それでも、リーダー格の男が腕を振り上げたときには思わず強く目を閉じてしまっていた。――殴られる! 腕で身を庇うようにし、貴幸は次に来るであろう痛みに身構えた。
「がッ!!」 しかし――次の瞬間に声を上げたのは、貴幸ではなくその男だった。至近距離から重く鈍い音がしたかと思った途端に、短い悲鳴がしたのだ。 「ひがッ!」 何があったのかすら全く理解できないうちに、もう一人の声。反射的に出たような、一秒にも満たない呻き声である。低いその声が響く寸前には、やはり先ほどと同じ音がしていた。聞くだけで本能的にゾクリとする、重量感のある何かを思い切り対象に打ち付けたような、鋭くも辺りに反響する低音。 貴幸は驚いて顔を上げた。 「うわ……っ!?」 そして仰天した。 瞳を開いたらすぐ目の前に彼らの顔があったのである。彼らは目を見開いたまま貴幸に近づいて近づいて――そして、勢いを増してそのまま倒れ込んでしまった。 どさ、どさり。地面の芝生に思い切り体をぶつけ、二人は重なり合ったまま動かなくなった。 「え、え?」 「何だ!?」 いきなり何があったのか。貴幸は混乱し辺りを見回した。残った男たちも同様である。彼の目線が校舎の側に向いた途端、男に向かって黒い物体がひゅんと飛んでくる。 四角いそれは、躊躇を見せずに男の顔に正面からぶつかった。グガンと嫌な音がすると同時に彼の鼻先から朱が飛び散る。 「ぎぐうッ!」 彼も先ほどまでの二人と同様に叫び、そして倒れる。びくびくと手足が跳ねていた。後頭部を打たれた先の男たちとは違い、前方からの衝撃では気絶までに至らなかったらしい。 「ぎゃっ、あ! ひ!」 その腹を足を胸を、『何者か』が蹴り付ける。苦痛による叫びがどれだけ上がっても容赦せずに。 「うが! あ、あっ!」 荒々しい音を立てて靴底が男の体中に振り下ろされる。その何者かの手には、鞄が握られていた。 (これ……) 呆然とした頭で貴幸は思った。ああ、さっきの黒いのは鞄だったのか、と。 ――見るからに鞄にはぎっしりと物が詰まっていた。言うまでもないが、通学用の鞄だから材質だってしっかりしている。倒れた男たちはこの鞄の角をぶつけられたのである。……一撃で沈んだのも納得だった。 しばらく蹴られ続けた後に、三人目もぐったりとして動かなくなった。それを見て攻撃を加えた主は蹴るのを止める。 貴幸も美幸も、硬直してぴくりとも動けないままである。『何者か』の顔は、ずっと見えていた。だからこそ動けなかったのだ。 見たこともない冷たい目をして倒れた男たちを見下ろすその人物は――悟志だった。悟志が鞄で彼らを殴り、そして動けなくしたのである。 「大丈夫? ユキちゃん」 「えっ……! あ、……あ」 一切感情の篭もらない声で問いかけられ、美幸の肩がびくりと激しく跳ねた。驚きのあまり彼女の涙は止まっている。 「なっ、な、な、何だよおまえ! ざけんな!」 残った一人も動きを引きつらせていたが、悟志が自分の方を向いたのを見て慌てて怒鳴り出した。 だが、たった今目の前で仲間三人が気絶させられたばかりなのだ。彼の声には恐怖が混じっていた。 「ざけんな? ……あんたに言えることか」 悟志が冷たく、低く言い放つ。怒りを抑え淡々と話すその口調も声音も、貴幸たちには聞いたこともないものだった。 「こ、殺してやる! 死ね!」 「……できるなら僕がそう言ってやりたいね」 残った男は身を強ばらせながらも悟志に殴りかかっていく。だが動揺しすぎた拳は逸れ、却って悟志に反撃のチャンスを作るのだった。男の胸元を悟志が殴り、ごふごふと咳き込み出す。 貴幸は何も言えずにその光景を見ていたが、ようやくハッとして立ち上がった。 「悟志!?」 美幸も、信じられないという顔をしながら自分のシャツの端を掴んでいる。 ――信じられない。正に、その言葉がぴったりだった。あの悟志が、こんな冷たい顔をして、あんなことを……。別人ではないかと思ってしまうほどの光景だった。 悟志と言えば泣き虫で甘えん坊で優しくて、いつだって『タカちゃん』と言って微笑んでいるような奴である。その彼が、躊躇なく人を殴った。自分の目で見たとはいえ信じられない。 そしてそれ以上に、冷め切った彼の視線と口調が貴幸たちを唖然とさせていた。あんなに冷酷な目をした悟志、見たことがない。 怒っているのだ、彼は。とてもとても激しく。――悟志が本気で怒ることなど、初めてではないだろうか。日ごろとは空気が違いすぎる。 「げ、っぐばっ……!」 苦しそうに男が呻く。 目の前では二人が殴り合っていた。これまでに一切喧嘩などしたことのない悟志である、暴力に慣れた不良が相手ではさすがに結構殴られてもいるようだった。しかし悟志はそれよりも激しく強く男に攻撃を加えている。先手を取れたことと、激しく動揺する相手に対し、過ぎるほどに冷静なことが有利な状況を作れた原因だろう。 しばらくして男は倒れた。彼は気を失ってはいないが、戦意を喪失したようだ。ヒュウヒュウと辛そうに呼吸し、時に呻いている。 却って、始めの方で倒れた男の方が意識を取り戻し、ふらふらと立ち上がってきていた。 「こ……」 「しつこい」 だが、悟志の元へ向かおうとするのと同時に再び殴られ、地面に沈む。 今度こそ男たちは動かなくなった。 「悟志……」 「……ユキちゃん、タカちゃん。大丈夫?」 もう一度呼びかけた貴幸に、悟志が振り返る。未だに異常なほど静かな声だったが、先ほどまでのような威圧感はない。 「ああ……」 混乱しながら答えた貴幸を一度見たあと、悟志は美幸に目を向けた。彼女は先ほどの体勢のまま全く動いていない。 貴幸は美幸に駆け寄り、服を直してやった。 「今の、って……。悟志くん……?」 ようやく美幸も落ち着いてきたようだ。貴幸にうながされて立ち上がる。 悟志はまだ難しい表情のまま言った。 「ごめん。音を立てたら気づかれると思って、叩くまでに時間が掛かっちゃった」 「音……?」 「そこから来たんだ、僕」 そう言って悟志が振り返った先にあったのは、一階の窓である。校舎内から貴幸たちがいるのが見えたため、男たちに気づかれないよう窓から出、彼らが校舎に背を向けている間に殴ったのだろう。 悟志は再び貴幸を見ると、ふっと表情を緩めた。いつものように。その笑顔は、この場に似つかわしくないほど『普段通り』だった。 「怪我、無い? 大丈夫?」 「あ、……う、うん」 美幸は安心からか、またカタカタと震えだしている。それでも悟志がその肩に手を伸ばすと、安心したようにこくりと首を縦に振った。 同じように貴幸も頷く。 「俺は大丈夫だよ、おまえが助けてくれたから……。でも、悟志、悟志……」 名を呼ぶことしかできなかった。言いたいことがうまく言葉にならない。 ――おまえ、怪我してる。痛くないか? いや、痛いよな。血がダラダラ出て、痛そうだ。口元が切れて服も泥だらけだ。……ありがとう。おかげで助かったよ。でも、でも……どうするんだ――これから。 「僕、先生のとこ行ってくるよ」 二人の無事を知ると悟志は優しく微笑んだ。 「ま、待った! ――大丈夫なのか、悟志……!」 貴幸は思わず悟志の腕を掴んでいた。 教員なんか呼んできたら、確実にまずいことになる。いくら美幸が襲われて、貴幸が殴られかけた故の攻撃とはいえ、端から見たらこの状況がどう判断されることか。 襲ってきた相手は四人とも気を失っているのだ。下手をしたら、いや、まず確実に悟志が責められることになるだろう。 悟志は首を傾げて苦笑いした。 「黙ってても、そのうちバレるし……。その前に自分で言ってくるよ」 「あ、お、俺……。俺も、一緒に行く……!」 こういったときの学校の対応なんて、非情なものである。事情があっても暴力を奮えば問題児。そんな目で見られ、処分が下される。 せめて自分がついていって正確に事情を説明しなければ。そう思ったのだが悟志はかぶりを振って、切れた口元を押さえながら小さく笑った。 「タカちゃんは帰ってあげて。ユキちゃんと」 「でも……!」 「ユキちゃんと一緒に帰って」 優しくも有無を言わせぬ口調で悟志が言う。貴幸は言葉に詰まった。 悟志一人で行かせるのは忍びない。だが、こうして怯える美幸のことも放ってはおけない。早く家に帰らせてやりたい。そして一人で帰らせるのは心配だ。側についていてやりたい。 「ね」 もう一度、悟志が念を押してくるので貴幸は苦々しくも黙り込んだ。それでも心配で、意味もなく彼の名を呼んでしまう。 「悟志……」 呼びかけられて悟志は、少ししてからにこりと笑った。 「……あ。そういえばね、給食袋、鞄に入ってたよ。無いと思って、ロッカーとか色々探しちゃった」 「……悟志」 「じゃあね。ユキちゃんも気を付けて」 気遣わしげに視線を向けてから、悟志は行ってしまった。 心配で、不安で堪らない。悟志のことが。 怪我も彼の心情も、今後のことも。もしも悟志に何かあったら――。想像しただけで堪らなくて、貴幸も美幸もしばらくの間、動けずにいた。 |