カイトと話すのは楽しい。歌う事がメインに据えられているが、音に関してはプロフェッショナルで、俺が何を言っても反応を返してくる。楽音だけでなく、日常生活のあらゆる音が数値として見えているらしい。頭の中を覗いてみたいものだ。うきうきしていると言われたら否定できない。
「この前はギター弾かせたけど、ピアノも弾けるのか?」
「弾けます。一般的な楽器は大体扱えます」
「うわあ。でも、ボーカ口イドのオーケストラって観た事ないな」
「毎回、同じ演奏しか出来ませんから。人間には敵いません」
「何でも弾けるやつの台詞かよ。あ、でも料理とかは出来ないよな」
「はい。卵の殻もうまく割れませんでした」
「やった事あるのか」
「前のMASTERの家にはメードロイドも居たんですが、器用だなと思って眺めていたら、やってみるかと言われたので挑戦しました。三分でキッチンを追い出されました」
「あははは! 三分クッキング!」
「レトルト食品なら出来そうですね」
「フフッ、そうだな。……あ、鳴ってる」
たわい無い話をしているうちにインターホンが光った。サイレントでも気づけるようにか、うるさく点滅を繰り返す。カイトは直ぐに受話器を取って俺に渡した。買い取れるのか否か。緊張しながら受話器に耳を当てた。「お待たせしました」と聞こえた声は少し沈んでいるようだった。
「次にMASTERになる予定の方が既に決まっているようなんです……」
「あ……」
「ただ、期間限定という事でその後でしたら買い取りに応じるそうです」
「期間ってどれくらいですか……?」
「早くても半年で、一年は見ていただきたいとの事です」
「一年……」
「……どうされますか?」
「……。……分かりました。待ちます」
「かしこまりました。ご連絡に必要になりますので、本社担当者にアドレスをお伝えしてよろしいですか」
「構いません」
「では、担当者からのご連絡をお待ちください」
「はい……」
温くなったコーヒーを口に含んだような気分で、通話は終了した。言い出すのが遅かった。俺が予約をキャンセルしなければ、カイトが異動する事もなかったかも知れない。あの日、雨が降っていなければ。俺がのんびり歩いていなければ。もしもの話をしても仕方がない。期間限定で本当に良かった。それで十分じゃないか。
受話器を握り締めたまま、ぼうっとしていたらカイトが覗き込んできた。
「一年って聞こえましたけど何の話ですか」
「うん、お前の次のMASTER決まってるって……」
「え」
「でも、期間限定らしいからその後でも良いかって言われた」
「期間限定……。あ……」
「何か聞いてるのか?」
「いいえ、まだ何も説明されてません。俺、前のMASTERに配属されたのはプロモーションのためだったんです。
社長が作家と知り合いだったようで、ボーカ口イドを広めて貰おうという話でした」
「ああ、ボーカ口イドが発表される前から有名だったな」
「だから今回も誰か作家に依頼したんだと思います」
「『ミッレアンニ』のカイトって事で箔が付いてるしな。……何か、俺が引き取っていいのか不安になってきた」
「さっきは直ぐに暮崎にコールしたのに、何で今更不安になるんですか」
「おい、呼び捨てかよ」
「大体、俺は貴方と暮らしたいのに、一日だって別のやつがMASTERになるなんて嫌ですよ」
「っ……」
「社長に直談判します。依頼の仕事はしてもMASTERは貴方がいい」
気持ちが真っ直ぐすぎて直視していられない。椅子を回して背を向けようとしたけれど、両手を掴まれて動けなくなった。濃藍の両目が俺を捉えた。
「俺を縛ってください」
「その言い方どうにかしろ……っ」
「……。貴方のものにしてください」
息の仕方を忘れた。MASTERを望むボーカ口イドの言葉は鮮烈だ。声音は真剣そのもので、俺の心臓を突き刺そうとする。顔が熱くて堪らない。たぶん今、首まで赤くなっている。何でこんなに惹かれるんだろう。
「っ……、ん……」
上手く声が出なくてただ頷いた。いつまで手を握っているつもりだろう。振り払う事など容易いのに出来なかった。
「今日の貴方は可愛い」
「はっ、喧嘩売ってんのか?」
「買ってくれますか」
「……買うよ」
カイトを連れて帰る事が含まれているように聞こえた。既に買い取れるかどうかの話はしているし、一年でも待つつもりで居たけれど、カイトは確認するように問い掛けてきた。その度に、あまり深く考えていなかった自分の気持ちに気づかされるようだった。
「今、連絡を取ってきていいですか?」
「おう、いいよ」
「直ぐに戻ります。これを預かっておいてください」
「良いけど、別にそのまま入れとけばいいだろ」
差し出されたのはくしゃくしゃになったスカーフだ。元々そういうデザインなのかと思ったが、妙な折れ目が付いていたりして残念な感じになっている。ポケットの膨らみが煩わしいなら、いつもみたいにその辺に放って置けばいいのに。
「俺だと思って好きにしてください」
「意味が分からん」
「邪魔だったらその辺に捨ててください」
何それ、捨てづらい。シルク製なのか手触りは良かった。どうせ手持ち無沙汰だし、撫でたり結んだりして遊ぶ事にした。
「暮崎さん、電話を使います」
「うん? あー、なるほどー! 良い人に出逢えてよかったな!」
「うるさいです」
「えー!」
『はい、BELLOWS総務部の昼谷でございます』
「スタジオボイス所属、LVK407、カイトです。異動の件で社長と直接話がしたいので、時間を作って貰えますか」
『異動の件なら私に一任されている。用件は何だ?』
「今日からMASTERになってくれる人が居る。その人がMASTERでないなら一切歌わない」
『……。決定事項だ。お前に拒否権はない。先方はミッレアンニのカイトだから引き受けてくださったんだ。その人は作家に対する違約金や、これから見込まれる特別利益も支払ってくれるのか』
「……」
『懸念事項がある事は報告しておこう。お前は一日に私が迎えに行く。バカな事は考えるなよ』
「……よろしくお願いします」
ちょうどスカーフを着けてみた時、防音ドアが開いた。五分と経っていないが、ちゃんと話は出来たのだろうか。カイトはじっと俺を見たまま、後ろ手にドアを閉めた。良い知らせか、悪い知らせか。表情からは読めない。
「俺も首に巻きますか?」
「はあ? 巻けねーよ! 何だその『これはペンですか』みたいな台詞は」
「いいえ、スカーフです」
「そうだよ。スカーフだよ。だから巻いたんだよ」
「俺も巻けますよ」
一瞬、思考停止していた俺に、カイトは大股で近づいてきた。これはマズいかも知れないと思った時には、カイトの両手が首に絡み付いていて、軽く抱き寄せられた。
「ちょっ、え
!? 近い近い近い! 離せ、ばか!」
「マスター……」
「……!」
何て切ない声を出すんだ。哀しみの全てがその言葉に詰まっているかのようだった。良い返事は貰えなかったのかも知れない。引き剥がそうとする気はすっかり失せて、俺も背中に腕を回した。抱擁ぐらい大した事じゃない。
「俺はまだMASTERじゃないって……」
「早くMASTERになってほしい」
「うん……、一年は長いな。待つけどさ」
「貴方がMASTERじゃないなら歌わないって伝えました」
「そっか。聴いてもらえるといいな」
「キスをしてもいいですか」
「は
!? 何でだよっ! 外国の挨拶でも親しい人にしかしねーよ!」
「そうですね……」
聞き分けよく頷いた声は消え入りそうなほど小さかった。カイトとは親しくないと言ってしまったみたいで、妙な罪悪感が湧いてきた。
「……あーもう、分かった。お前とは友達だ。挨拶だ、挨拶」
犬や猫に舐められるのと同じだ。飼った事ないけど。酔っ払いがキスしてきてもノーカンだ。された事ないけど。それと同じ。
目を瞑って身構えると、頬に柔らかな感触が伝った。全然余裕だ。意識するからいけない。抱擁している時点でこれぐらいの接触など、取り立てて考える事もない。
「もういい、かっ……!」
さっきまで口をぎゅっと閉じていたのに。声を出したタイミングで口付けられて軽く食まれた。驚いて離れようとしたけれど、両手が首に絡み付いたままで、全く動けなかった。今、喋ったら事態が悪化する気がする。
唇の触れ合う感覚に背中がぞわぞわした。これはきっと悪寒だ。カイトの事は嫌いじゃないし、一緒に暮らすのだっていいと思っているけれど、さすがにコミュニケーションが過ぎるだろう。何度か触れるだけのキスを繰り返されたのち、ようやく顔を離された。
「やり過ぎだっ、ばか! 気は済んだか」
「済んでないと言ったら、もっとして良いんですか?」
「だめに決まってんだろ」
「……」
「大体、男同士でここまでしないからな! お前はボーカ口イドだから感覚が違うのかも知れないけど」
「……そうですね。舌を入れたいと思いました」
「入れたら引っこ抜くぞ!」
「歌えなくなります」
「それは困るな」
「俺たちにとってMASTERは絶対的な存在です。歌えと言われたら歌うしかない」
「……」
「貴方の事を何よりも憶えていたい。だから、貴方の感触をください」
「……こうやってさ、抱き合ってるだけでいいだろ?」
「……」
無言の回答。何度もキスしてきたのにまだ足りないというのか。至近距離で見つめ合ったりして、一体何をやっているんだろう。
「クソ、ずるいな……。クソ……、……もっとしたいんだろ」
「はい」
「……っ、……、ん……、フ……」
断固拒否すればいいのに何で許してしまうのか。自分で自分がよく分からない。舌が這入ってきたのに抵抗もしないで、舐めたり絡んだりしてくるそれに応えようとしていた。背中がぞわぞわするのに嫌だと思っていない。どうかしている。あんまりされると、ちょっとかなりマズいかも知れない。
「ん、ん……っ、も、ストップ……、もういいだろ……」
「俺は舌を引き抜かれますか」
「……引き抜かねーよ。離れろ」
入院していたし、こんなキスも久しぶりだし、危うく起つところだった。これ以上考えるのはよくない。
カイトはやっと体を離して一歩下がると、その場でしゃがんだ。
「そのスカーフ、貴方が持っていてください」
「おい、要らないからって押し付けるなよ」
「俺、渡せるものはそれぐらいしかなくて……、忘れないでほしいんです。販売店に行かないでください」
「……散々、販売店に行けって言ってたのに。フ、フッ……」
「……」
「行かないよ。販売店にお前は居ないだろ」
「はい」
「俺の連絡先教えてやる。ちょっと話すくらいならいいだろ」
一年間ずっと話も出来ないのは寂しすぎる。カイトにモバイルの個人情報欄を見せていると着信ランプが光った。
「あ、メール来た。憶えたか?」
「俺が送りました」
「え?」
発信元不明、タイトルなしのEメールを開いてみると、一言「マスター」と書いてあった。脳内からネットワークに接続できたのか。便利なやつだ。
「まだMASTERじゃないって……、これ俺から送れないし。当たり前か」
「頭の中すべて、貴方のメールで一杯に出来たらいいんですけどね」
「怖えーよ」
可笑しくて噴き出すと、カイトも肩を揺らしていた。隠さないで笑っている。今日一日でいろんな表情を見られたのが何より嬉しかった。また直ぐに会えたらいいのにと思った。
空欄になっているMASTERの欄に、彼の名前を入力したくて幾度となく試行した。無駄な事は分かっていた。本社のユーザー登録と同期しているんだから、ハッキング紛いの事でもしない限り出来るはずがない。
ボーカ口イドの分際でMASTERを選びたいなんておこがましい。こんな感情を抱けるなんて知らなかった。記憶保持のままリユースされた同胞たちも同じ思いをしたのだろうか。だけどそれも、新しくMASTERの登録をするまでの話だ。MASTERとは友好関係を築きたい。MASTERのために在りたいと思う。登録の無かった時に感じた事など忘れてしまうかも知れない。忘れたくない、忘れたくない、忘れたくない。
一日、午前九時半、控え室のドアが叩かれた。暮崎だ。
「迎えが来たよ」
「はい」
「七ヶ月間お疲れ様。一緒に働けて楽しかったよ」
「そうですか」
「相変わらず淡白だなー! それもカイトの長所だけどねー」
「どうも」
「新しい職場でもカイトなりに頑張れ」
「お世話になりました」
暮崎はよくボーカ口イドを気に掛けてくれた。鬱陶しいと思う事も多かったが、これで別れかと思うと一抹の寂しさがある。初めの半年はずっと店を辞めたいと思っていた。今はスタジオボイスは大事な思い出の場所だ。新しくMASTERになる人が現れて、歌う事が苦痛でなくなるはずなのに、気分はずっと沈んだままだ。
社長の使い走り昼谷が引き継ぎのKAITOを連れてやって来た。暮崎に対して愛想良く挨拶している。まだ何色も知らないような初心な姿に、俺と同じ思いはしなくて済みそうだと安心した。
乗用車に乗り込むと、昼谷がバックミラー越しに「観念したか」と言ってきた。俺に選択肢は与えられていない。MASTERが居なければ外出も出来ない。無力なボーカ口イドだ。無視していると、やれやれと溜息をつかれた。
「お前、スカーフはどうした」
「鬱陶しいから捨てた」
「正装を捨てるな。これからリユース店に向かう。新しいMASTERは陽乃さんだ。十四時に約束しているから、お前はそれまで待機していろ。顔合わせの時はスカーフも巻けよ」
「……」
「私は別にお前たちの感情をないがしろにしたいわけではない。ただ、これはビジネスの話なんだ。返事をしなさい」
「……『ミッレアンニ』はKAITOなら誰でも歌えます」
「原理的にはな。だが、過ごしてきた環境、経験、指導が重要な事はお前が一番知っているだろう」
誰に会っても二言目には「ミッレアンニみたいに」と言われた。それ自体は仕方がない。KAITOのプロモーションが成功した証だ。歌えるものなら歌ってみせただろう。だけど、何十回試したところで似ても似つかないものしか歌えなくなった。前のMASTERが亡くなって、俺の手からは離れてしまったものなんだと思った。それで良かった。新しい希望に出逢ったから。なのに俺はいつまでミッレアンニに囚われるのだろう。
「返事は?」
「……。……依頼の仕事はします。陽乃さんをMASTERにしなければいけませんか?」
「第三者がMASTERだと至上命令が聞けないだろう」
「……」
「まあ、今回は楽曲提供してもらうだけだから、お前が良い子にしていればさほど重要ではない。もう一つ問題がある。お前を拝借する事になるからコストが余計に掛かる」
「彼は無償で良いと言ってくれるはずです」
「お前がその人を信頼している事はよく分かった。だが、陽乃さんが認めないだろう」
「……」
「お目にかかれば分かる」
含みのある言い方をされてそれ以上思考するのを止めた。彼の感触を思い出していたほうが有意義だ。引き締まったふくらはぎ、すらりと長い指、白皙の頬、薄い上唇、しなやかな舌……。記憶は鮮明によみがえる。呼吸の交じり合う程の距離で存在を確かめた。感覚を手繰り寄せるたびに、また触れたいと思う。
最寄りのリユース店のある地域を通り過ぎて、四十分程、走った先にある店舗で停車した。陽乃がこの辺りに住んでいるためだろう。思っていたより遠い所ではなさそうだ。外で彼に会う事も出来るかも知れない。
裏口から入ってスタッフに軽く挨拶した後、控え室に通された。客人も使う部屋なのか、ソファやテーブル、ウォーターサーバーも置いてある。備品のスカーフを渡されて「今度は捨てるなよ」と釘を刺された。店内を見学するぐらいならいいという事だが、午後までここで待機だ。昼谷は他の仕事があるという事で一旦、帰社した。
登録手続きは必ず販売店かリユース店を通して行われる。だから俺も販売店は行った事があるが、リユース店は初めて来た。内装は統一されているのかほとんど同じ。ただ、ここに居るボーカ口イドたちは顔付きが違う。何かしらの経験や別れをしてきたものは大なり小なり悲しみを抱えている。記憶を保持したままでいるか、初期化するかは次のMASTERの意向次第だ。
フロアを遠巻きに眺めていたら女の子が近づいてきた。
「カイト兄さんー」
「……初音ミク」
「そんな端っこに居ないであっちに行こうよー」
「俺はMASTERになる人が決まってるからいいんだ」
「そうなんだ! いいなーいいなー! ミクも早くMASTERに逢いたい」
「そうだな……。……ゲストが来た。アピールしてきたらどうだ」
「うん!」
ミクはたたっとフロアを駆けて来客に挨拶しに行った。販売店でもリユース店でも、自分を気に入ってMASTERになる人が現れるのを待っている。そんな場所でMASTERが決まってるなんて素晴らしい事だ。待ち人が彼だったら最高の気分だっただろう。溜息をつきながら控え室へ戻った。一眠りすれば午後になる。夢を見られるなら彼に会いたい。
ノックの音でスリープから戻った。十三時五十分。そろそろ約束の時間だ。のろのろ立ち上がり、スカーフを巻かないといけないんだったと思っているうちにスライドドアが開いた。昼谷が姿を見せて、俺を一瞥すると『さっさと巻け』というジェスチャーをした。「陽乃さん、どうぞ」という声と共に入って来たのは、年齢不詳の小柄な女性だ。俺と目が合うとにっこりと笑みを作った。
「初めまして、陽乃よ。よろしく」
「初めまして……」
「やっぱりそこらのKAITOとは全然雰囲気違うわねー。うん、良いわ」
指名してきただけあって気に入られているようだ。分相応にもありがたくないと思ってしまう。彼女は小柄ながらも存在感があって勝気そうだ。『お目にかかれば分かる』という言葉を思い出した。叶いそうにないと感じていたが、他の手段は残っていない。
「陽乃さん」
「なあにー」
「ミッレアンニのKAITOが良いなら仕事はします。ただ、MASTERは別の人になってもらいたいと思ってます」
「私じゃ不服?」
「この仕事は昨日聞かされたばかりです。俺を引き取ってくれる予定の人が待ってます。その人がMASTERでないなら歌いたくありません」
「さすが、ミッレアンニのカイトね。プライドのある子は好きよ。……そういう子を従わせるのはもっと好き」
「……」
「良い声で歌いそうじゃない。お仕事、頑張りましょうね」
陽乃はふふっと笑うと、俺の背中を押して登録手続きに向かった。女性の力だ。振り払う事など容易い。だけどそんな事をしても無駄だ。逃げたって直ぐに捕まる。俺は何処にも行けない。
――嫌だ、嫌だ、嫌だ、この人のものになりたくない。マスター……!
リユース店から車で二十分程走った。街路樹のハナミズキが紅色に変わり始めている。ぼんやり眺めているうちに、モノトーンの外壁が印象的なマンションに到着した。GPSで現在位置を確認する。最寄り駅まで徒歩十分の立地だ。「良い環境でしょ」という声がしたから、「そうですね」と返事した。
案内された部屋は2LDKで五十平米以上あった。一人暮らしには十分な広さだろう。防音室と寝室で埋まっているため、リビングの一画を使うように言われた。パーテーションで区切られていて、プライベートスペースが確保されている。ソファベッドと収納付きサイドテーブルが用意されていた。
「ちょっと狭いかも知れないけど我慢してね」
「はい」
「モバイルを渡すわ。私が呼んだ時以外は好きにしていいわよ。玄関のパスワードはこれ」
「……」
「意外そうな顔。部屋に閉じこもってても良いものは出来ないもの。カイトを待ってるっていう人に会いに行ってもいいわよ」
陽乃は俺の思考を見透かすようにそう言った。あっさりと連絡手段と外出許可をくれた彼女は一見すると優しい。ただそれだけではない事は、続けて言った言葉が物語っていた。
「だけど、貴方のマスターは私なの。私の所に帰って来なくちゃいけない。……素敵じゃない?」
にこにこしながら不敵な事をのたまう。陽乃は多くの経験を積んできた大人の女性だ。一筋縄ではいかない。
「ねえ、『ミッレアンニ』歌ってみてよ。今の貴方はどんなふうに歌うのかしら」
防音室へ促されて、てきぱきとマイクの高さを調整された。
前のMASTERを亡くしてからは、歌い方を忘れてしまったみたいだった。今は陽乃の名前がある。MASTERのために歌いたいという原始的な欲求が沸き起こる。同時に陽乃のために歌いたくないという意識があった。何故、彼女の名前なのだろう。彼の名前なら良かった。彼のために歌えたらどんなに素晴らしいだろう。彼女は仕事に必要だから登録しただけの人だ。ただの上司で特別な存在ではない。彼女の仕事を手伝うために歌う。そう思えば気持ちが安らいだ。
それでも空欄だった時よりずっと思い通りに歌えて気分が良かった。歌い終えると、彼女はじっと俺を見上げながら呟いた。
「ふーん……。ミッレアンニのカイトはもう居ないのかしら」
当然だ。前のMASTERは亡くなってしまった。陽乃ためには歌えない。例え、彼のために歌ったとしても同じものにはならないだろう。
「まあ、いいわ。作業始めるから勝手にしてて」
陽乃はギターを取って集中し始めたので、邪魔しないように防音室を出た。鬱陶しいスカーフを外してサイドテーブルに放り投げる。ソファベッドに転がり、一息ついた。
ここから彼の暮らす街まではエレクトリックカーで十駅だ。交通費はないから徒歩で行くしかないが、走れば二時間半で行けそうだ。会えない距離ではなくてほっとした。Eメールを出そう。
こんにちは。カイトです。今は何をしていますか?
俺は陽乃という人の家に居ます。
モバイルを渡されたのでいつでも話が出来そうです。
外出も自由にしていいと言われました。
こう書くと、良い人だと思うでしょうけどそうでもありません。
貴方と話したり、会ったりしても、俺の登録者は陽乃だと言われました。
奏真さん、俺は貴方のために歌いたいです。
アドレスを間違えていないか三回確認して送信した。時計は十五時を指そうとしていた。彼は病院に行っているかも知れないし、仕事をしているかも知れない。返事をもらえても夕方以降になるだろうと思っていると、十五分後、モバイルが光った。
メールありがとう。返信できるから嬉しい。
ストレッチしてたよ。早く歩けるように頑張る。
陽乃ってやっぱり作曲家の陽乃か! また有名な人の所に居るんだな。
すごい人たちと仕事してるのにカイトは俺が良いって言うだろ?
それがちょっと優越感というか嬉しい。
でも、陽乃さんと仕事してるうちに陽乃さんが良いって思うかもな。
そんな事は思わないし、思いたくない。有名な作家のところで働けても少しも嬉しくない。メールだと表情が分からなくてもどかしい。『今、通話してもいいですか?』と送ると、直ぐに 『うん』 と返事が来た。
家の中だと陽乃が居て落ち着かないため、近くの公園へ行く事にした。ホワイトボードがあったので一応、書き置きする。早く声が聞きたい。歩きながら発信した。
『もしもし』
「マスター」
『フフッ、第一声がそれか』
耳元で彼の笑う声がして堪らない気持ちになった。アナライザーが心地良くゆらめき、数字が踊っている。
「なんでマスターの名前が貴方じゃないんだろうってずっと思ってます」
『ん……。仕事だからな。仕方ないよ』
「陽乃が登録者でも、貴方と暮らしたい気持ちは変わりません」
『……おう、俺も待ってるよ』
掠れ声でそう言った彼の様子に、一つの光景が思い出された。俺のほうを見てほしくて手を握った時だ。肌が薄紅色に変わってすごく可愛かった。声を聞いたら今度は顔が見たいと思ってしまう。際限がない。
「住所を明かすことは出来ませんが、そんなに遠い所ではないんです」
『おー』
「会いに行ってもいいですか?」
『エレカーで来られるのか?』
「……。大丈夫です」
『今の間は何だ。あー、交通費がないのか』
「たいしたことない距離ですよ」
『俺が車持ってればなー。必要ないから考えた事もなかった』
「持っていても、足を怪我してるじゃないですか。貴方に余計な負担を掛けたくありません」
『別に負担じゃねーよ。それに右足が動けば運転していいんだぞ』
「俺が少し早歩きすれば一時間くらいですよ。散歩みたいなものです」
『そっか……?』
かなり鯖を読んだが三十キロメートルマラソンをすると言ったら引かれかねない。
「会いたいです」
『うん……。まだ一週間ぐらい仕事休みもらってるからいつでもいいよ』
「それなら明日、会いに行きます」
『待ってる』
彼のふっと微笑む気配がした。その言葉がとても甘い響きを持って聞こえた。音楽スタジオに居た時は俺が待つ立場だった。一回二回で諦めて来なくなる人たちと違って、彼は毎日のようにやってきた。いつしか来てくれるのが楽しみになっていた。彼が事故に遭ったと教えてもらった時は絶望した。それでもまた会いに来てくれた。今度は俺から会いに行く。