第一章
その日悟空は旬麗と連れ立って城から程近い川辺に来ていた。「今日はお天気
も良いですし、お弁当を持って外へ参りませんか?」と旬麗の方から提案があ
り、無論それを悟空が断るはずはなく、目的地に到着した二人は木陰でのんび
りと腰を下ろしていた。
「だけど俺ってそんなに信用ないのかなー…まぁ部屋から出ないでおとなしく
してろ!って言われるよりこの方が断然イイけどさ。」
実は旬麗が悟空を誘って外出したのには然るべき理由がある。
何でも今年はこの国が建国されてからの節目の年に当たるそうで、本日は近隣
諸国から大勢の来賓を招いての記念式典が執り行われることとなっていた。そ
の為三蔵は、旬麗に日中は悟空と共に城の外へ行くよう告げたのである。それ
を悟空は、自分が万が一にも式典の進行の妨げになったりすることのないよう、
最初から城の外へ出してしまおうとの算段であると受け取ったらしい。
思いも寄らない悟空の言葉に一瞬瞳を丸く開いた旬麗は、やがて小さくクスリ
と笑ってみせた。
「何を仰るかと思ったら…国王様が悟空様を信用なさっていないなんて、そん
なはずがないじゃありませんか。国王様が外に出かけるように仰ったのは、悟
空様の御姿を来賓の皆様方のお目に触れられたくないからですわ。」
「だからー、それってお客さんに失礼があったら困るってことだろ?」
尚も不満そうに言い募る悟空に、旬麗は微笑んだまま首を横に振った。
「大切な宝物を、他の方にも欲しいと思われたら困るからですよ。」
数秒程『何を言われているかわからない』といった様子で小首を傾げていた悟
空だったが、旬麗の言葉の意味を理解した途端、ボン!と音のしそうな勢いで
未だ幼さの残る顔が真っ赤に染まった。駆け引きや計算といったものとは全く
無縁な、悟空の素直な反応に更に笑みを深くしながらも、旬麗の胸中は少々複
雑だった。
旬麗の言動は、決して悟空を茶化す為のものではない。諸外国の権力者に悟空
の存在を知られるということは、当人が思っている以上に様々な意味合いを含
んでいる。
三蔵は未だ正妃を迎えてはおらず、数多い夫人達への対応も至って淡白である
ことは周知の事実である。それ故三蔵という王は、良く言えば滅多なことで心
を動かされることなく如何なる時も冷静沈着、悪く言えば感情の起伏に乏しい
面白みのない人物として認識されている。その三蔵がこれほど別格の寵愛を向
けている存在がいると知れれば、諸外国の反応は大きく変わるだろう。一介の
侍女とはいえど王城にその身を置く者である以上、旬麗にもその程度の察しは
つくのだ。
そして願わくば、この清涼な雫のように澱みの無い心を持つ小さな主が、政治
的なやり取りの道具にされるようなことがあってほしくはないと、旬麗は切に
思っている。
「旬麗どうしたの?具合でも悪い?」
ふと気が付けば、気遣わしげな表情をした悟空が、じっとこちらを覗き込んで
いて。どうやら知らず知らずのうちに、深刻な顔つきになってしまっていたら
しい。気を取り直すように、旬麗はやや大袈裟に首を振ってから再び笑みを形
作った。
「いいえ。あまりにいいお天気なので、少しぼんやりしてしまったようです…
それより、少し早いですがお昼にしませんか?悟空様のお好きな物を沢山こし
らえて参りましたので。」
「マジで?やったー、だから旬麗好きなんだ!」
弁当を詰めてきた籠を目の前へと差し出して見せれば、屈託のない笑顔が返っ
てくる。旬麗は穏やかな表情で目を細め、籠の蓋を開けて昼食の用意を始めた。
旬麗の心尽くしの弁当を堪能し、のんびりと休憩を取った後。木陰では賑やか
な二人の声が響いていた。
「いけません悟空様、お風邪を召しますっ」
「ヘーキヘーキ。俺丈夫だし、こんなに暖かいんだしさ。」
陽気が暖かなので泳ぎたいと言い出した悟空を、旬麗が懸命に引き止める。
しかし説得も虚しく、手早く衣服を脱いだ悟空は勢い良く川の中程まで入って
いってしまった。暫し呆気に取られた様子で放心していた旬麗だったが、やが
てあきらめの溜め息をついてから悟空の脱ぎ散らかした衣服を拾い始めた。
一方、旬麗の心配など何処吹く風で川遊びを満喫していた悟空だったが、ふと
自分達以外の気配があることに気付き、川岸へと顔を向けた。
川岸には一人の男が立っていた。年齢は三蔵より少し上、といったところだろ
うか。艶のある黒髪をした長身の、大変整った面差しの男性だった。
「これはこれは…随分と元気のいい人魚がいたものだ。」
悟空と視線を合わせた男性はよく通る落ち着いた声でそう言い、小さく微笑っ
てみせた。悟空は視線を外さぬまま、男をみつめ返した。
「アンタ誰?」
不躾とも取れる悟空の問いかけに気分を害した風もなく「只の通りすがりだ」
と答えた男性が、突如何かを発見した様子で悟空の顔を凝視する。悟空が不可
思議そうな表情で再び口を開こうとした、その時。
「あぁ!」
旬麗の叫び声が届き、二人が同時にそちらを振り返る。
「どうしましょう、お召し物が…」
旬麗は上空を仰ぎ見て途方に暮れている。どうやら悟空の衣服が風で舞い上が
り、木の枝に引っかかってしまったらしい。思いの外高く飛んでしまったよう
で、とても女性の旬麗では取ることが出来そうにない。
「待ってて旬麗、今…」
悟空が川岸に戻ろうとするより早く、男性は動き出した。足早に問題の木の下
へと歩み寄った男性は、実に俊敏な動作で木に登り、あっという間に悟空の服
を取って地上に戻って来た。
「まぁ…ご親切にありがとうございました。」
男性から悟空の衣服を手渡され、旬麗が深々と頭を下げる。男性は「気にする
ことはない」と短く答え、そのまま立ち去ろうとした。
「あ…ありがとうっ、アンタの名前は?」
遠ざかっていこうとする後ろ姿に、悟空が咄嗟に声をかける。男性は顔だけで
悟空を振り返った。
「俺は焔という。お前の名は?」
「俺は、悟空。」
「悟空か…覚えておこう。」
口許に微かな笑みを刻んだ男性───焔は、今度こそ川岸から去って行った。
その夜、悟空はいつものように中庭の木に登り、見るともなしに蒼く輝く月を
眺めていた。式典は恙無く終わったらしいが、その後の処理も色々と忙しいの
だろう。まだ三蔵の訪れはない。木の幹へと背中を預け、悟空は小さな溜め息
を漏らした。
「どうした、昼間とは打って変わって静かじゃないか。」
不意にそんな風に声をかけられ、悟空が驚いて眼下に視線を向ける。
「焔…」
急いで木から下りた悟空は、金の瞳を丸く開いて目の前に立つ男を見上げた。
「何でここにいんの?あ…そっか、焔は三蔵のお客さんなのか。」
ようやく合点がいったという様子で、悟空は一人うんうんと大きく頷く。前後
の状況を照らし合わせた結果、悟空は焔を諸外国からの招待客の一人であると
判断したらしい。社交辞令や上辺だけの作り笑顔といったものはカケラもない
悟空の反応に、焔の秀麗な顔には柔らかな笑みが滲んだ。
「こちらこそ、まさかこのような形で再会するとは思わなかった…お前はこの
城で暮らしているのか?」
「うん。少し前に、三蔵に連れてもらって来てからね…って、焔ってばお客さ
んなんだから、偉い人なんだよな?だったら俺が呼び捨てなんかしてちゃダメ
だよな。ゴメン。」
ふとそのことに考えが至ったらしく、悟空がペコリと頭を下げる。焔は笑みを
滲ませたまま、短く首を振ってみせた。
「いや。権威があるのはあくまで俺の肩書きであって、俺自身ではないからな。
別にお前は普通に話してくれて構わん。」
焔の返答に一つ大きな瞬きをしてみせてから、悟空は小さく声を上げて笑った。
「?何かおかしなことを言ったか?」
訝しげに問い掛ける焔に、悟空は尚も笑ったまま首を振った。
「ううん…ちょっと思い出したことがあって。俺が初めてこのお城に来た時、
三蔵も同じようなこと言ったんだ。『国王は役割で名前じゃないから、お前は
三蔵でいい』って。そう思うと、焔と三蔵ってちょっと雰囲気が似てる感じが
するな。」
「ほう…堅物で有名なあの王が、な。」
何処か面白がっているような口ぶりでそう言った後、表情を改めた焔は長身を
屈め悟空の顔を間近から覗き込んだ。
「昼間出会った時はまさかと思ったが…本当にこの瞳の持ち主にお目にかかれ
る日が来るとはな。冴え冴えとした月明かりに映える、黄金の色だ…」
静かに伸ばされた焔の手が、悟空の頬に触れようという寸前で、
「悟空───!!」
その場の空気を切り裂くような鋭い一声が飛ぶ。二人が声の方を振り返れば、
そこには厳しい表情で仁王立ちになっている三蔵の姿があった。
「三蔵!」
三蔵の姿を認めた悟空は、満面の笑みで呼びかける。しかし三蔵はそれには応
えず、険しく柳眉を寄せたまま二人の元へと歩み寄った。
「失礼。焔太子、これは私の身内の者ですが…何かご無礼がありましたでしょ
うか?」
自らの背後へと悟空を庇う形で、三蔵が焔の前に立つ。一応は言葉での体裁を
保ってはいるものの、憤りを隠そうともしない三蔵の反応に、焔は軽い苦笑い
を漏らした。
「とんでもない。月夜に誘われての散歩でたまたまお会い致しまして、話相手
になって頂いていたところです。あまりに朗らかで愛らしい御方だったので、
すっかり和んでしまいました。」
対する焔はあくまで慇懃な姿勢を崩さない。そうなると三蔵としてもこれ以上
深く追求するわけにもいかず、ギリリと奥歯を噛みしめて黙るより他なかった。
焔は悠然とした笑みを見せ、ごく自然に三蔵の脇から悟空の手を取った。
「今宵はこれにて失礼。それでは、いずれまた。」
静かな声でそう告げた焔は、まるで貴婦人に対して振舞うかのような恭しい仕
草で、悟空の手の甲に口づけを落とした。
「…!」
完全に不意を突かれた形になった三蔵が紫の瞳を見開く。しかし悟空は全く頓
着のない様子で、歩み去る焔に向かい「おやすみ、またなー」と手を振った。
焔の背中が完全に見えなくなった後、三蔵がクルリと悟空の方へ向き直った。
「さ…三蔵、何か怒ってる…?」
音がしそうなくらい剣呑とした眼差しを向けられて、思わず悟空が及び腰にな
る。三蔵は無言のまま腕を伸ばし、まるで荷物か何かのように悟空の身体を肩
へと抱え上げた。
「ちょっ、何すんだよ三蔵!俺一人で歩けるって、下ろせってば!!」
逆さ吊り状態にされた悟空は、力の入らぬ手で三蔵の背中をポカポカと叩く。
三蔵は激しく喚くその声に一切耳を貸さず、黙々と悟空の部屋へ足を進めた。
広い寝台の上にドサリと無造作に放り出され、悟空が「ギャッ」と声を上げる。
寝返りを打って体勢を立て直した悟空が口を開こうとする前に、三蔵は半ば圧
し掛かる形で小柄な身体の上に覆い被さった。
「…ったくテメェは、どうしてそういつまで経っても警戒心のカケラもねぇん
だ!?初対面の相手に調子良くヘラヘラしてんじゃねーよ、バカッ」
「誰もヘラヘラなんてしてねぇだろっ、それに初対面じゃねぇもん…昼間川で
一度会ったんだから。」
あまりに一方的な三蔵の物言いに、悟空も負けじと声を荒げて反論する。怪訝
そうに瞳を眇める三蔵に、悟空は昼間偶然川辺で焔と出会ったこと、自分の衣
服が風で飛ばされてしまい旬麗が困っていたところを助けてくれたことを、手
短に語って聞かせた。悟空の説明を聞いた三蔵は不本意この上ないといった表
情でチッと舌打ちを漏らした。
何という間の悪い話だ。悟空という存在を秘密裏にしておきたかったからこそ、
わざわざ今日という日を選んで外出をさせたというのに。しかもあの男は、明
らかに悟空に興味を示している。他の誰にわからなくとも、三蔵にはそれがわ
かる。
「それであの男は…」
「だぁ~~もぅ~~っっ、三蔵ってば!」
更に問いを重ねようとした三蔵を、悟空が強い調子で遮る。思わず気圧された
三蔵が視線を下ろせば、悟空は子供らしい丸みを残す頬をプゥ…ッと膨らませ、
上目遣いに三蔵を睨んでいた。
「何で俺達さっきから全っ然関係ないヤツの話ばっかしてんの?…何日かぶり
で、やっとまともに顔見られたのに…」
首に両腕を回し三蔵の身体を引き寄せた悟空が、甘えるように肩口に顔を埋め
る。ハッと我に返った三蔵は、悟空の身体を柔らかく抱きしめ返した。
式典の準備や来賓を迎える為の諸々の手配等で、それこそこの一月程の三蔵は
正に目の回るような忙しさだった。無論悟空との時間など、ゆっくり取れるは
ずもない。だからこそ三蔵自身もまず真っ先に、この唯一人に会いたい一心で
この部屋を訪れたというのに。悟空の言うとおり、これでは全く本末転倒だ。
そっと悟空の顔を上げさせ、額に、頬に、目許に、軽いキスを落とす。
少々バツが悪そうに「悪かった」と告げれば、つい先刻まで拗ねていたその顔
は、小さな花が綻ぶようなはにかみがちの笑みに変わった。
「色々忙しくて大変だったね。お疲れ様。」
労わるように眩い金の髪を優しく梳いた悟空は、目の前の恋人に心からのキス
を送った。
ひとしきり互いの熱を分け合った後。肩口に頭を預けてまどろみかけている悟
空に、三蔵は再び焔について問いかけた。今度は先程のような嫉妬めいた感情
からではなく、王としての客観的な視点から、それを知っておく必要があると
判断したからである。
「んーと…確か…『この瞳の持ち主にお目にかかれるとは』って…言ってた。
俺の瞳の色って、余所の国の人が見ても珍しいんだ…ね…」
最早眠気の限界だったのだろう。途切れ途切れにそう言い終えた後、悟空は完
全に寝入ってしまった。一方の三蔵はといえば、明らかに動揺した様子で暫し
息を詰めた。
おそらく焔の言葉は悟空が言ったような、ただ単純に『金色の瞳が珍しい』と
いう意味ではない。もしやあの太子は、かつて観世音菩薩が三蔵に語った『金
晴眼の持ち主の人智を越えた能力』について、多少なりとも知っているのでは
ないだろうか。
改めて腕の中の寝顔を見下ろせば、その表情はいとけないばかりで。
(あの塔から連れ出した瞬間から心に決めていたこと。こいつは何処にも行か
せないし、他の誰にもやらない。)
決意を新たにした三蔵は、小さな身体をしっかりと抱きしめ直し、自らも瞼を
閉じたのだった───。
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