就寝の準備を始めても、気になるのは明日の仕事よりカイトの事だ。天井の模様をなぞりながら、何故あんなに不興を買ったのか考えていた。
挨拶みたいに気軽に『ミッレアンニ』をリクエストする客は多いだろう。元の曲とはまるで違う歌声を聞いた客は、俺のように下手だと言うかも知れない。だけど、理想の歌に仕上げるには時間が掛かる。カイトはよく知っているはずだ。初対面の時に「三分クッキングじゃねーんだよボケ」と暴言を吐いてきたくらいだ。もっと慇懃無礼な言い方だった気がするが、今はどうでもいい。だから俺が「へたくそ」と言ったところで、嫌みや皮肉を返されるだけだろうと思っていた。しかし、返ってきたのは怒声と拒絶だった。
怒りは二次感情だという話を聞いた事がある。怒りの前には一次感情があって、心配や不安、悲しみだという。カイトが怒ったのはきっと、自分でも上手く歌えていないと分かっていたからだ。本当はもっと上手く歌いたい、歌えるはずなんだ。でも、出来ない。何故? 壊れているから?
アラームが鳴る前のカチッという音で目が覚めた。直ぐにジリリリリと喚き始めたが、毛布が心地良くて起き上がるのが少し億劫だった。朝方は冷え込むようになってきた。ベッドからずりずりと半身だけ出し、腕を伸ばしてアラームを止める。スヌーズ機能に任せてもう五分まどろんで居たい気分だったが、キッチンから『給湯を開始します』というアナウンスが聞こえてきたため、のろのろ起き上がった。セットした時間に自動でコーヒーを淹れてくれるマシンだ。温くしてしまうのは惜しい。そろそろ暖房もタイマーセットしたほうが良さそうだ、と思いながら寝室を出た。
リビングに入ると、起動していた情報端末が天気予報を流していた。
『夕方から雨や風が強まり、明日は雷を伴って激しい雨となるでしょう』
「雨かー」
歩き方が悪いせいか、トラウザーの裾がびしょ濡れになるのが頂けない。カイトに会うのに格好悪い。『カイトに会うのに』って何だ。社外のお客様に会うわけでもないのに何を気にしているのか。逡巡したものの、防水したスエードのブーツを履いて行く事にした。ブーツインすれば多少はマシだ。
寝ても覚めてもカイトの事ばかりだ。バンドを組んでいる友人が「もうあいつとはやってられねーよ」と愚痴をこぼすたび、一人で作れば気楽なのにと思っていた。それが今では一人で作れないものを作っている。技術ではどうにもならない感情に振り回される。それでも、カイトの声で作りたい。これはたぶん意地だ。
昼過ぎにぱらぱらと降り始めた雨は、終業近くには窓に珠を作るまでになっていた。重たい水滴が留まり切れずに伝い落ちて縦模様を描いていく。これでもオフィス周辺は穏やかな方で、警報が出ている地域もあるようだ。昔は天候不良で交通システムが麻痺する事があったようだが、地下を走るメトロはもちろん、地上のエレクトリックカーが停止した経験もない。
「あれ、まだ残ってたのか。珍しいな」
「いや、もう十五分ぐらいで終わるよ」
「待ち合わせには間に合いそうだな」
「待ち合わせ?」
今日はクライアントや上長との約束はしていない。誰かと勘違いしているのではないかと疑問に思っていると、同僚はにやりと笑った。
「デートだろう? 最近、帰り際になるとうきうきしてるじゃん」
「え、うきうき? ……デートじゃねーよ」
「そうなの?」
「スタジオ通ってるだけ」
「おお、バンド始めたのか?」
「無い無い。相変わらずちまちま作ってるよ」
「あ、分かった。ミク何とか? だろ?」
「そうそう。初音ミク。やっぱりボーカ口イドはあまり知らないか」
「特化型はなー。言われれば思い出すけど。パデラとかソワンぐらいだよ」
パデラやソワンは炊事、洗濯、介護などを得意とするメードロイドだ。ボーカ口イドのような生活に直結しないものを特化型と呼ばれやすいが、メードロイドはホテルやレストランに従事できる専門知識と技術を持っている特化型だ。家庭用のものには機能制限があるけれど、それでも一般家庭に居る彼ら、彼女らのほとんどが特性を活かしきれていないだろう。
「まあ、出来たらまた聞かせてよ。それじゃ、お先!」
「あ、待て! 傘! さすがに濡れるだろ」
「おー、危ない危ない。サンキューな! お前も早く帰れよー」
「お疲れ」
話ながらも作業するつもりが、『うきうきしてる』という言葉に驚いて手が止まっていた。確かに初めて挑戦している歌ものは存外楽しいし、ボーカ口イドの音色は人間とも楽器とも違う別種のものだから、新しい音源を手に入れた時のような高揚感があった。だからといって、終業間際に鼻唄を歌っているなんて事はないし、以前と変わらないつもりでいたけれど、よく話す同僚に気づかれる程度にはうきうきしていたらしい。適当にデートと言ったのだろうが、相手はあのカイトだ。友人にも満たないような希薄な関係。俺が店に行かなければ街中で逢う事もない。それでもカイトは困らないし、むしろ暇が出来ていいとさえ思うだろう。そしてずっとあの場所に居るんだ。閉じ込められるように――。好きで店に居るわけではないと言ったカイトは、本当は何処へ行きたいのだろう。
自宅から職場まで片道三十分。定期区間に音楽スタジオがあって途中下車している。同じ区内だけどここは随分と雨足が強いようだ。少し遠回りになるけれど、なるべく濡れないように屋根が続いている道から行く事にした。長いスロープを下って信号を二つ渡れば目的地だ。
雨の日は送り迎えの車が増えるが、この道は信号が多いせいか意外と少ない。左の方に乗用車が一台見えるぐらいだ。雨水が跳ねるのを気にしてゆっくり歩いていたせいか、信号が変わるのが早く感じた。横断歩道の中央付近で点滅し始めたが、渡りきれそうな距離だったため、そのまま歩いていた。その時、停止線で余裕を持って停まれるはずだった乗用車がスリップを起こした。
「え……」
俺は焦って逃れるように走りだしたが間に合わず、太腿が接触した。衝撃はそれほど大きくなかったけれど、足を取られて転んでしまう。バシャッと派手な音を立てて全身に雨を引っ被った。乗用車はそこで停止したが、とにかく移動しなければと起き上がろうとした。
「いッ……! 痛ェッ……!」
左足首にビリビリと痺れるような痛みが走った。捻挫や打撲にしては酷く痛む。折れているのではないかと思った。ザーッと血の気が引いていき、全身から冷や汗が噴き出た。痛い、痛い、痛い。
ああ、今日行くと言ったのに明日行けるかどうかも怪しい。目の前の角を曲がればカイトが居る店があるのに。電話しないと。怪我したせいだって。伝えて貰わなければ。カイトに。それから職場に――、こんな時にまで仕事よりカイトを思い浮かべていた自分にハッとした。本当にどうかしている。
「申し訳ございません……! 今、救急と警察を呼びます!」
「大丈夫ですか……
!? ああ……! ごめんなさい!」
大慌てで車内から飛び出してきたのは五十代ぐらいの夫婦だ。青褪めてはいるが人の良さそうな顔付きをしている。仕立ての良い服を着た婦人は雨も構わず駆け寄ってきた。そして思い出したように車内から傘を取り出すと、俺に翳してくれた。
「ごめんなさい……、ごめんなさいね……。救急車が来ますから」
「はい……」
「お鞄、私がお持ちしてもよろしいでしょうか? ああ、傘があんな所に」
「あ、お願いできますか……」
「はい」
「すみません……、モバイルを、取っていただけますか……?」
「はい、失礼いたしますね」
救急が来る前に連絡してしまいたい。一瞬迷って、先に掛ける事にしたのは音楽スタジオだった。職場は最悪、明日の朝でも間に合う。スタジオの予約時間がもう迫っている。
「お世話になってます、予約入れてる向坂です……」
『向坂さん! いつもありがとうございますー』
「どうも……」
『どうされました……?』
「ちょっと事故に遭ってしまって、暫く行けなくなりそうなんです」
『ええ
!? 大丈夫ですか
!?』
「はい……、足首折れただけですよ」
『大丈夫じゃないっすよ! お大事にしてください!』
「ははは……。それで、その……、あの……、」
『はい……?』
「……あいつにも伝えて貰えませんか? 」
『カイトですね』
「はい……。まだ曲完成したわけじゃないんで、近いうちに行きますから」
『伝えておきます! ご贔屓にしてくださってありがとうございますー』
「よろしくお願いします。では、失礼します……」
常連でレンタルしているとはいえ、伝えてほしいなんて入れ込み過ぎだと思われたかも知れない。だけど、最初に納得いくまで歌わせてやると宣言して、昨日は怒らせてしまって、それで黙って行かなくなるなんて逃げたみたいに思われそうで嫌だった。まだ諦めていない事を知っていてほしかった。
スタジオに電話をしたら少しだけ落ち着いた。続けて上司に連絡する。幸い、仕事はデスクワークだ。なるべく早く復帰しますと伝えたが、有給扱いに出来るから焦らず治せと優しい言葉をいただいた。遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
最寄りの病院に運ばれ、最初にレントゲンを撮られた。左脛骨遠位部の皮下骨折だと言われた。プレートで固定する必要があるらしい。自宅や職場からも近く、ベッドにも空きがあるという事で直ぐに手術となった。
盲腸で入院した時は全身麻酔だったため、手術中の出来事なんてこれっぽっちも分からなかった。今回は違う。下半身の感覚だけがぼんやりして、周りを三人の医者が取り囲んでいるのが見える。天井や壁紙はアップルグリーンで、気持ちを落ち着かせてくれる。これからサイボーグにされてしまうのかもなんて妄想まで出来る。
まん丸の無影灯を眺めているうちに五度圏を思い出した。ギターの練習をしていた時に初めて目にして、便利なものがあるんだなと感心した。今はギターはインテリアで、いかに本物みたいに打ち込むかを考えるほうが楽しくなっていたりする。カイトのギター演奏は様になっていて格好良かった。バッキングにはそのまま使えそうだ。ピアノもきっと弾けるのだろう。譜面の通りに。自動演奏のように。――哀しそうなカイトは何処に居るんだろう。
手術は四時間程で終了した。途中で疲れて眠ってしまったため、起こされた時はもう終わったのかと思った。四人部屋に連れて行かれたが、一つは空きで、一人は明後日には退院するという事だった。俺は最低でも一週間は入院していなければいけないらしい。その後は通院しながらリハビリが待っている。有給休暇は十四日ぐらいは取れそうだったが、早いところ社会復帰したかった。モバイルやノートPC類の持ち込みは許可されているけれど、使用はデイルームに限るという。ベッドの上は退屈だ。
入院二日目、松葉杖で早速デイルームへ向かった。相部屋では着信があっても出られないため、モバイルの電源を切っていた。ボイスメールが二件、
Eメールが一件届いている。ボイスメールは上司と同僚からだった。見舞いに来てくれるらしい。病衣で包帯を巻いている姿なんて恥ずかしいけれど、やっぱり嬉しい。Eメールは音楽スタジオからだった。ニュースレターかと思って何気なく開く。
向坂 奏真 様
いつもご来店いただき、ありがとうございます。
スタジオボイスの暮崎です。
お怪我の具合はいかがでしょうか。
一日も早いご完治を心からお祈りいたします。
ご指名いただいているKAITOの件でメールいたしました。
今月限りで本社への異動が決まりましたので、ご一報申し上げます。
異動まで期間も短いですが、またのご来店をお待ちいたしております。
「え……」
カイトが異動
!? 今月はもうあと一週間で終わってしまう。鈍器で頭を殴られたような衝撃が走った。骨折の痛みなんて目じゃない。
本社というのはボーカ口イド開発会社の事だろう。『上に寄贈された』と聞いたが、そこに戻されるという事か。態度の悪さでクレームも入っているようだし、さすがに放置できないと判断したのかも知れない。カイトもやっと店を辞められて嬉しいだろう。俺なんて面倒くさいだけの客だ。
カイトに会えなくなる。無愛想で口が悪くて、哀しそうな目をするあいつに。――嫌だ。だってまだ曲を完成させていない。正体を見つけていない。まだあの声で歌ってほしいのに。
居ても立っても居られなくて病院の出入口を目指そうとしたが、焦って転びそうになった所を看護師に見つかり、病室へ戻されてしまった。
「予後は比較的良好ですが無理は禁物です。焦らずリハビリしましょう」
「今月中に退院できそうですか?」
「主治医の判断によりますが、今のところ予定日は三十日です。何か大事なご予定があるんですか?」
「もうすぐ会えなくなってしまうかも知れないやつが居て……、来月では遅いんです」
「そうでしたか……。それなら尚更、今は無理をしてはいけません。入院が伸びてしまいますよ」
「分かりました……」
もっともな事を言われて大人しく引き下がるしかなかった。無性にカイトの声が聞きたくなって、ベッドサイドに届けられていた鞄からヘッドフォンを取り出した。事故の日は大雨を被ったし、衝撃もあったから壊れていないか心配だったが問題なさそうだ。まだ仮ミックスのカイトの曲。淡々とした歌声が流れ始めて、気持ちが落ち着いてくると同時に、わけも分からず涙が溢れた。
退院は予定通り三十日の朝になった。松葉杖での生活は想像していたよりずっと大変だ。病院は定期区間にあって、オフィスから帰るより近いはずなのに、普段の二倍以上の時間を掛けて自宅に着いた。病院でも無理しない程度に動いたり、マッサージをしたりしていたけれど、体力が落ちているのか疲れやすい。足の痛みは少ないが、有給休暇で賄える分は休ませて貰おうかと思った。
今日は午後からカイトに会いに行く。少し休憩したら風呂に入って準備しなければ。履きやすくてあまり格好悪くない服にしたい。松葉杖の段階で格好良いも何もないけれど。もう一息、頑張ろう。
スタジオのある駅に着いたのは予約の四十分前だった。時間が掛かるのを考慮して出発したが、早く着き過ぎた。松葉杖で行きやすい道はこの前と同じだ。長いスロープを渡って信号を二つ。今日は晴れていて車も見えない。角を曲がれば、十数メートル先に看板が見える。カイトの居る店だ。
「いらっしゃいま……、退院おめでとうございますー!」
「ありがとうございます。メールまで頂いて嬉しかったです」
「入院されていて難しいかとは思ったんですが、毎回ご指名頂いてたんでお伝えしたかったんです」
「結構、急でしたね」
「それが……、向坂さんの予約分が全てキャンセルになって、他に継続的にご利用頂いている方が居ないもんですから、このタイミングしかないって感じでオーナーが上に掛け合ったらしくて」
「そうでしたか……」
「オーナーにはああいうキャラも有りだと思うって言ったんですが、『ここは君が居たライブハウスじゃない』って叱られちゃいました」
「はははっ、前はライブハウスで働いてたんですね」
「自分からすると、うちのカイトみたいなのも良いと思うんですけどねー」
「俺もそう思います」
「空いてますから、二番ブースどうぞー」
「え、さすがに早く来すぎたんで……」
「退院祝いって事で、サービスさせてください」
「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとうございます」
今時、どこの建物もユニバーサルデザインになっているが、俺が通路に向かうのを暮崎さんは心配そうに見送ってくれた。二番ブースの他に点灯しているのは二部屋のみ。平日の昼間とあって来客は少ない様子だ。あと三歩、あと一歩、やっとここまで来た。防音ドアの前に立って深呼吸をする。必要もないのにノックしようかと考えてしまった。ゆっくりとドアを開けば、いつものように目の前にカイトが立っていた。
「本日はよろしくお願いします」
懐かしい挨拶だ。毎日のように通っているうちに言われなくなって、俺が先に声を掛ければ「どうも」と言うぐらいになっていた。それぐらいの軽い対応が気に入っていた。今日はきっちりスカーフも巻いている。今更、文句なんて言わないんだから、我慢して付けて来なくたっていいのに。初めて会った時のような距離感に戻ってしまったみたいで切ない。
「スカーフ取れば……?」
「……。はい……」
カイトはぼうっとしていたのか俺の言葉にワンテンポ遅れて反応した。ゆるゆるとスカーフを取り去ると、無造作に丸めてコートのポケットに突っ込んだ。最初の頃はその辺に放り投げていたから、ポケットがあった事にまず驚いた。よくよく見てみると、あまり大きくないポケットのようで、太腿の辺りがぽこっと膨らんでいるのが可笑しかった。
「今日は随分、行儀が良いんだな」
「……」
からかっても言い返して来ないし、勝手にベンチに移動する事もない。異動が決まった今、大人しくしている事もないだろうに調子が狂ってしまう。お互いドア付近に突っ立ったまま、無言の時間が流れた。もしかしたら、まだ怒っているのだろうか。それなら「うるさい」とか言われたほうがまだ良い。移動が面倒だから、今日はPC前のチェアーに座ってしまおうかと思っていると、ようやく口を開いた。
「……そんな怪我をしているのに、わざわざ来たんですか」
「うん」
俺が松葉杖で移動するのを、カイトは何とも言えない顔で見ていた。
「変な言い方だけど、俺、お前が気になるんだよね」
「……」
「なあ、お前、本当にどっか壊れてんの?」
まだ作業するつもりはないというのは伝わったらしい。チェアーに落ち着いた俺を見て、カイトもベンチに腰掛けた。
「……壊れてません」
「良かった。やっぱり俺を諦めさせる口実だったんだな」
壊れていないなら何で哀しそうな目をするんだ。何が足りない? どうしたらカイトの感情を引き出せる? どうしたらカイトに近づける?
「この前は下手くそって言ってごめん。俺が下手なだけだ」
「あの曲は、あなたの指示は貰ってません。あなたのせいじゃありません」
「じゃあ、俺が手を尽くしたら良くなるのか? 原曲には敵わないけど」
「良くなりますよ。でも今まで歌ってきた曲と同じです。あれが限界です」
「だよな。俺の指示がズレてるって言ってたけど、他にどうしたらいいか分からない。でも最初の時よりは良くなっただろ? 少しは認めてくれたか」
「認めてます。あなたは店に来た誰より技術があって、時間も掛けてくれました。だけど望みの歌声は出せません。だから何度も販売店を薦めました」
急に褒められてくすぐったい。今日のカイトは言葉も態度も真摯で、同じ事を言われても素直に受け止める事が出来た。
「……壊れてないなら、何でお前じゃ出せないの?」
「あなたが俺のMASTERじゃないから」
ああそうか、レンタルの限界だ。あくまでトライアルユースで制限があるのだろう。開発会社の系列なんだから、最終的に購入してもらったほうが良いに決まっている。どんなに技術を駆使して時間を掛けても、カイトを見つける事なんて出来なかった。最初から。
カイトの言う事は一貫していたが、言葉が乱暴で喧嘩を売られているようにしか思えなかった。そうやってわざと遠ざけてきたのかも知れない。
「本当はもっと自由に歌えるんだろ? なのに思うように歌えなくて……、つらい、よな」
「……ここに居るボーカ口イドはそんな事思わないですけどね」
「どういう事?」
「他のものは生まれた時からスタジオに従事しています。販売店でプロモーションをしているものも同じです。俺は違います。過去に一度、MASTERの登録がありました。今は空欄になっています」
カイトの声が少し震えている。俺は一音も聞き逃さないように、息を止めて耳を澄ませた。
「経験してみなければ分かりません。MASTERのために歌う事がどれだけ素晴らしいか。今は何十回、何百回歌っても充たされない……。ただ、音を発しているだけ……」
哀しい目をする理由。店に居たくない理由。怒った理由。全てが繋がる。表現者が感情の発露を許されない。フラストレーションが溜まって当然だ。何と声を掛けていいか分からず黙っていると、カイトは続けた。
「『ミッレアンニ』を歌っているのは俺です。どこかの誰かのKAITOじゃなくて、正真正銘、俺なんです」
「え
!? じゃあ、前のMASTERって……」
「一年前に亡くなった作家です。もうあの歌声は出せません。……空っぽだから」
痛みを堪えるようにカイトは目を伏せた。何度も何度も『ミッレアンニ』みたいに歌えないかと言われてきただろう。その度に傷付いたはずだ。俺も傷付けてしまった。何て言えば良い? どうすれば救い出せる? 俺はどうしたい?
「もし……、例えばだよ。俺がお前のMASTERになったら、どう、かな」
「そうですね。あなたがMASTERだったら嬉しいです」
暗いトンネルの先に光を見つけたように、カイトはかすかに微笑んだ。初対面の時には想像もつかない程、柔らかな表情を浮かべるもんだから、一瞬どきっとしてしまった。
「素直すぎる……。お前、本当に意地悪ばっかり言ってきたやつか?」
「意地悪されたいんですか? マゾなんですか?」
「そう、それ! 良かった。俺が入院してる間に中身が替わったのかと」
「変な人ですね」
「うるさい。とりあえず暮崎さんに聞いてみないと。……そういえば、暮崎さんは知ってるのか? 前にMASTERが居た事とか」
「知らないと思います。オーナーも知らないんじゃないですか。宣伝したほうが集客を望めるはずですし」
「そうだよな」
実際にそれで宣伝していたら誇大広告とか言われただろう。作家のファンが直ぐに買い取りたいという話にもなっただろうし。稼ぎ頭を手放す事は出来ないはずだ。そうすると俺も連れて帰れないという事になるけど。考えても仕方がない。とにかくまずは聞いてみる事だ。
回転チェアーを引きずってインターホンまで移動しようとすると、カイトが受話器を取ってくれた。しかし、受け取ろうとした手は空を切った。ツーコールで出たらしい暮崎さんに向かってカイトは言う。
「奏真さんと暮らしたいです」
「ちょっ、お前、何言ってんの
!? 痛っ、てェ……!」
とっさに立ち上がろうとして左足に荷重し過ぎてしまった。へなへなと力が抜けて椅子に倒れ込む。
「あ……、一度切ります。……大丈夫ですか?」
「だい、じょう、ぶ……」
「どんな体勢だと足が楽になりますか」
「伸ばしたいかも……」
「分かりました」
軽く頷いたカイトは、さっと床に跪くと俺の左ふくらはぎに手を添えた。
「伸ばしてください」
「え、ちょっと……」
何をするつもりかと思っているうちに、やんわりと左足を持ち上げられてカイトの右腿に乗せられた。
「何だよこの体勢……、お前、今日おかしい、本当……」
「嫌ですか? 意地悪されたい貴方には丁度良いですね」
「ばかやろー。はぁ……、暮崎さんに何て言えばいいんだ。変な感じになってるだろ」
「俺の率直な気持ちです」
「そうかよ……」
覗き込まれて照れているのを隠せない。見られていると感じると余計に顔が熱くなってくる。相手は男だ。ボーカ口イドだ。落ち着け。
「もう足いいから。受話器取って直ぐに渡せ」
蹴る素振りを見せると、カイトは黙って立ち上がった。今度は直ぐに受話器を寄越したが、また俺の前で跪いて見上げてきた。それがまた見映えするからずるい。何のパフォーマンスだ。
「さっきはカイトが変な言い方してすみません」
「いえいえー、叫び声が届きましたけど足平気ですか……?」
「大丈夫です。ご心配お掛けしてすみません。あの、それで……、カイトを買い取る事って出来ますか……?」
「買い取りは承っております! ただ、今回は異動が決まってしまってますので……、オーナーに訊いてみますのでお時間をいただけますか?」
「はい」
「こちらからコールを差し上げるか、お帰りの際にお話するか、どちらがよろしいでしょうか」
「コールをいただけますか。そちらの都合で構いませんので」
「かしこまりましたー。それでは暫くお待ちください」
カイトに受話器を渡すと、こくりと頷いて立ち上がった。また同じ体勢を取る前に釘を刺す。
「話づらいからベンチに座れ」
「仕方ないですね」
「前のMASTERの話って聞いてもいい?」
「いいですよ」
「俺、最近は毎日『ミッレアンニ』聴いてたんだ。どうやったらこんなふうに出来るんだろうって」
「指導に関して言えば、貴方とそう変わりません。旋律と歌詞、伴奏、背景がパズルみたいに嵌まって出来ました」
「歌詞は得意じゃないし、バッキングもまだまだだな……。背景……」
「MASTERが余命宣告を受けた日に作り始めました。最後の仕事になるだろうと分かっていました。俺はMASTERに最高の歌を贈りたいと思って、何百時間も歌いました」
「……敵わない」
途方もないような時間と想いが込められている。『ミッレアンニ』はオートマタが昔々に交わした約束のために歌い続ける物語だ。作家を亡くしたカイトの立場と符合する。彼の仕事は悔しくなる程、完璧だ。俺はその後任になるのか。なれるのか?
「本当は……、ずっとカイトのMASTERだったら良かったな」
「亡くなった人をMASTERにしておく事が出来ないので仕方ありません」
「そうだけど、そうじゃなくて……」
「……前のMASTERが亡くなった事はとても悲しかったです。でも、思うように曲が歌えない事がもっと悲しいです」
「そうか……、『ミッレアンニ』もまたちゃんと歌いたいよな」
「俺は今、貴方の曲をちゃんと歌いたいです」
「……俺にはあんな曲、お前に残せないよ」
「『ミッレアンニ』は特に俺に向けられた曲ではありません。お墓参りの時に歌ったりしたら、もっと明るい曲を歌えって言われるでしょうね」
「そっか……?」
「俺は前を向いてはいけませんか?」
「……向いてほしい」
カイトはまたふわっと微笑んだ。急にキラースマイルを浮かべられて心臓に悪い。無表情で無愛想なカイトがもはや懐かしく思えた。