「……?」
ふと瞳を開く。どうやらうたた寝してしまっていたようだ。小さく木を叩く音が聞こえて顔を上げると、胸の上まで被されていた毛布がずり落ちた。
「起こしてしまいましたか?」
その声に振り向くとカウンターごしに仗助がいる。いつの間に、とは思ったが、ふと壁掛けの時計に目をやるとそれなりの時間が経過していた。
「いや、ちょうど目が覚めた」
「左様でございましたか」
申し訳なさそうな苦笑で見つめてくるのに素っ気なく返せば安心したように頬を緩めた。こちらの態度で一喜一憂する様も変わってはいない。けれど何だろう?と承太郎は内心首をかしげる。酷く違和感が感じられ、胸の内に突っかかるものがあった。廊下を歩いていた時の違和感がさらに強くなる。
「博士」
「ん?」
原因を考えようとしたが中断させられてしまう。再び振り向くとメモ帳を片手に伺うような顔をした仗助がこちらを見ていた。
「博士がお休み中にお電話がありました。トニー・ワトソン教授です」
「……あぁ、なんて言ってた?」
ワトソン教授は承太郎が海洋学者になってからよく世話になる老教授だ。かなりの高齢だというのに、バイタリティに溢れ、今でも教壇に立つよりも船での長距離航海に出て動物のスケッチをしたり、水中生物の観察をしたりと現役並に活動している。事あるごとに承太郎を気にかけ、孫のように接する人だ。どこか実の祖父を彷彿とさせる彼を承太郎自身も邪険にすることなく、また、社交的というには少々親密にはなっている。
「起きてからで構わないので電話をかけて欲しいとの事でした」
「ん、分かった」
きっと今日のパーティーの事だ。出席の返事は出してはいるのだが、SPW財団からの依頼が入ったりした時はドタキャンにしてしまうので伺いを立てられるのだろう。それ以外にも少々面倒な事を言われるだろうな、とは容易に予想は出来るが。
それでもちゃんと電話は入れなくては、と立ち上がると仗助が電話の子機を持って来た。
「お電話番号はお分かりになりますか?」
「あぁ、問題ない。覚えている」
「かしこまりました」
記憶通りの番号をプッシュすればすぐにコール音が鳴り始める。まだ昼食時間には差し掛かっていないので迷惑にはならないはずだ、と考えた通り、さほど待つ間もなく応答が返ってきた。
−「Hellow?」
「空条です」
−「やぁ、おはよう、承太郎!」
もう「おはよう」という挨拶の時間ではないのだが、きっと承太郎が寝起きである事でわざと使ったのだろう。その明るい声に苦笑を漏らしつつ、伺いをたてる。
「お電話を頂いたそうで」
−「うむ、今日のパーティーをどうするのか今一度確認しようと思ってな」
「えぇ、ちゃんと出席します。今のところキャンセルするような用はありませんから」
−「今のところ、か」
「はい、今のところ」
ワトソン教授にはSPW財団の事は話していない。けれど、長い付き合いの中で承太郎が海洋学と別に仕事を受け持っていると解釈してくれているらしい。また、そちらの方で承太郎が頼りにされていることも理解してくれていて、深くは突っ込んでこない。己と承太郎の関係性を重視した結果、そういった殊勝な態度を貫いてくれている貴重な人物だ。
−「そうかそうか、では今夜さっそく会わせてくれるのだね?」
「え?」
てっきりいつものように二つ目に出てくるお約束の言葉だと思っていたら少々違う言い回しになっていた。なんのことだろうと首を傾げると、電話の向こうで教授は「勿体つけおって」と笑いをこぼしている。
−「助手を持ったのだろう?」
「助手……ですか」
さらに心当たりのない言葉に首が傾いていくばかりだ。けれどある人物が脳裏を掠めてちらりとカウンターの向こうを見遣る。該当する人物は昼食の準備に戻っており、その手元は馴れた手つきで包丁を動かしていた。
−「明確な言葉では言い表さなかったのだがね。受け答えといい、言葉遣いといい、かなり優秀なようだ」
「……はぁ」
てっきり勝手に承太郎の助手ですと名乗ったのかと思えばそうではなかったらしい。かと言って承太郎自身も今の彼を『何』と表す言葉が見つからずに黙り込むしかないのだが。
−「では、楽しみにしているよ」
終始楽しげな声をしていた教授との電話が切れてからも承太郎はその子機をじっと見つめた。今の話の流れで仗助を皆にお披露目しなくてはならなくなった。
もしかして自分は外堀を埋められているんじゃないのか?と疑わしく思ったのだが、仗助自身が仕込んでしたことではない。自然の流れの上で起こった事であり、彼を咎めるにはお門違いといったところだ。
「やれやれ」と口の中で小さく呟くと小腹がすいた程度の腹のまま、再び席へとついたのだった。
「おい」
「はい」
声を掛けると即座に返事が返ってくる。上げられた表情も見慣れつつあるあの笑顔だ。
「スーツは持ってるか?」
「スーツでございますか?」
「そう、お前のスーツだ」
唐突に振られた質問に少なからず驚いたようだ。軽く瞬きながら少し黙り込むと小さく首を振った。
「いいえ、必要にならないと判断して所持しておりません」
だろうな、と承太郎は心の中で頷いた。ワトソン教授からの電話がなければ承太郎一人で出かけるつもりだったのだ。それに連れて行かねばならないということもなかった。けれどもうそういうわけにはいかない。きっと教授から他にも何人かの教授に話が広がっているだろう。
「今晩、お前も連れて行く事になった」
「……よろしいのですか?」
「やむを得ない事情というやつだ。ついでに一つ役立ってもらおう」
「仕事、ですね」
「そうだ。スーツ代は報酬だと思え。飯を食ったらすぐ出かける」
「かしこまりました」
決して受け入れたわけではない、と線引きをする。それを分かっているだろう、仗助から特に何も言い返されることはなかった。
今日だけで何度目かしれないため息が吐き出される。とっととこの悪夢のような事態を収束したいな、と考えながら承太郎はぼんやりと昼食が出来上がるのを待った。
* * * * *
滑らかに走る車の助手席で承太郎は腕と足を組みながら平静を保とうとしていた。
家を出る時にまた一悶着あったのだ。とはいえ、一悶着というには承太郎が一方的に苛立っていただけなのだが。
まず家を出る時のこと。食後のお茶を堪能している間に仗助は洗い物を済ませると承太郎のコートとトレードマークとも言える帽子を持って来た。帽子を受け取り更にコートを、と思って手を伸ばすと当然のように広げられる。それは「どうぞ腕を通してください」という意図を表していて、思わず固まってしまう。執事の仕事としては当然なのか、と若干嫌気をさしつつも黙ったまま着さてもらった。
戸締りの確認を終わらせ、車庫へと移動する。鍵を、と思う前に仗助が取り上げて行った。そういえば運転免許を取ったと言ったな、と思ったものの、開かれた後部座席のドアにそういうことか、と思い至った。
「……」
無言で開かれたドアを閉じる。それを確認して仗助が見つめてきた。
「運転はお前がするのか?」
「はい、私の務めでございます」
鍵を持って行ったのだからこれは当然の答えだった。つまり運転手としてゲストである主は安全な後部座席に座らせるのも当然という事。けれど……
「道はわかるのか?」
「この街の中でならば網羅しております」
「どこにどんな店があるってのは?」
「食料、日常品店に留まっております」
「だろうな」
「申し訳ありません」
予想通りの答えに頷くと謝罪の言葉が返ってきた。本当はこの近辺の道を網羅してるだけでも充分なのだが、承太郎の言葉にそれでは足りないのだと言われていると思ったようだ。
「咎めてるわけじゃねぇ。ただ、ナビをするには後ろじゃやり辛いだけだ」
「かしこまりました。ではこちらで」
そう言って今度は助手席の扉を開かれる。自分で開けるつもりが遅かったようだ。それにこのあたりも譲るつもりはないらしい。軽くため息をつき、今度は大人しく乗り込む。反対側から乗り込んだ仗助をみやり、駅前に向かえ、と端的に指示を出した。
そうして今に至る。
節々に出てくる主従関係に基づいた動作が承太郎を尽く苛立たせる。杜王町でのやりとりからはかけ離れすぎていて尚更気分が悪いのかもしれない。
「お聞きしてよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「どのような経緯を経て同行することになったのでしょうか?」
もっともなその質問にムカムカとする胸を押し殺してワトソン教授との電話の内容を話す。すると、心得ました、と返してきた。ちらりと見遣ったその横顔がどこか嬉しそうに見える。やれやれ……と心の中で呟いて口を開いた。
「次の交差点を右だ」
「かしこまりました」
* * * * *
店はいつも承太郎が利用しているところを選んだ。というのも、アメリカでも承太郎程の身長となるとサイズがなかなかなく、オーダーメイドになることが多い。けれどこの店はそう言った超高身長もターゲットにいれており、今日のような緊急時は重宝する。同じくらいの身長になった仗助にもちょうどいいものが見つかるだろう。
「いらっしゃいませ、Mr.空条」
「こいつにスーツを見繕ってくれ」
「かしこまりました」
入るなり出てきたのはいつもお得意である承太郎の接客をしているオーナーだった。端的に用件を告げれば営業スマイルは崩さないままに奥へと通される。プライベート用のフィッティングルームだ。ソファに腰を落ち着けて出された紅茶に手を付ける。そう言えば用途を説明しなかったな、と思い出したが、店員と話しているらしい様子が分かった。
そう、仗助はもう子供ではない。自分と同じ一人前の大人だ。
「いかがでしょう?」
さほど時間もかからず問いかけの言葉が聞こえてきた。暇つぶしに読んでいた本から顔を上げて個室から出てきた仗助を見やる。店員が見繕ったコーディネートは思ったよりもしっくりときていた。てっきり無難なブリティッシュスーツで来るのかと思えば、ブラウンのイタリアンスタイルだ。ページュのシャツにワインレッドのネクタイが色を添えている。
「悪くない」
「ありがとうございます」
「そいつに合うアクセサリを適当に選んでくれ」
「かしこまりました」
簡潔な追加注文にも微笑みながら答えた店員は仗助とワゴンに乗せてきた小箱をあれやこれやと選び始める。その間に飲み物を運んできた店員にカードを渡して会計を頼んだ。
「お前、自分の荷物はどうしてる?」
思った以上に早く済んでしまった買い物にこのあとをどうしようかと思惑を巡らせながら、当然のように助手席の扉を開けて待つ仗助をみやった。今新たに増やした彼の私物を見てようやく気づいたのだ。
「ビジネスホテルに預けてございます」
「ホテル?」
「こちらでの住居をまだ探しておりませんので見つかるまでの仮宿です」
「……探しているのか?」
「はい。就寝と荷物を置く為だけの部屋ですのですぐに見つかります」
「住み込むんじゃないのか?」
「許可を頂いておりませんので」
当然とばかりに返された答えにあぁ、なるほど、と納得した。いきなり転がり込んできて部屋を使います、というのはさすがにない。
「……荷物を取りに行く」
「はい?」
「一軒家に一人暮らしをしているんだ。部屋なら腐るほど余ってる。それを使えばいい」
「ありがとうございます」
結局近くに置くことになった事態には見てみぬふりをして車を出させる。深く考えれば考えるだけ深みに嵌りそうで適度に切り上げる事にした。
* * * * *
出てきたついでに食材の買出しも済ませて帰宅すると夜の準備を開始するには丁度いい時間帯になった。使う部屋は勝手に選ばせて自室へと入る。
壁に出る前に仗助が用意していたスーツの一式が掛けられていた。
シルバーグレーのスーツと白地のシャツだ。靴にはシャンパンゴールドの革靴が用意され、ベスト、ネクタイ、ポケットチーフはすべて藤色のジャガードで統一されている。ネクタイの種類はアスコットタイとリングの組み合わせだ。なかなかにセンスがいいらしい。
着々と着替え、ジャケットのボタンに手を掛けて瞬いた。見覚えのないボタンだ。前に着用した時は何ら特徴のない胡桃ボタンだったはずなのだが、今手にかけたそれは凝った模様が入っている。
淡い金色に輝くそれは、月桂樹の葉に抱かれた盾へ星が刻まれ、重厚そうなクラウンがトップに掲げられている。靴の色に合わせたようだ。
「入室してもよろしいでしょうか?」
「あぁ」
ボタンに見蕩れているとノックとともに入室の許可を求める声が聞こえてきた。短く答えると扉が開き、先ほど調達した服装に着替えた仗助が入ってくる。馬子にも衣装とはよく言ったもので、まるで本人の為に誂えたかのようだった。店ではデザインと色の確認しかしていないのでちゃんと着こなした姿は全く別物に見える。
「失礼します」
目の前まで移動してきた仗助の手にアスコットタイが握られている。結んでくれるらしい。手馴れた手つきで結んでいく手に自分は袖を正してベストのボタンをかける。
「このボタンはお前が?」
「はい、ジョースター様からの贈り物でございます」
「なるほど」
スーツがシルバーなのに、靴がブラックや白でない事に少々疑問を感じていたがこの為らしい。アクセサリーやボタンの類を淡い金にまとめることで足元にも似た色を使ったのだろう。
「御髪はどうなさいますか?」
「……あぁ、後ろに流すだけで構わない」
「かしこまりました」
かけられた声に意識を戻せばいつの間に持っていたのだろう?櫛が握られていた。パーティーの席で帽子を被るのもどうかと思うので特に何もせずに済む長さにしてあるのだ。それでも梳かすくらいはするか、とやりやすいようにベッドの淵に腰掛ける。
さらさらと髪の流れる音がする間、目のやり場が見つからず瞳を閉じている。
「ワックスを少量使います」
「任せる」
流れをキープさせたいのだろう、許可を求めてくるのに素っ気なく返し、終わるのを只管待つ。すると今度は櫛ではなく指がすり抜けていった。
「最後に首元を失礼いたします」
心地よい指の感覚に返事を返せなかったが、何も言わずに動かなかった事で可と受け取ったのか、指先が首に触れてくる。僅かに冷たい感触で肩が跳ねてしまったが、手が離れる時に香る柑橘類に少量の甘いムスクが混ざった香りでトワレか、と納得した。
「終わりました」
最後に襟の皺を撫でていた手と共に体がすっと遠ざかっていく。遠のく体温に、あぁ、と思った。
強い違和感を感じていたその要因。
杜王町にいた頃のようにぺったりとくっついてこないのだ。
あの街にいた頃は街中で姿を見かけるなり走り寄って来た。しかも驚かそうとしたのだろう、突進するように抱きついてきたり、離れないようにコートを摘んできたりしていた記憶がある。ホテルの部屋に転がり込んできては、論文で手の離せない自分に文句を言うこともなくじっと待ち続け、休憩がてら話し相手になれば飼い犬が主人に遊んでもらえて嬉しいと言わんばかりの表情をする。自分のような無愛想なことこの上ない人間にやけに懐いたものだ、と思っていた。
穏やかな時間の間に死線を共にし、互いの昂ぶりをぶつけ合ったりもした日々は今でも時々体の中で燻りを見せる。本来のあるべき距離を持った事で濃厚な空気を孕んだ誤ちを犯さずには済んだものの、ここまで他人行儀になるつもりはなかった。
そう、今の彼は自分との間に一線を引き、その領域から一切はみ出したりしない。
寒々しく感じる距離が承太郎を苛立たせていたのだ。
だがそれについて承太郎がどうこう言える義理はない。なにより彼をずっとここに置いておく気はないのだ。
「……場所はわかるか?」
「はい、確認済です」
どうせ運転は仗助がするのだろう、と聞いてみれば当然のような答えが返ってきた。その答えに今度は後部座席だな、と小さくため息をついて部屋から出て行く。
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