ほぼ明け方まで粘って今度発表する論文がようやく仕上がった朝。窓の外は恨めしいくらいの快晴。雲一つない良い天気の外とは裏腹に、この家に済む『博士』の脳内は嵐が吹き荒れていた。
 それというのも、明け方まで滞在していた仕事部屋が変貌していたからだ。片付けは後で、と乱雑に詰まれていた書籍はすべて棚に収められ、合間の休憩で癒しを求めて置いてあったイルカなどのぬいぐるみはソファに行儀良く陳列されている。紙の山に埋もれていたであろうペン立てが机に沿って垂直に置かれた電話の横に置かれ、傾いていたランプの傘も綺麗に直されていた。
 そして窓辺には見慣れぬ男の後ろ姿。

「おはようございます、博士」

 その男はこちらを振り返ると穏やかな口調でそう話しかけてきた。



<<博士と執事のプロローグ>>



 広い肩幅を覆う深い紫を淡く纏った黒のライダースジャケット。大きく開いた襟を飾るピンは学生の時につけていたものと同じだ。細身のチノパンにバイカラーのコンバットブーツを合わせた足も記憶にある彼の体格からは随分伸びたようだ。自分と同じ色をした黒髪は緩く後ろに流しサイドは結い上げて、記憶にあるリーゼントではないけれど、どこか懐かしい面影が重なる。
 しかしその顔に浮かぶ表情には覚えがない。『笑み』に違いはないが、自分が知っている満面の笑みともはにかむような笑みとも違う。

「起床時刻を存じ上げておりませんでしたので博士がご自身で起きて来られるのをお待ちしておりました」
「…………」
「主の許可なく私物に触れることは禁止されているのですが、論文を完成されたようだったので片付けさせていただきました。何かご入用のものがございましたらお申し付けください。すぐにお持ちします」
「……おい」
「朝食の方はいかがなさいますか?昼食の時間に近くなる事を予想した上で軽めの物をご用意しております」
「おい!」
「はい?」
「こいつはなんの冗談だ?いや、それよりお前が……何故ここにいる?」

 眉間に深いシワを刻み睨みつける博士、こと空条承太郎にも臆する事なく男は穏やかな笑みを浮かべたままその場でじっと佇んでいる。その態度に彼のことをよく『知っていた』承太郎はさらなる混乱に陥っていた。『昔の彼』ならば一睨みするだけで首を縮めて怒られるのをじっと耐える小犬のような態度を取っていたはずだ。
 ならば目の前にいる『彼』は他人の空似なのだろうか?それともスタンド絡みの罠か?
 じっと警戒心を露わに答えを待っていると少し緩めた笑みを深くし、優雅なお辞儀を返してきた。

「これは失礼いたしました。挨拶を忘れておりましたね」
「いや、そうじゃなく……」
「わたくし、東方仗助は本日より、空条博士専属の執事を務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いします」

 いっそこのまま意識を失って目が覚めたらベッドの上だったというオチにならないだろうか。
 痛む頭を押さえながら承太郎はそんな事を考えていた。あまりの展開で本当にぶっ倒れそうだ。

「……とりあえず朝食にする」
「かしこまりました」

 突っ込む所が色々あるが、ひとまず糖分不足の脳に栄養を与え正常な思考を取り戻す事にした。なにより腹が減っては戦ができぬ。

「どちらにお運びしますか?」
「……リビングでいい」

 食事の用意をするべく部屋を退出しかけていた仗助が伺いを立ててくる。仕事が立て込んでいる時はこの部屋で食べていたが、今日は新聞を広げながらリビングでゆったり摂っても良さそうだと判断した。

 勝手知ったる自宅の廊下だが、何かが違うと違和感を感じた。視線を動かしていると、ふと前を歩く仗助の背中で止まる。項の上でぴょこぴょこと揺れる襟足は今も健在のようだ。その愛らしい動きをじっとみつめていると気づいた事がある。

「(身長が同じくらい?)」

 数年前は目を合わせようとすると確実に下を向かねばならなかったのだが、己の視線の位置に後頭部や肩が難なく収まっている。当時は学生だったし、祖父の血筋を考えるとここまで背が伸びることになんら違和感はないのだが、あの子犬のように駆け回っていた姿がないのは少々さみしいな、と苦笑がこぼれた。

「こちらでお待ちください」
「……あぁ」
「本日の朝刊です」
「……あぁ」

 リビングに来ると即座に引かれた椅子へと腰を落ち着ける。自宅でこの扱いを受けるのは少々堅苦しい。祖父母の家ならば違和感はなかったのかもしれないが、純粋な日本育ちとしてはかなりムズ痒い。けれど文句を言う間もなく、仗助はキッチンへと入っていってしまった。

「お飲み物は、コーヒー、紅茶、ミルク、フレッシュジュースとございますが。どちらに致しますか?」
「コーヒー。ブラック」

 とにかく冷静になろう、と新聞を広げて即答すると沈黙が広がった。てっきり堅苦しい返事が返ってくると思っていたのに予想外だ。何かあったか?と顔を上げると、カウンターの向こう側で仗助が困ったような微苦笑を浮かべている。

「わたくしどもは基本的に意見を申し上げる事はないのですが」
「何だ?」
「このところ激務に追われておいでのようでしたし、あまり刺激の強いものをお飲みになるのはお勧め致しかねます。ですので、コーヒーをお飲みになる場合はミルクを入れてカプチーノになさるのがよろしいかと」

 その言葉に、そういえばこのところコーヒーを飲むと胸の辺りがムカついたな、と思い出した。どうやら彼の言う通り、刺激の強いブラックコーヒーに胃がやられていたかもしれない。

「…………なら、そっちで」
「かしこまりました」

 すんなり受け入れるのは癪に触るが、体調面では彼の言う事の方が正しいと判断して受け入れる事にする。変に片意地を張っても意味がないとも思ったからだ。
 新聞を広げつつちらりと盗み見をする。うつむき加減の顔は随分大人びた雰囲気を帯び、彼の父、つまりは祖父の若い頃の面差しが出ていた。その上、落ち着いた物腰と手際の良さに、本当に彼なのか?と未だ疑問が拭いきれない。最後に出会ってからほんの数年。その間にここまで変われるものだろうか?

「お待たせいたしました」

 物思いに耽りながらも文字を追うフリをしていると目の前にランチョンマットが広げられ、湯気を立てるカプチーノを始め、グリーンサラダにポタージュスープとチーズ、トマト、レタスを挟んだベーグルが並べられた。ふわりと広がる香ばしい香りに胃が空腹を訴えてくる。

「よくこんなに準備出来たな」
「こちらに何が常備されているか存じませんでしたので食材を持参いたしました」
「持って来た?」
「はい」

 朧げな記憶を辿れば冷蔵庫や貯蔵庫はほぼ空でろくなものはなかったはずだ。あったとすれば飲料水くらいで、新鮮な野菜などもってのほか。何より食事はほぼデリバリーやテイクアウトだった。けれど今朝は今に至るまでチャイムはなっていなかったはずだ。どこかで買ってきたかと思えばさらりと意外な答えが返ってくる。

「……作ったのか?」
「はい。お口に合えば良いのですが」

 事も無げに返事を投げ返され、ニコニコとした内心の読めない笑顔に思考が完全に停止しかかっている。本当に会わない間、彼は何をしていたのだろう?あまりに呆けすぎてしまったのか、首を傾げられてしまった。慌てて視線を外すとスープを引き寄せる。会った頃の彼からは手作りの食べ物など思い浮かばなかっただけに、味が気になった。スプーンで口に運ぶと、じわりと温もりが体中に広がり、なかなかに美味しい。

「いかがでしょう?」
「……悪くない」
「それはようございました」

 率直な感想を返すと満足げに頷いてキッチンへと戻っていった。道具の後片付けをするらしい、シンクで作業を始めている。その様子から食事の準備は終わったようだ。しかし、と承太郎は考える。

「お前は?」
「はい?」

 どうやら流水音で聞こえなかったようだ。手元に落としていた視線とともに顔を上げると首を傾げられた。

「食後のデザートですか?」
「は?」
「食後のデザートです。甘いもの、お好きでございましたね?」
「あ?あぁ」
「今お召し上がりにならなくても、三時にお出ししますので」
「そうか。いや、そうじゃなくて」

 思ってもいない方向へ話が振られて本来聞きたかった事を忘れてしまうところだった。自分の失態を心の中で毒づきつつ、もう一度聞きなおす。

「お前はもう食べたのか?」
「いいえ、博士の後で頂きます」
「?今食べればいいんじゃないか?」
「今ですか?」
「席はまだある。それに……一人で食うのは味気ない」
「……はい」

 先程までと打って変わって歯切れの悪い返事に眉を寄せる。何か引っかかることがあるのだろうか?
 鵜呑みにしたわけではないのだが、仗助の言葉をそのまま受け取ると、彼は『承太郎の執事』だと言った。あまり持っていない職業の知識でも『使用人』という立場で、『主』と食事を共にするというのは異例に当たることだと判断出来る。
 そこまで考えて仗助の表情を伺うとこの予想は凡そ間違っていないらしく、どう断ろうか、と悩んでいるように見える。

「…………」
「…………命令」
「はい?」
「命令だって言えば納得するのか?」

 面倒なことには違いないが、おそらく望む結果は表れるはずだ。まだ認めてはいないが、本人がその姿勢を崩さないのならばこちらも『主』としての振る舞いが必要となる。
 じっと動かず見つめあったまま沈黙が広がる。先に動いたのは仗助だった。

「……かしこまりました」

 僅かに歪めただけだった苦笑が深くなり、可の答えが返ってくる。洗い物の手を止めて皿に盛り付け始めた。腕組みをしながら準備が整うのをじっと待つ。さほど時間を要することなくトレイに食事を乗せてくると向いの席に腰を落ち着けた。

「お待たせいたしました」
「あぁ。いただきます」
「いただきます」

 改めて手を伸ばした朝食ごしにちらりと表情を伺う。さきほどまで浮かべていた苦笑は微塵もなくまた内心の読めない微笑に戻っていた。
 猫背気味だった背中はすっと伸び、がさつだった所作が洗練された動きに変わっている。『上品』の一言に尽きる動作はどこかで教育を受けたのだろうか。それにしたってここまで変貌するとは、と感嘆した。

 * * * *

 黙々と進む食事はそう長い時間ではないはずなのだが、よく知る人間の見慣れぬ雰囲気に飲まれて長く感じられた。最後のカプチーノに口をつけていると空になった食器が片付けられていく。このまま洗い物に入られるとまた声が届かずおかしな会話になってしまうと、承太郎は口を開いた。

「おい」
「はい?」
「座れ。いくつか聞きたい事がある」
「かしこまりました」

 シンクに食器を置くと素直に戻って来た。示した向かいの席に再び着くのを待って口を開く。

「まずどうやって入った?戸締りはしてあったはずだ」

 このありえない状況になる経緯を聞くつもりではあるが、いきなり核心を突くのは上策ではない。なにより自分の心の準備が間に合っていないし、うっかり聞き出して衝撃のあまり年長にあるまじき失態を犯しかねない。そんなわけで小さな疑問から片付けていくことにした。いくつか問答をしてる間に出来るだろうと思ったからだ。けれど……

「そちらの窓から」
「…………」

 そう言って指し示す窓にはなんら変化はない。けれど、承太郎は思いついてしまった。仗助のスタンドは『直す』能力を持っている。

「……割ったのか」
「いえ、ガラスの割れる音は睡眠を妨害する恐れがございましたので、壁を通過させて鍵を開けました」
「………………」

 思わず頭を抱えてうなだれてしまう。スタンドは本来、宿主を守り、助け、危害を加えるものを排除する為に存在するはずだ。まぁ、ある意味『助け』にはなっているが。
 あぁ、眉間の皺が濃くなりそうだ。

「それで?入った後は?」
「博士が寝ていらっしゃるのを確認しましたので、極力音を立てずに食事の準備に取り掛かり、ひと段落したところで書斎の片付けをさせていただきました。
 途中で、ホリィ夫人からカーテンを預かりましたので廊下の窓に掛けておきました」
「!」

 思わずリビングの入り口へと顔を向ける。そこから僅かに見える窓に白いレースの布が被っているのが見えた。以前、母がこの家を訪ねてきた時に言われた記憶がある。「廊下の窓にもカーテンを付けたらどう?」と。

「お気づきになりませんでしたか?」
「……あぁ」

 廊下を歩いていた間の違和感がようやく判明した。まさか言われるまで気づかないとは……失態を犯さないつもりがすでに犯していたようだ。乱れた内心を落ち着かせるべく一度大きく深呼吸をする。息を吐ききったところで再び顔を合わせた。

「……執事っつったか」
「左様でございます」
「何が出来る?」
「身の回りの事は一通り」
「……免許とか資格は?」

 一通り、とは言うが具体性に欠けている。聞き方を間違えたか、と別の聞き方をすると小さく頷いた。

「調理師、栄養士、理容師、鍼灸師を取得しました」
「……は?」
「運転免許は第一種の大型、大型二輪。他に自家用操縦士、一級小型船舶操縦士、1級海技士と取得しております」
「おい?」
「他にCPS検定と英語、フランス、ドイツ、イタリア、中国、ラテン、アラビア、ロシア、トルコ語を習得し、執事学校にも通いました」

 つらつらと並べられた内容に目眩が起こされる。これだけの試験をパスし、技術や語学を身につけてきているのならば、別人のように感じてもおかしくはないだろう。

「……どうしてそこまで?」
「博士の執事になる為です」
「…………誰に言われた?」
「はい?」
「誰の差金だって聞いている」

 最後に会った時は杜王町を守る為にも地元に密着した仕事を得るのだろうと思っていた。けれど彼は今、目の前に、アメリカに来ている。己の予想は大外れしたという事だ。けれど、こういうことになるには経緯があるはずだ。たとえば財団から依頼を受けたとか……
 質問を投げかけられた仗助は意外な事を聞かれたと思ったのか、少し目を瞠っている。それでもじっと答えを待っていると、ふわりと笑みが広がり静かに告げられた。

「自ら望んで決めた事です」
「嘘をつくな」
「何故嘘だと?」
「多方、じじい辺りに何か吹き込まれたんだろ?」
「そうですね、確かにきっかけはジョースター様でした」

 承太郎の眉が微かに跳ねる。『ジョースター様』。己の父親をそう呼ぶのか……どこまでも徹底した『執事』っぷりに胸のあたりがムカムカとしてきた。けれど、若い頃のようにすぐ激昂するほど子供でもない。じっと相手を睨めつけて言うべき言葉を探す。けれど見つけるより先に仗助が言葉を繋いだ。

「ジョースター様から聞かせて頂いた執事の仕事内容と私の希望が利害の一致を見せた結果、と申し上げます」
「利害だと?」
「はい」

 浮かぶ笑顔に変化はない。けれどその瞳が強い光を宿したように思う。

「……いいだろう、しばらくは置いてやる」
「ありがとうございます」
「認めたわけじゃないからな」
「はい、心得ております」

 釘を刺しても朗らかな笑みは少しも崩れなかった。こう言われるのも予想していたのだろうか。
 冷え切ったカプチーノを飲み干すと椅子から立ち上がり、リビングのソファへと移動する。ローテーブルに気分転換用の小説を何冊か積み上げておいたものを手に読書を開始した。こういったゆったりした時間は久しぶりだし、論文を仕上げた今はこれといって急ぐ仕事や用事はない。
 仗助の件はひとまず保留の形にはしたが、まだ体の内で燻るような気持ちが拭えない。叔父である彼を自分の執事にするなど、承太郎にしたらとんでもないことだ。何より、自分には『執事』という存在自体不必要であって、秘書としても働くつもりらしいが、これも必要ないと思っている。それでもこれ以上は何を言っても無駄なようだし、何かしら理由を作って追い出せばいい。
 そこまで考えをまとめた所でキッチンから水の音が聞こえてきた。洗い物を始めたのだろう。

「……」

 自分以外の気配を感じる家というのは久しぶりでどこか落ち着かないような、それでいて寛げるような複雑な気分になった。視線はきちんと文字列を追っているが、気がそぞろになって内容が頭に入ってこない。無意識の内に背後にいる存在が気になっているようだ。

「博士」
「……なんだ?」

 聞きなれた声で呼ばれ慣れない名称を投げかけられるとどうも反応が遅れてしまう。前のように名前で呼べばいいのに、と思ったが、今の彼を見ていると『さん』が『様』に変更される事を危惧して黙っておいた。

「本日の18時からピネ博士のリタイアメントパーティが開催されますが、お召し物はお決まりですか?」
「え?」

 何故今日来たばかりの仗助がそんな予定を知っているんだ。
 思わず振り向いた先では、苦笑を浮かべた仗助がカウンターから開封済の招待状を持ち上げて見せている。そういえば、ハイピッチで論文を進めていたのはそのパーティーに出席する為だったと思い出した。ピネ博士は長年海洋学に携わり、多くの書籍を出版し、次世代の学者の育成へ大いに貢献してきた人物だ。そんな大物の退職祝いというだけあって、有名ホテルのパーティー会場を貸し切っての立食形式で行われる。会場が会場なだけあってちゃんとした服装で行かねばならないのに、不測の事態ですっかり忘れていた。

「もしお決まりでないようでしたら、お選びしますが」
「……お前が?」
「はい。その間、博士はごゆっくり出来ますでしょう?」

 バツの悪さに泳がせていた視線を戻せば、オーダーを待つ犬のようにじっと見つめ返されていた。表情から内心が読みづらくはなったが、この辺りは以前となんら変わりないようだ。

「……任せる」
「かしこまりました。一緒にお部屋の掃除をしようと思いますが、何か留意点はございますでしょうか?」
「いや、特に触られて困るものもない」
「承知しました。それでは失礼いたします」

 優雅な一礼を残すと彼は言葉の通り承太郎の寝室へと向かっていった。その後ろ姿を見送って数秒後、承太郎は深いため息を吐きだしソファへともたれかかった。
 酷く調子が狂う。眉間を親指でぐりぐりと揉みほぐし、閉じていた瞳を開くと天井を薄らと透けさせながら闘神がこちらを伺っていた。おそらく無意識に呼び出してしまったのだろう。けれど、無表情なはずのその表情が心配そうに小さく歪められている。

「……大丈夫だ」

 そっと差し出した手を温度のない大きな手が握り返してくる。
 年を重ねるごとに変化が怖くなっていた。けれど目の前にいる自分の半身は変わらずにそこに居続けてくれる。その存在に安心を覚えてまぶたを下ろした。


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