「博士」
「なんだ?」

 余り賑やかな場所は好きではない承太郎はすでにぐったりし始めていた。しかし、仕事の一環だ、と窓の外をぼんやりと眺めている。すると、ホテルのエントランスで車の列に並んでいると前から声がかけられた。

「仕事の内容を伺ってもよろしいでしょうか?」
「……あぁ」

 連れてくる経緯については話したが、承太郎の個人的な企みはまだだった、と思い出した。

「大して難しいことじゃない。縁談よけになっていればいい」
「縁談よけ、でございますか?」
「あぁ。老婆心ってやつだろう。少々節介の過ぎる教授やスポンサー連中がいてな。まだ若いから、と再婚を勧めてくる。
 こちらにその気がなくてもその内気が乗るだろうとか考えているらしく、助手だの家政婦だのとやたら傍にいさせようとしてな」
「なるほど」
「そこに娘の方も本気になってくるもんだから面倒なことこの上ない」
「承知しました」

 少し笑った雰囲気を感じてミラーを見遣るが澄ました顔のままだった。気のせいか、と再び窓の外へと視線を外しているとようやく順番が回ってきたらしい。先に下りた仗助が扉を開いてきた。

「どうぞ」
「あぁ」

 鍵を預かったスタッフが乗り込むのと入れ違いに外へと踏み出すと周りの空気がざわめいた。気づかれない程度にさっと見回してみると常日頃から目立つ承太郎の横の見知らぬ人物に興味を引いているらしい。
 まずまずな反応に自然と承太郎も気分がよくなる。同じくらいの身長になった為に仗助自身もよく目立つので、再婚目当てに転がり込む計画の阻止は上手くいきそうだ。

 * * * * *

 受付を済ませ、会場に入ると……さすがは名の通ったホテルだ。煌びやかなシャンデリアや壁の装飾、テーブルクロスに至るまで華美というにはしっくりと落ち着き、品の良さを見せている。スタッフからウェルカムドリンクを渡され、口を付けていると先に到着していた招待客や新たに入ってくる人々の目が興味津々に見つめて来ていた。じろじろと見られるのはあまり好きではないが仕方がない、と我慢をしてみるものの、仗助はどうなのだろうか?とふと気がつく。杜王町にいた時はよく突っかかっていたが。

「……」
「……なんでしょう?」
「いや」

 ちらりと見たはずだったのだが気づかれたらしく小首を傾げられる。すぐに顔の向きを直して平静を繕う。まさか気づかれるとは思わなかった。
 空になったグラスを近くのボーイに渡すと仗助も同じようにグラスを渡した。

「博士、少々よろしいでしょうか?」
「何だ?」
「スーツに花粉が付いておりますので」

 そう言って指し示されたのはレストルームだ。さすがに会場の中で払うわけにはいかないのであそこで、ということらしい。もっともだな、と先を歩く仗助の後に続く。部屋の隅に寄ると胸元からブラシを取り出して肩の辺りを払い始めた。為すがままに終わるのを待つとブラシを直した手がスーツへとかけられる。じっとしていればブラシがけで乱れたらしい襟周りを正しているようだ。

「!」
「終わりました」
「……あぁ」

 そろそろ主催のスピーチが始まるだろう、と会場に戻りながら承太郎は今しがた仗助が触れていた襟周りに手を這わせる。内ポケットの辺りに違和感があったからだ。何をした?と前を歩く仗助に気づかれないように確認をすると名刺ケースが入れられている。

「(……そういえば持たなかったな)」

 こういった大きなパーティーでは顔見知りばかりというわけにはいかない。仗助のように誰かの供として来たり、代理で来たり、人が多いという理由から利益に繋がりそうな人材を探すスポンサーなどもいるからだ。そういった人物と接触するのに名刺は必要となる。うっかりしていたとはいえ、こうしてさりげなく渡して主の面子を保つとは、執事として優秀ではなかろうか。
 予想通り会場に戻れば始まったスピーチに耳を傾けながら手近な壁に寄りかかる。何気なく会場内を見渡しているとふと気づいた。

 花粉の落ちるような花は使われていない。

 よくよく考えれば当たり前の事だった。着飾った客が参加するパーティーだ。その衣装を汚す恐れのあるものをホテル側が使うわけがない。飲み物にしても無色に近いものばかりだ。
 つまり……

「(こいつを渡すための方便だったか)」

 優秀すぎてため息が出る。承太郎はスピーチの締めくくりに鳴り響く拍手に紛れてそっとこぼした。

 スピーチが終われば立食パーティーとなる。ここからが承太郎にとって一番面倒な時間帯だ。挨拶だ、顔見せだ、と何かに理由をつけて話しかけられては例の件をふっかけられるだろう。ただの話なのに相当体力を使う事は何度も経験したので熟知していた。切り抜けるにもまず英気を養うべく適当に何か摘むか、と思っていたところに声がかかった。

「承太郎!」
「こんばんは、ワトソン教授」

 振り向けば底抜けに明るい笑みで顔をくしゃくしゃにしたワトソンが近づいてきた。本来欧米人特有の白い肌は海の強い日差しによって赤黒く焼けている。顔には年相応のシワが刻まれているが、実年齢からするとまだまだ若く見え、瞳はキラキラと子供のように輝いていた。

「久しぶりだな!あちこちと飛び回っておって滅多に会えないから今日は楽しみにしておったぞ」
「それは私だけではないと思いますが」
「ははっ!まったくだ!」

 互いに海洋学会によく呼ばれたり、あちこちの海へと乗り出しで生物の調査に没頭しているので話すのも電話が主になっていた。久方ぶりに顔を見れた事がよほど嬉しいのかいつも以上に肩を叩く手に力がこもっているように思う。

「それで?紹介してくれるか?」
「……あぁ、はい」

 さっそくとばかりに仗助の事を持ち出されて当人に振り返る。と、すぐさっきまでいたはずの人物がいない。少し見回してみるとビュッフェコーナーからこちらに向かう姿が見て取れた。

「お待たせして申し訳ありません。博士、こちらをどうぞ」
「ん」
「教授もいかがですか?」
「うむ、いただこうか」

 両手に持っていた皿をそれぞれに差し出すと、ワトソン教授が感心したような表情になった。

「初めてお目にかかります。空条博士の元で助手をさせていただくことになりました、東方仗助と申します。よろしくお願いします」
「おぉ、よろしく!承太郎と同じ日本の出身だったか」
「はい。こちらに来てまだ日が浅いですので何かと不作法があるかと思いますがご容赦願えたらと思います」
「よいよい!困ったことがあったらなんでも聞いてきなさい」

 礼儀を重んじる日本らしい挨拶が気に入ったのかワトソン教授の目尻がさらに下がる。どうやら気に入られたらしい。常にニコニコとした表情をしているが、彼は非常に人の好みが偏った人物だ。陰口を叩いたりといった陰湿な事はしないが、明確な一線を引き、気に入らない人間は一切内側に入れようとしない。

「自分の分を取ってこい」
「分かりました。それでは少々失礼します」
「おぉ!」

 二人分を取ってきたであろう皿の片方は教授に渡したので、自分の分がなくなったことに促せば断りを入れてから再びビュッフェコーナーへと歩いて行った。その背中に機嫌よく手を振った教授がうんうんと頷く。

「ふむ。好青年だな」
「そうですね。人懐っこい性格だと思います」
「そのようだ。うむ。彼ならば他の紹介を断るに事足りるだろう」
「気づいてましたか」

 口ぶりから彼が本当に助手ではないことに気づいたようだ。他から助手だ、家政婦だとの紹介を断る口実の為だと分かっているらしい。

「まぁな。お前には後継を育てられるような器用さはないからな」
「それは心外ですね」

 暗に人付き合いが苦手な事を指摘されて苦笑が浮かぶ。確かにその通りではあるが、昔よりはうんとましになった方だ。だがそれでもスキンシップの多い国民柄のこの国では相当ドライだろう。

「何はともあれ独りではなくなった時点で私は安心出来た」
「そうですか」
「では、あっちにも声を掛けてくるかな」

 その視線を辿れば教授の下で数年助手をして独り立ちをした学者が見えた。あちらも教授と久しぶりに会うのだろう、話をしたそうにこちらをちらちらと見ている。

「あまり手厳しくはしてやるなよ?」
「しませんよ、そんなこと」

 最後に腕を優しく叩いて軽快な足取りで歩いていってしまった。それを見送るとすぐ横に人影が入ってくる。

「ワトソン教授はどちらへ?」
「久しぶりに顔を見る人がいるとかでそっちに行った」
「左様でございましたか」

 まだ何かしら話しをするのだと思っていたらしい。開放されたと知って僅かに肩の力が抜けたのが分かった。
 助手を得たという情報のおかげで以前ほど言い寄っては来ない状況に承太郎は満足していた。酷い時は間をおかずに次々現れては大した実りもない会話を繰り広げては、名残惜しいとばかりに腕へ指を絡めてきたり、肩へと寄り添ったりされてきていたのだ。それらが今日は全くなく、遠巻きにじっと見つめられることが多い。それでも何人かの強者が話しかけてきたりもするが、腕や肩に触る程度で過剰なボディタッチはなかった。

「博士」
「ん?」

 ようやく途切れた所で呼ばれて振り向けば唇に親指が押し付けられる。何事だ?と瞬いているとゆっくりなぞっていき、端までくると他の指が顎に添えられ少し押さえつけてから離れていった。

「ナプキンの用意を忘れてしまいましたので指で失礼しました」
「あぁ、構わない」

 屈託のない笑顔で断りを入れられて曖昧に頷く。すると拭っていった指が仗助のそれへと添えられて小さく舐め上げた。なんとなく見ていられなくて顔を逸らしたのだが、すぐに視線だけを戻す。

「……度が過ぎてねぇか?」
「そうですか?牽制するのならこのくらいがちょうどいいかと思われますが」
「牽制、な」

 訝しげな質問に返されたにこやかな笑みに何の牽制だ、と突っ込むのはやめておいた。顔を逸らした際に見た何人かの女性の顔が真っ赤に染まっているのを見たからだ。言い寄る女性を遠巻きにさせるのはいいが、これは別の問題が起きやしないかと思う。
 どうしたものか、と視線を彷徨わせているとワトソン教授と目が合った。すると、どこかしら満足そうな笑みでぐっと親指を突き立てる。

「(どういう意味だ)」

 思わずげんなりとしてしまう心の内を小さなため息で誤魔化して主催が挨拶に回ってきたのへ、挨拶を返した。

 * * * * *

 パーティーは滞りなく進み、予定通りの時間に終了した。二次会として小規模な飲み会に何人かから誘われたのだが、論文明けの睡眠不足を理由に断ってきた。何人かは仗助を引き合いに出してきたが、「本人の意思に任せている」と言うとがっくりと方を落として下がっていく。どうやら仗助の方でも返事をしていたらしく、「少量ですが、飲酒されておりますので自宅まで送り届けなくてはなりません」と断っていたという。運転なら代行に任せればいいのだが、当人が頑として譲らなかったそうだ。

 自室に帰り着くとジャケットを肩から落とす動きに合わせて仗助が脱ぐのを手伝ってくる。脱いだ服をすぐにハンガーへと引っ掛け、外した装飾を受け取るとサイドテーブルへと並べ、新たに脱いだベストを受け取りに来た。

「お疲れ様です。本日はこのままご就寝なさいますか?」

 漏れでたため息に気遣われて眉間に皺を寄せてしまう。それを隠すように揉み込んで顔を見つめ返した。

「いかがなさいましたか?」

 承太郎の機嫌が優れない事を気づいているだろう、執事らしい笑顔に憂いの色が帯びていく。

「お前……本当にこうして居座るつもりなのか?」
「はい。今朝申し上げたように、自ら望んだ事です」

 はっきりとした肯定の返事に片眉が跳ねる。ジリジリと胸を焦がす苛立ちにせっかく伸ばした眉間の皺が戻ってきてしまった。

「お前は何を望んでるんだ?」
「この現状です」
「現状だと?俺の身の回りをちまちまと世話することか?こんなことに、杜王町を捨ててまでも選ぶ価値なんぞないだろうが」
「捨てたつもりはありません。けれど、結果的に捨てた事になってしまったことを否定しません。ですが、博士がどう思おうと私にはあの町以上に価値のある事です」
「……望みってのはなんだ?」

 同じ質問が零れ落ちる。他にどう聞けばいいのか分からないのだ。
 生まれ育った故郷を離れてまで選ぶ価値は何なのか全く分からない。けれど、仗助の言う『望み』が現状を選ばせた事は明らかだ。素直に答えるかどうかはいちかばちかの賭けだった。口をついて出た疑問に仗助もしばし固まって見せる。けれど、その沈黙は思ったよりも短いものだった。

「博士と……ここにいることです」

 そっと伸ばされた手は頬に触れそうになった途端に動きを止め、代わりに左の胸の上へと押し付けられる。その動きをしばし見つめ、表情を窺えば真摯な瞳が真っ直ぐに投げかけられていた。無表情というにはどこか苦痛に耐えるような顔。鼓動が押し当てた手から伝わっていく。言葉とその行動に、自分が生きている事を指し示されているように感じた。
 時が止まったように動かない二人はずっとそのままで立っていた。しかし、承太郎がその手を引き離した事で時間が動き出す。

「……出ろ」
「…………」
「追い出しているわけじゃない。一人にしろ」
「……かしこまりました」

 静かに扉が閉まるのを背後に聞き承太郎は長く息を吐きだした。無意識に詰めていた呼吸を再開させながら、ベッドへと腰掛ける。膝に両腕を付いて頭を抱えるとシャツにシワが寄るのも構わずそのまま横倒れになった。

 何かが決壊した気分だった。

 危惧していた通り、娘の徐倫に宿命の歯車が牙を剥いた。あれほど巻き込まれないようにと願い、遠くから見守っていたのに。けれど、失望に陥る時間はなかった。早く彼女を救い出さなくては亡くしてしまうかもしれない危機感に駆られていたからだ。

 今度こそなくさない。もうあの頃のような未熟な自分ではないのだ。

 守り抜く。その決意は己の命を賭したものになったはずだった。けれど、海に沈んだ記憶を最後に次に写った景色は青空を背に涙をいっぱい溜めた徐倫の顔だった。抱きつかれて、泣き喚かれて、その温かさに自分も確かに泣いた。

 生きている。

 その事実に泣いた。

 あの壮絶な戦いを終えた今、血の宿命は終結を迎えたのだろうか?また巡り来るかもしれない戦いに自分は怯えている。大切なものが生きた年月に比例してたくさん出来た。今度は誰がその凶刃に掛けられるのか?
 ぶるりと震える体を抱きしめる。自分はいつの間にこれほど弱くなったのか?

「……仗助……」

 ふと脳裏を過る姿に名前は口をついてこぼれ落ちた。先ほど見た真摯な瞳に隠れる怯えは何を表していただろう?
 そっと指先を這わせたのは肩にある星の痣。ジョースターの血筋の人間を感じ取れると同時に命の灯火を感じ取り、消え去ってしまうものならば何かしらの異常を訴えてきた。ジョースター家の人間に烙印のように穿たれているその痣はもちろん彼にも存在する。
 つまり承太郎が『沈んだ』事を感じ取ったのではないだろうか?それが瞳に表れていた怯えだとしたら。

 言い知れない思いが喉を込み上げ、静かに涙を流した。

「おはようございます。本日も良いお天気です」

 いつの間に寝てしてまったのだろう?まぶた越しに明るい日差しが感じられる。
 温かい匂いと共に柔らかな気配が傍を通り過ぎる。寝起きの喉の不快感を忘れる朝食の香りに腹が空腹を訴えてきた。生きているのだから当然であるその現象に笑みが漏れる。

「……仗助」
「っ!」

 微かに息を呑む声が聞こえる。窓辺に立つ彼の背を見つめていると、カーテンを掴む手が僅かに震えているのも見える。その反応にふと気づいた。
 彼がここに現れてから初めて名前を口にした、と。

「……はい」

 緊張した面持ちで振り返るが、逆光の中の表情ははっきりとは見えない。影の中に埋もれた青い瞳を見たくて手を差し出すと、逡巡したであろう僅かな間のあとに恭しく手を握られた。

「仗助」
「はい」

 先ほどよりもすぐに返ってきた返事に近くなってなお見えない表情を見上げながら口を開いた。

「俺はお前を平穏とは程遠い運命に巻き込むぞ?」

 静かに紡いだその言葉は学生の頃から燻らせていたものだった。自分にはジョースター家の血と硝煙の運命が託されている。束の間の平穏もいつ牙をむくか分からない。もし自分に関わっていなければ、平和な日常を過ごしていた命が、落とさなくて済んだ命がいくつあるだろう?
 幸い仗助の生まれ育った杜王町の騒ぎも収まった後は落ち着きを見せている。だから、平穏な日々を送れる場所を離れて血生臭い自分の元に来た事が悲しい。悔しい。安全な場所にいてほしい。自分の宿命に巻き込まれてほしくない。だから……

 『ここ』から逃げてくれ。

 失くした戦友が渡してくれたのは『Star』のタロットカードだった。希望と未来を示すカードは返せば失望を孕んでいる。果たしてその失望は誰の上に降りかかるものだろうか?自分?それとも……

「……それでも」

 いくらかの沈黙が降り注いだ後、仗助の唇がゆっくりと解かれる。そこからこぼれ落ちる言葉は受け止めたくないのに、聞きたいと思う言葉だった。

「私が望むのは、『ここ』にいる事です」

 握られた手に頬が寄せられる。じわりと温かく感じる肌に自分の手は冷え切っていたのだと教えられた。

「……後悔、するぞ?」
「しません」
「何故言い切れる?」
「しない為に来たんです」

 −……あぁ、完敗だ。

 彼はいつの間にこんなに大人びてしまったのだろう?ずっと子供でいてくれたら良かったのに。そうは思うものの、成長を感じられて歓喜する心が確かに存在する。自然と浮かぶ苦笑をそのままに握られた手を引き寄せて覆いかぶさる背に腕を回した。目頭が熱い。涙脆くなったのは年のせいだな、と自分に言い訳をして温かい体に縋りつき続けた。

「……」

 どれほどそうしていただろうか?承太郎に合わせているのか、全く動く気配のない仗助を訝しむ。前ならこんな状況に陥ったならば、ここぞとばかりに我が物顔をして体に手を這わせていたものだが。このあたりも変わってしまったということなのか。そっと腕の力を抜くと間近に青い瞳が見える。

「落ち着かれましたか?」
「……」

 そろりと宥めるように頬を撫でる指に話せば息が唇に掛かる距離。体が条件反射のように熱を燻らせ始めている今、酷くもどかしい。けれどその唇が己のそれと重なる気配はない。自分から噛み付いてもいいのだが、年上の矜持と年齢に応じた落ち着きをどうしても捨てられずに首へと両腕を回すだけに留まった。

「博士?」
「ベッドの中ってのは博士だとか主だって肩書きはなくなるもんだと俺は思う」
「……はい」

 つまりはただの『承太郎』でしかないと暗に伝えると逡巡の後、納得したように頷いた。けれどそれだけ。何を言わんと、しようとしているのか分からないではないだろうに。焦れた承太郎は重なる腰に太ももを押しつけた。

「据え膳って言葉は知らないのか?」

 幾分ストレート過ぎる承太郎に仗助は僅かだが目を見張る。けれどすぐに笑みへと変わってしまった。

「大変魅力的ではありますが、鍋の火を点けたままですので」

 そう言われると離すしかなくなる。無理に引き止めて朝食が台無しになってしまうのは忍びないのだ。

「可愛くないな」
「もういい年をした大人ですからね」
「やれやれだぜ」

 差し出される手を取りながらベッドから抜け出る。柔らかい布団と温かい体温から離れて少々肌寒い。寝るには窮屈だからと無意識のなかにもいつも通り脱ぎ捨てた上着を拾い上げた仗助が肩へと掛けてくる。少しはマシになったが、すんなりと離れていくその手にため息が出た。

「しばらくは叔父の観察記録に忙しくなるな」
「!」

 部屋の入口で扉を開けて待つ仗助が僅かに肩をはね上げた。その反応に僅かだが溜飲が下がる。

「それは……大掛かりな記録になりそうですね」
「まぁな。シャワーを浴びる」
「かしこまりました」

 してやったりな笑みを浮かべた承太郎はすぐに脱ぐ上着に袖を通しながら廊下へと出て行った。


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