それはもう只々、理屈も何もかも飛び越えた、無意識の内の衝動としか言いよ
うのないものだった。街中で偶然擦れ違った相手の『声』が耳に届いた途端、
咄嗟にその二の腕を掴み、半ば強制的にこちらを向かせてしまったなどという
ことは───。
一方、腕を掴まれた少年の方はといえば、不意打ちの出来事に茫然と目の前の
相手を見上げるばかりだったのだが、「おい、お前…」と形の良い唇からその
『声』が発せられた瞬間───まるで見えない力に弾かれたかのように、小柄
な身体がビクリと震えた。
(…この…『声』…)
金の光を放つ丸い瞳が、零れ落ちそうなほど見開かれる。少年のその反応に相
手も口をつぐむ。二人は初めて見る互いの瞳を、言葉も無いままにひたすらに
みつめ合っていた。
「オイ三蔵…お前さん、一体何やってるワケ…?」
腕を掴んでいる方の人物───三蔵の連れらしき赤みがかった長髪の青年が、
呆れと困惑が入り混じったような声で疑問を投げかける。しかし明らかにそこ
だけ空気の層が異なっているような処に立つ三蔵の耳には、外部からの声は届
いていないようだった。
暫しの時を置いて───三蔵を真っ直ぐに見上げている金の瞳から、何の予告
も無しに、スゥー…ッと一筋の雫が流れ落ちた。
「…あ…れ…?何…だろ、オレ…?」
何故自分が泣いているのかわからないといった表情をしている少年の頬を、ぽ
ろぽろと止め処も無く涙は零れていく。一瞬面食らったかのように紫の瞳を軽
く開いた三蔵だったが、二の腕を掴んでいた手を離し、途方に暮れたように泣
き続ける少年の頬をそっと両手で包み込んだ。
「え…っ」
戸惑いの声を上げる少年の方へと屈み込むようにして、三蔵の秀麗な顔が近付
いていく。そして───まるでそうすることが当然なのだとでもいうように、
丸みを帯びた頬を伝っていく涙の雫を、三蔵は自らの唇で掬い取った。
「…っ」
あまりに突然の、しかも全く思いも寄らなかった事態に、小さな唇から声にな
らない声が漏れる。しかし当事者である彼よりもっと衝撃を受けていたのは、
三蔵の連れ二人だった。先刻の長髪の青年が、動揺を隠し切れない表情で傍ら
の友人を振り返る。もう片方の青年の穏やかな翡翠色の瞳にも、ありありとし
た驚愕の色が浮かんでいた。
三蔵はその華やかな容姿故に、性別を問わず万人の関心を引き寄せずにはおか
ない存在である。しかし当の本人はといえば、必要以上に他人に馴れ馴れしく
されるのが大が付くほど嫌いで、友人である二人にさえ彼の方から触れてくる
ことは皆無に等しい。だからこそ、全くの初対面である相手の腕を自ら掴み、
しかも幾ら相手が泣いているとはいえ、その涙を止めるように頬に口づけを落
とすなどという目の前の光景は、本来の彼のスタンスからすれば決してありえ
ないことなのだ。
いつどのようなタイミングで声をかけたらよいか躊躇していた二人だったが、
いつまでもこの状態を黙認しているわけにもいかない。何しろ彼らはそこいら
の普通の青年とは抱えている状況が違う。公衆の面前でこれだけ目立つ行為を
していれば、行き交う人々の目に止まるのも時間の問題である。
「三蔵…無粋なことを言うようで恐縮なんですが、そのぐらいにしたらどうで
すか。相手の方も驚いているじゃないですか。」
頃合いを見計らって、翡翠色の瞳をした青年がやんわりと声をかける。ようや
く現実に立ち戻った三蔵の眼差しが、目の前の相手に向けられる。少年は瞬き
すら忘れたように、完全に硬直した状態で立ち尽くしていた。
「…嫌だったか?」
静かな声で、ぽつりと落とされた一言。深い紫の瞳に正面から覗き込まれて、
あどけなさを残す丸みを帯びた頬がほの紅く染まった。
「…ううん…ただ…ビックリした、けど…」
ぎこちなく首を振った彼が、途切れ途切れに言葉を繋ぐ。見据える視線はその
ままに、三蔵が両頬を包み込んでいた手をそっと外した。
「俺は、玄奘三蔵…お前の名前は?」
「悟空…孫、悟空。」
いきなりの展開に戸惑いながらも、少年───悟空は素直に答える。三蔵は軽
く頷いた。
「お前、何処に行くところなんだ?」
「何処って…家に帰る途中だけど…」
「よし、じゃあ家に電話入れろ。『夕飯を外で食っていく』ってな。」
悟空の反応などお構いなしに、三蔵はマシンガンから弾丸を繰り出すような勢
いで会話を進めていく。悟空は再び首を横に振った。
「ウチ…今、親いないから…」
悟空のその一言で、一方的な提案は決定事項となった。もう一度「よし」と頷
いた三蔵は、悟空の肩を引き寄せてそのまま歩き出そうとし、ふと背後を振り
返った。
「何ボーっとしてんだ、行くぞ。」
連れの二人に短くそう声をかけた三蔵は、前に視線を戻して歩き始めた。自分
のペースでどんどん歩いていく三蔵と、何が何やらわからぬまま、半ば三蔵に
引き摺られるようにして進む悟空の後ろ姿を瞳に映しながら、長髪の青年が口
を開いた。
「八戒さん…どう思うよ、アレ…?」
何とも言い難い色合いを帯びたその声に、傍らに立つ八戒もまた、大きく肩を
竦めてみせた。
「さぁ…?とりあえず、滅多にお目にかかれる光景じゃないことだけは確かで
すね…さてと悟浄、僕達も急ぎましょうか。あの人、気が短いですから。」
小さな苦笑いを口許に浮かべた八戒は悟浄を促し、二人の後を追うように足を
踏み出した。
全く口を挟む余地もないまま、如何にも値の張りそうな外車に乗せられ、これ
また今までに一度も足を踏み入れたことのないような高級ホテル内の中華料理
店に連れて行かれ、その中でも更に特別待遇らしき夜景を見下ろせる個室で、
それまで全く面識のなかった三人と円卓を囲むに至り、悟空は只々目を白黒さ
せて辺りに視線を巡らすばかりだった。不安を隠せない様子の悟空に、八戒は
穏やかな笑顔と共に自分達についての簡単な自己紹介をし、三人が同じ事務所
に所属するモデル仲間であることを語って聞かせた。とりあえず今向き合って
いる相手がどういう人物なのかを納得し、温かな料理が円卓に並べられる頃に
は、悟空の緊張もずいぶんと和らいだようで、自分が現在高校三年生であるこ
と、つい最近父親が海外勤務となり母親はついて行ったが、自分は受験等の関
係もあって日本に残り、一人暮らしをしていることなどを語った。
「そっかぁ、モデルの仕事してる人達なんだ…そうだよなぁ、普通のサラリー
マンや学生にしてはカッコよすぎだもんな、みんな。」
ようやく一安心したらしい悟空が、遠慮なく料理に箸を伸ばしながら一人ウン
ウンと頷く。それを聞いた悟浄は茶目っ気たっぷりのオーバーアクションで肩
を落としてみせた。
「えぇ~?おチビちゃん、俺達のコト知らないの?結構それなりにカオ売れて
るつもりなんだけどなぁ…ちょっとショック。」
「あ、あのゴメン、俺ほとんどファッション系の雑誌とか見ないから…」
悟浄の言葉を真に受けた悟空が、焦った表情で懸命に説明をする。堪えきれな
いように肩を震わせて笑う悟浄の後頭部を、三蔵が容赦の無い力で「ベシッ!」
と叩いた。
「何でも真に受けちまうようなガキをからかってんじゃねーよ…テメェも別に
謝るこたぁねぇんだよ、知らねぇならその方がいい。ギャーギャー騒がれても
うるせぇだけだ。」
注意ともフォローとも判じ難い三蔵の言葉に、それでも悟空はコクリと頷く。
三蔵がクシャリと前髪を撫でると、悟空はホッとしたように小さく微笑った。
和やかな空気の中食事は終わり、カードで支払いを終えた三蔵は、来た時と同
様に悟空の肩を引き寄せ口を開いた。
「俺はコイツを送って行く。お前らはお前らで好きにしろ。」
「え…い、いいよ、近くの駅さえ教えてもらえば、電車で帰れるし…」
慌てて大きく首を振る悟空を、三蔵が軽く横目で睨む。湧き上がる笑みを押し
殺しながら、八戒が微かに首を振った。
「いいんですよ、僕らのことなら気にしなくて。どちらにしても、バーラウン
ジにでも行って飲み直すつもりでしたから。三蔵はね、どうしても貴方を玄関
先まで送り届けないと心配で仕方ないらしいですから、このまま黙って送られ
てあげて下さい…ね?」
「そうそう。帰りのアシ代ケチッたくらいで後々まで恨まれちゃかなわねぇし
さ、今夜はここで解散っつーことで。」
八戒のみならず悟浄にまで明るい口調ですっぱり言い切られてしまっては、悟
空には反論の余地が無い。結局悟空は二人に礼を述べ、三蔵と共に階下に向か
うエレベーターに乗ったのだった。エレベーターの扉が閉まるまで笑顔で手を
振っていた悟浄が、二人の姿が視界から消えたと同時に大きな息を一つ吐き出
した。
「しかしまぁ、珍しいこともあるもんだよなぁ…あそこまで露骨に態度に出す
とはねぇ…」
「珍しいどころか、僕らが知る限り初めてじゃないですか?一体何が三蔵の心
の琴線に触れたんですかねぇ…確かに素直で可愛らしい子でしたけど。」
「あの様子だとそのまま『お持ち帰り』とかアリだったりして」
「制服の子相手にそれをやったら犯罪ですよ。」
明らかに面白がっている声色の悟浄に、八戒がチラリと視線を投げる。目を合
わせた二人は、どちらからともなくクスリと笑った。
茶化し気味に言葉のやり取りをしていた二人だったが、無論三蔵がそんな心づ
もりではないことはわかっている。そもそも三蔵はそちらの方面への執着が極
めて乏しいし、ちょっと目に止まった相手をつまみ食いなどということをする
タイプでもない。第一、彼の場合黙っていても幾らでも女性は寄ってくるのだ
から、そんなことをする必要性すらない。だからこそ、彼が自らアクションを
起こしたということは、本気で相手を気に入ったということなのだ。
「さて…今頃お二人さんはどんな具合かねぇ?」
最上階のバーラウンジへと向かうエレベーターを呼び出しながら、悟浄は窓の
向こうへと視線を向けて呟いた。
再び三蔵の愛車に乗ることとなった悟空は、行きとは違いかなりリラックスし
た様子で、自分の普段の生活や学校のことなどについて話した。何しろ先刻は
全く状況が掴めぬまま、助手席に乗せられてしまったというのが真相で、幾つ
かされた質問に「うん」とか「はい」とか答えるのが精一杯だったのだ。一方
の三蔵も愛飲の煙草をくゆらしながら、モデルという仕事に就いた経緯などを
言葉少なに語って聞かせた。本当のところをいえばモデルなどという派手派手
しい職業は三蔵の好みではないらしいのだが、何でも彼の伯母にあたる人物が
様々な事業を手広く展開している実業家らしく、彼らが所属しているモデル事
務所もその伯母が経営しているもので、自分でも知らぬうちに巻き込まれてし
まった、ということらしかった。
「何で?スゴイ仕事なのに。」
「あぁ…?」
不思議そうに小首を傾げる悟空に、三蔵は不機嫌そうに瞳を眇めてみせる。そ
れでも悟空は臆することなく、そのまま会話を続けた。
「だってさぁ、あんたの写真見て『カッコイイ』とか『ステキ』とか思って、
楽しい気持ちになる人がいっぱいいるってことだろ?人に『楽しい』って気持
ちを分けられる仕事なんて、世の中にそんなに沢山ないよ?それってばスゲェ
ことじゃん。」
計算も含みもない言葉と共に向けられたのは、あまりに開けっ放しな、花が零
れるようなその笑顔。「モデル?すごーい」などという軽薄さの極みとも言え
る賛辞の言葉は、それこそキリがないくらい聞かされ続けてきている。その度
に「馬鹿馬鹿しい」と反感を覚えずにはいられなかった自分だというのに、こ
れほど真っ直ぐな眼差しを向けられると、ほとんど惰性でやっているこの仕事
にも、少しは意味があるんじゃないかなどと思えてくる。それは今までに体験
したことのない、何とも不思議な気持ちだった。
よくある住宅街の、これまたよくある似たような造りの家ばかりが続く通りの
一角で、車が止まった。三蔵は自らも車を降り、本当に玄関先まで悟空と共に
歩いて行った。
「…今日はどうもありがとう、ご馳走様でした。じゃあ、おやすみなさい。」
三蔵の方へ向き直り、ペコリと頭を下げた悟空が顔を上げる。上目がちにこち
らを覗き込んできた金の瞳と紫の瞳が絡み合ったのと同時に、三蔵が不意に手
を伸ばした。
「え…っ」
拒む間さえ与えられず、すっぽりその腕に抱き込まれて。瞬く間に三蔵の秀麗
な顔が近付き、僅かに開かれた小さな唇を塞いだ。
「…ん…ふ…ぅ…っ」
仕掛けられたのは「おやすみの挨拶」といった生易しいものではなく、口腔を
探る濡れた音が耳の内側に響くような、紛れもない大人のキス。全く持って経
験値の足りない悟空は、一方的に翻弄されるより術が無い。散々に口腔を嬲っ
て三蔵がようやく唇を離した時、全身で息を繰り返す悟空は、歯の根も合わな
いほどガチガチに震えていた。その様子に相手が自分の想像以上に無垢だった
ことを悟った三蔵が、淡く滲んだ目許にそっと唇を押し当てた。
「…驚かせて、悪かった。」
そのまま額や頬に宥めるようなキスが何度か繰り返され、「また連絡する」と
三蔵が短く呟く。悟空が微かに頷いたのを確認した後、今度はチュッと音を立
てて軽いキスを唇に落とし、三蔵は悟空の自宅を後にした。三蔵の姿が見えな
くなるまで何とか緊張感を保っていた悟空だったが、車が走り去ったのと同時
に、へなへなとその場に座り込んでしまった。
何ともめまぐるしい、嵐のような一日だった。学校からの帰り道、友達に別れ
の挨拶をした後、いきなり見知らぬ男性に腕を掴まれて。その『声』を聞いた
ら何故か、不覚にも往来でボロボロ泣いてしまって。全く初対面の相手に唇で
涙を拭われて、でもそれを少しも嫌だと思わなかった自分がいて。
一緒に夕飯を食べて、送ってもらって、言われるままに携帯電話の番号を交換
し合って。別れ際に予告も無しに本気のキスを仕掛けられて。つい先刻まで触
れ合っていた唇の熱を思い出して、悟空の体温が一気に上がる。長い溜め息を
吐き出した悟空は、フラフラとした足取りながらも立ち上がり、余韻に震える
指先で玄関の鍵を開けた。
軽くシャワーを浴び終えた悟空は、沈み込むようにベッドに突っ伏した。いつ
までも三蔵の熱が離れていかないような気がして、神経は疲労感を訴えている
というのに中々寝付くことが出来ないまま、夜は更けていったのだった。
次の日学校に行った悟空は、その方面の話題に詳しそうな友人に三蔵のことを
尋ねてみた。友人は「お前がそーゆーの興味持つのって珍しいよな」と言いな
がら、持っていた雑誌を見せて色々と説明をしてくれた。その雑誌には三蔵と
共に悟浄や八戒も載っており、彼らは悟空が漠然と想像していた以上に有名人
であることを知った。
最新のファッションに身を固めて写っている三蔵は、正に「華やか」という言
葉がぴったりで。自分がこの人と並んで歩き、同じテーブルを囲み…その腕に
抱き寄せられてキスをしたと言っても、おそらく目の前の友人は到底信じない
だろう。悟空自身、こうして明らかに別世界の人という感じの彼の姿を見てい
ると、昨夜のことは全て自分一人が見ていた幻だったのではないかという気が
してくる。
だがそれが幻でなかった証拠は、明確な形となって悟空の元へ返ってきた。
昼休みに携帯をチェックすると、『何時に終わる?』との三蔵からのメールが
入っていた。慌てて返事を送るとまもなく『迎えに行く』という実に簡潔な一
言が再度送られてきた。そして───…
その言葉に偽りはなかった。授業を終えた悟空が半信半疑で校門を抜けると、
昨夜乗せられた三蔵の愛車が正面に横付けの形で止まっていたのである。
悟空が小走りに駆け寄ると、中が見えぬように加工された暗めの窓が僅かに開
き、「乗れ」という三蔵の声が聞こえた。学校の真ん前にこんな目立つ外車が
止まっていては、それこそ注目の的である。慌てて悟空が助手席に身体を滑り
込ませるのと同時に、車は通りへと走り出した。
「あ、あの…ゴメン、待たせた?」
気遣わしげに隣りから顔を覗き込んでくる悟空に、三蔵は軽く首を振った。
「いや…2~3分てとこだ。」
「そっか…あのさ…これから、何処行くの?」
「仕事。」
「え…っ?」
三蔵の短い返答に、悟空が訝しげな声を上げる。しかし三蔵はそれ以上の説明
をしようとはしなかった。
車は四十分ほど走ったところで、如何にもアーティスティックなデザインのビ
ルの駐車場へと入っていった。その一画に駐車し、三蔵が車から降りる。それ
に促されるように悟空も車を降りたが、此処が何処なのか、何をどうしたらい
いのか皆目見当も付かない。運転席側から廻り込んで来た三蔵が、ぼんやりと
立ち尽くす悟空の肩を力強く引き寄せた。
「呆けた面して突っ立ってんじゃねーよ、行くぞ。」
そのままエレベーターに乗り、辿り着いたのは撮影用のスタジオらしき場所。
悟空は三蔵が本当に自分を仕事場に連れて来たのだとようやくわかった。
「どうも三蔵さん、よろしくお願いします…そちらは?」
三蔵の姿を認めて歩み寄ってきたスタッフらしき男性が、明らかに場違いな制
服姿の悟空にチラリと視線を向ける。三蔵は男性を見下ろすようにして、その
視線を一蹴した。
「俺の連れだ。何か問題があるか?」
冷たい紫の瞳を向けられて、男性はビクリと大きく身体を竦ませる。焦った様
子で「と、とんでもない」などと口篭もりながら、男性は元の作業へと戻って
いった。「フン」と馬鹿にしきった表情で短く笑った三蔵は悟空へと向き直り
「その辺に適当に座ってろ」と告げて、スタッフの集まっている方へと歩いて
行った。三蔵の指示通り、悟空はなるべく邪魔にならぬよう、スタジオの端の
方に置かれたパイプ椅子へと腰を下ろした。
様々な作業が着々と進められていく様子を、悟空は興味深げに眺めていた。
三蔵は無論平素から充分端正な容姿をしているが、こうしてスタイリスト達の
手が加えられ、撮影用の衣装を身に纏った彼を目の当たりにすると、「溜め息
が漏れる」というような表現は正にこういう人の為にあるのだと、そんな感慨
を覚えずにはいられなかった。
どのくらいの時間が過ぎたのか。撮影の状況を熱心に見入っていた悟空には、
もはや時間の感覚が失われつつあった。「悟空」と呼ばれ、ハッと我に返る。
三蔵からきちんと名前を呼ばれたのはこれが初めてで、たったそれだけのこと
に、自分でも滑稽なくらい悟空の胸は高鳴った。
「な、何…?もう終わり?」
「いや、衣装替えしてもう1パターン撮る…退屈か?」
悟空の横にあった椅子にドサリと腰を下ろしながら、三蔵が問い掛ける。悟空
は何度も大きく首を振った。
「ううん、俺こーゆーの見たの初めてだし、すっげぇ楽しいよ?今日さ、クラ
スの友達に三蔵さん達が載ってる雑誌見せてもらってさ…あそこに出てるのは
本当に何枚かだけど、その為にはこれだけの時間がかかって、これだけの人の
手が入ってるんだな…知らなかった。」
「…『さん』は要らねぇ。」
子供のような笑顔で答える悟空に、三蔵がぽつりと呟く。その言葉に、悟空の
丸い瞳が不可思議そうに開いた。
「えっ…でも…」
「俺はお前を『悟空』って呼んだ。だからお前も『三蔵』でいい。今度さん付
けなんかしたら、返事しねぇぞ。」
そうは言われても、自分と三蔵では年齢差もかなりあるし、自分はそこらにい
る只の高校生で、目の前の人は明らかに特別な『選ばれた人』だ。本来ならそ
んなことがまかり通るはずがない。しかし。一緒にいた時間はごく僅かだが、
悟空には三蔵の人となりというものが何となく掴めつつある。自分から言い出
した以上、三蔵はその意見を曲げることはないだろう。
「三…蔵…?」
たどたどしくも悟空の唇から紡がれた自分の名に、三蔵は満足げに頷いた。
「それでいい…この撮影が終わったら夕飯だ。何が食いたいか考えとけよ。」
立ち上がりざまにこげ茶色の前髪をクシャリと撫でて、三蔵は再び撮影現場へ
と戻っていく。「それでいい」と呟いた時に向けられた柔らかな瞳の色が、悟空
の脳裏にひどく鮮明に焼き付いて離れなかった。
その日以降、お互いの都合が合わない時以外はほぼ毎日、三蔵は悟空を連れて
歩いた。仕事が終わった後は食事に行ったり、時にはお互いの家を行き来した
りしながら、二人は共に過ごす時間を積み重ねていった。三蔵は時折気まぐれ
のように悟空を抱き寄せたり、戯れのようなキスを仕掛けてきたりすることも
あったが、最初の時にひどく悟空を怯えさせてしまったということが強く印象
に残っているようで、無理強いをすることは決してなかった。
そんな風にして一月が過ぎようとしていたある日のこと。悟空はある撮影スタ
ジオのロビーで偶然、悟浄と会った。悟浄は気さくに手を振って悟空の方へと
歩み寄ってきた。
「よぉ悟空、今日は三蔵サマの撮影は見てねぇの?」
「久しぶり、悟浄…うん、今日の撮影、セットとか大掛かりで、居ると邪魔に
なっちゃいそうだからさ…こっちに出てきた。」
三蔵の仕事に付き合ううちにすっかり悟浄や八戒とも顔見知りになり、今では
名前を呼び捨てし合える仲となっていた。人の好き嫌いが激しいことで有名な
三蔵が毎回同じ人物・しかも少年を連れ歩いているということは瞬く間に噂と
なり、本人の預かり知らぬところで悟空はこの業界の、ちょっとした有名人と
なっていた。今や三蔵と仕事をしているスタッフで、悟空の存在を知らない者
はいない。悟空の隣りに腰を下ろした悟浄が、とある物に気付いて指差した。
「おチビちゃん、ソレ何?」
悟浄が指し示した物は、少し小ぶりのステンレス製のポット。
「あぁ、コレ?ほら、三蔵が休憩の時にコーヒー飲むのにさ、三蔵って缶コー
ヒー嫌いだし、外に買いに行ってると結構時間かかったりするし…だからさ、
俺が家で淹れてこようか?って言ったら、それでもいいって言うから…」
「それでもいい…ね、ふーん…」
何の含みも無い悟空の説明に、悟浄が意味ありげに口許をニッと上げる。
コーヒーの用意くらい、三蔵がスタッフに一言言えばどうとでもなることなの
である。それをしないということは、要は『悟空の手から』ということがポイ
ントなのだ。悟浄は心の底から湧き上がる笑みを抑えきれない。
「んじゃあさ、俺も一杯ご相伴に預かっていいかな?」
「勿論いいよ、沢山あるし。ちょっと待ってて。」
鞄からガサゴソと紙コップを取り出した悟空が、ポットからコーヒーを注ぐ。
香り高い湯気の立ち上る紙コップに口をつけ、悟浄は満足げに笑った。
「お前さんは飲まないの?」
「うん、三蔵が来てから一緒に飲むから。」
悟浄の素朴な問いかけに、悟空がはにかみがちに微笑って答える。すっかりあ
てられる形となった悟浄は、苦笑いを返すより他ない。暫くはたあいのない話
をしていた二人だったが、和やかな時間はある人物の出現によって終わった。
「三蔵!休憩時間になった?」
三蔵の姿に気付いた悟空が、明るい声で呼びかける。不機嫌を隠そうともせず
無言のまま近付いてくる三蔵に、悟浄は大袈裟に肩を竦めてみせた。
(おーおー、露骨に『気に入らねぇ』って面しちゃってまぁ…こんな可愛げの
ある男だったんだねぇ、コイツ)
「さてと…じゃあ俺はそろそろ行こうかな。ごっそさん。」
「うん。またな、悟浄。」
ニッコリと笑う悟空にヒラヒラと手を振り、悟浄は自分の撮影スタジオへ戻っ
て行った。入れ替わるようにしてやって来た三蔵が、ドスンと身体を投げ出す
ようにして悟空の傍らに座った。
「お疲れさん…コーヒーは?」
「要らねぇ。」
「三蔵…今日の撮影、大変だった?何か、機嫌悪いみたい…」
問われるまでもなく、三蔵は不機嫌の真っ只中である。しかしそれは、仕事の
疲れのせいではない。
はっきり言ってしまえば、面白くないのだ。自分の知らないところで悟空が悟
浄に気軽にコーヒーを勧め、ひどく楽しげに話をしていたということが、だ。
無論それにさしたる意味などないことはわかっている。しかしわかってはいて
も、感情は納得しないのだから仕方がない。
三蔵は徐に長椅子に完全に寝そべる格好となり、悟空の膝に頭を預けた。
「さ…三蔵っ?」
「…三十分寝る。時間になったら起こせ。」
戸惑う悟空の声を無視して自分の言いたいことだけを伝えた後、三蔵はさっさ
と目を瞑ってしまった。一瞬呆気に取られた悟空だったが、その表情はすぐに
花が零れるような笑顔となった。
「うん…おやすみ。」
小さく呟いた悟空は、三蔵の眩い金の髪を静かに梳いた。
約束どおり三十分後に起こすと、完全に覚醒しきっていない様子の三蔵は、頬
に軽いキスを送ってから撮影に戻っていった。何だか彼の子供のような一面を
垣間見た気がして、悟空は思わず一人クスリと笑った。その次の瞬間、
「あまり一人で浮かれちゃわない方がいいわよ」
突然そんな言葉が、悟空に向かって投げかけられた。弾かれたように悟空が声
の主を振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。その顔には、悟空も何
度か見覚えがあった。確かヘアスタイリストをしている女性だったと記憶して
いる。女性は少し困ったような顔で、再度口を開いた。
「水差すみたいでゴメンなさい…でも貴方、本当に純情そうだから、何だか危
なっかしくて…あの人ね、一度寝ちゃった相手は紙クズみたいに捨てるって有
名なの…だから、一人で舞い上がったりしない方がいいわ…後で哀しい思いし
たら、つらいから」
ポツリと告げた彼女は、静かにその場を去って行った。
その声の調子は皮肉や嫉妬といったものとは程遠く、あくまで淡々と静かで。
だから逆に、あまりに世間知らずに見える自分に、声をかけずにいられなかっ
たという色合いが強い。その忠告は静かな故に、悟空の心の奥底に確実な重さ
を伴って沈み込んでいった。
それから更に数日が過ぎたある日。悟空は珍しく仕事がオフだった三蔵と、彼
の部屋にいた。特別何をするでもなく、三蔵は新聞に目を通し、悟空は借りて
きたビデオを見ていた。
気が付くと、いつの間にか新聞をめくることをやめていた三蔵に、背中から抱
き込まれていて。髪や耳元に戯れのようなキスを繰り返していた三蔵だったが
ある瞬間、頼りない項に唇を押し当て、不意にきつく吸い上げた。
「さん…ぞ…?」
ビクリと、悟空の薄い肩が震える。
「…シたい」
耳朶を甘噛みするようにして、落とされた囁き。
「…ムチャクチャ…お前と、シたい…」
背中越しに感じる、彼の鼓動、彼の体温。回された腕に、息苦しくなるほど抱
き竦められる。
「…いい…よ…?」
零れ落ちそうな丸い瞳が、静かに閉じられた。
『一度寝ちゃった相手は、紙クズみたいに捨てる』
あの時聞かされた一言が、不意に脳裏に甦る。それでも。
「…シても…いい…よ…」
ぎこちなく震える声で、悟空は一言そう答えた─────。
NEXT >>
《戯れ言》
…というワケですみません、前後編に分かれました(汗)つーか私、前半部分
だけでこれだけかかってる話を、どうやっていっぺんに書けるつもりでいたの
だよオイ…本当に目算下手過ぎだよな、自分(泣)
そんなこんなで、エライところでぶっちぎれたまま、後編へ続きます(苦笑)
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