の本当の名前は別にある。」
「本当の名前?」
「……エクシア」
「えく…しあ?」
「そう、エクシア。刹那を守る盾であり、刹那を傷つけるものを排除する剣。刹那を守護するものだ。」
呟いたその言葉は彼女の全てであり、確固たる決意であると突きつけられたように感じられた。
そしてぽつぽつと話される…刹那の記憶が抜けている訳を…
刹那はつい数年前まで戦争していた今は亡きクルジスからきた。
クルジスでは男は神の戦士として戦い、女性はその戦士を癒すべく家を守るというしきたりがあった。
彼女が暮らしていた地域は女性が極端に少なかった。その為、女性を丁重に扱う反面、独占してしまおうという輩もいて暴動が絶えなかったらしい。男の本能のままに暴漢に走ったり、大切にするあまり監禁してしまったりと、どちらの扱いも決して女性としての幸せは存在していない。そんな事を繰り返していると、ついに女の子が育たなくなってしまった。生まれても1年ほどすれば神隠しのように突然姿を晦まし、見つかった時には死体となってしまう。まるで女の子は呪われたかのようにいなくなった。
生まれ育つのは男のみになってしまって十数年近く…女性を巡る暴動が激化する中、刹那が生まれた。
両親はあらゆる危険を恐れ、男として戦士として育てることを決意する。たとえを性別を偽ったとしても女である故にすぐに死んでしまうだろうと思われていたが、神隠しに遭うことも、死にみまわれることもなく刹那はすくすくと育っていった。しかし、この地域で住む限り刹那に付き纏う危険はなくなる事はなく、安心して暮らせる場所へ移るまでは現状を貫く方がいい、と結論付けた両親は、刹那に戦士になるには男でなくてはならないと、女であることを隠すようにと言い聞かせた。
そうして刹那がもう少し大きくなるのを待ち村を脱出する機会を伺っていた頃。
一人の男の手により世界は一変する。
彼は刹那が女であることを見抜くと両親から引き離し、人々の前へと引きずりだした。そうして彼女を神からの使いだと、神と繋がる架け橋の存在だと言い始める。
人々はまるで操られたように、男の言葉へ頷くばかり。言葉の意味が分からずうろたえていると人々は刹那を取り押さえ祭壇へと運んでいく。硬い石段の上に押し付けられると男の口から直接薬を飲まされた。催眠薬の一種であろうそれを含んだあとは意識が朦朧とし、何が起きているのか理解出来なくなっていく。
ただぼんやり開いた目の前で服が切り裂かれ、女の手が身体中を這い回り、男達が獣のような唸り声を上げて血走った瞳を向けてくる。どこか遠くで聞き覚えのある声が高く悲鳴を上げ続けていた。視界の端で歪んだ笑みを浮かべる男の姿がこちらを見据えている。
それらだけがやけにリアルだった。
その瞬間からこれらの行為は『儀式』と呼ばれ、刹那は毎日同じことを繰り返される。昼なのか夜なのかも分からない。ただ、『儀式』の時間がくると女達の手で裸にされて薄いヴェールを纏わせ祭壇へ連れていかれる。そして祭壇に寝かされれば男の口から甘い薬を与えられ、同じ行為の繰り返し。
意識がはっきりする頃には藁の上に広げられたシーツに横たわり、全身の倦怠感にぐったりしていた。
その繰り返しが二年ほど続いた頃、『エクシア』が動きだした。
それまではずっと『見ている』だけだったのだが、ふと気付けば自分の手があり、足があり、肉体があった。
動ける事を確認するとエクシアの行動は早かった。
一目散に刹那が閉じ込められている部屋に向かうと彼女に付きっきりの女達や見張りの男達を次々に倒して連れ出すことに成功する。幸いな事にほとんどの人間が戦争に出払っていて難なく逃げおおせた。
しばらくの間、刹那は薬の影響からか現実と夢の狭間を行き交っていた。だが、薬が徐々に消えてくると人の気配に怯え見るだけでパニックを起こすようになる。そんな刹那をシーツで包んで運んでいると、街に着いた。路地裏で息を殺しながら潜んでいると、一人の女性が現れる。
それがマリナだった。
彼女は一人街に出てきていたらしく、二人を見つけたのはたまたまだったらしい。マリナはただ笑って二人の前に腰を降ろした。座り込んでただひたすら笑みを浮かべる。
そんな彼女に何がしたいのか分からないエクシアはただ睨み返すだけだった。
だが、刹那は最初ずっと震えているだけだったが、やがておずおずと顔を向ける。じっとマリナを見つめ返していた。それでもマリナは変わらずにこにことしていると刹那が口を開いた。
そして、今に至る。
「マリナは何も言わず、何も聞かず俺達を傍に置いてくれた。刹那がうなされた日には夜通し子守唄を唄ってくれて…」
「…それで…何かと知ってんだな。」
「あぁ。刹那の対人恐怖症も少し落ち着いてきた時にこの学園へ連れてきてくれたのもマリナだ。広い世界を知る為に。これから幸せになる為にと。」
そう言って微笑みを浮かべるエクシアの表情は嬉しさをにじみ出させている。刹那だけでなく、エクシアもこの学園に来れたことを喜んでいるのだろう。
ニールも自然と笑みが込み上げてきた。この二人が今幸せだと思ってくれている事に自分が関わっているのが嬉しくてならない。
「…ニール・ディランディ」
「うん?」
「刹那を…任せられるか?」
ふと向けられた瞳と言葉に一瞬目を見張ったがすぐに柔らかな笑みを浮かべた。そうしてそっと、囁くように、けれど力強く…
「もちろんだ。」
頷き返した先にあるのは自分と同じように微笑みを返してくれているエクシアの顔だった。
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