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7

 「明日行く」と言われてから四日が過ぎた。その間に訪ねてきた人といえば宅配員のみ。それも自分が購入した食料品を届けてもらっただけだ。
 当日、何時に来られそうだという連絡がなかったため、外出できなくなったのだろうという予感はした。夜十時になって発信元不明のメールが来た。

 マスター。今日は行けなくなってしまいました。また連絡します。

 モバイルではなく、脳内ネットワークから送ってきたものだ。モバイルを操作する時間もなかったのか、陽乃さんの気が変わってモバイルを取り上げられてしまったのかは定かではない。一応、「仕事頑張れ」といった当たり障りのないEメールを送ったが、モバイルからの返信はなかった。
 次の日も同じ時間にメールが来た。

 マスター。昨日からずっと歌い続けてます。貴方の事を思ってます。

 それが比喩なのかは分からない。だけど、短文を送るだけで精一杯なのかと考えるとありえない話ではない。二十四時間以上ずっと、今もカイトは歌い続けているのだろうか。ボーカ口イドなら可能だ。だからといってそんな指示を出す気にはならない。陽乃さんに命令されたのか。少しぞっとした。
 また次の日、短いメールが届いた。

 マスター。マスター。マスター。俺の感情は貴方のものです。

 俺がまだ違うと言ってもカイトは俺を「マスター」と呼ぶ。MASTERは絶対的な存在だと言われた言葉を思い出した。カイトは自分に言い聞かせて抗おうとしているのかも知れない。何度も繰り返される文字列は悲鳴のようだ。返事が出来ないのが悲しい。「俺もカイトの事を考えてるよ」と言ってやりたかった。
 昨日も同じようにメールは届いた。

 貴方の声が聞きたい。会いたい。忘れたくありません。

 「マスター」の文字列は無くなっていた。それが普通なのに不安になる。忘れたくないという言葉が恐ろしかった。人間の記憶も曖昧だけど、ボーカ口イドの場合はほぼ全て無くしてしまえる。MASTERに言われたら部外者の俺の事なんて忘れてしまうのか? 「忘れないでほしい」と言ってスカーフを寄越したのはカイトなのに。
 カイトの頭の中にメールを送れたらよかった。前は茶化してしまったが、今は同じ気持ちだ。忘れないでほしい。ただ待つしか出来ないのが悔しい。
 明日で有給休暇が終わる。日中の自由な時間はいっきに減ってしまう。夜でも夜中でも会えるなら会いたい。モバイルからのメールはいまだに届いていなかった。まさかまだ歌い続けているのか。もしも、俺を忘れるまで歌い続けろと命令されていたとしたら――、考えたくない。
 時計は午後十一時を回っていた。日付が変わろうとしているのに短文メールすら来ていない。胸騒ぎがして何をしていても落ち着かなかった。今日はきっと短文を送る余裕もなかっただけだ。いくらボーカ口イドでも休息なしに働いていたら疲れるだろう。明日の昼にくれるかも知れないし、明後日かも知れない。覚えていてくれたらそれでいい。今、視界が滲むのを笑い話に出来る日がくればいいから。


 仕事に復帰して一週間経った。上司は半日で帰らせてくれようとするし、同僚も「病み上がりで疲れるだろ」と気遣ってくれるが、仕事に集中していればカイトの事を考えなくて済むからよかった。連絡はずっと来ていない。こちらから送っても返事はなかった。最悪の事を考えるのはやめにした。
 それから一月が過ぎるのはあっという間だった。リハビリは三分の一荷重を始めた。亀のような遅さでしか進めないけれど、両足で歩ける感覚が嬉しかった。夕方帰宅して一息ついた時、モバイルが光った。Eメール着信だ。どこからだ? 家に居ると思考が鈍る。タイトルが付いていてカイトではないと直ぐに分かった。いつものニュースレターだと思いながら開いた。


 向坂 奏真 様

 いつも弊社サービスをご利用いただき、厚く御礼申し上げます。
 BELLOWS総務部の昼谷でございます。

 スタジオボイスに所属していたKAITOの件でご連絡いたしました。
 ご購入をご希望いただき、誠にありがとうございます。

 当該KAITOは現在、
 「一部記憶がロックされている状態」になっております。
 これは故障とは異なり、ボーカ口イド自身の意思で行われるものです。
 一時的なもので、契機があればアクセス可能になります。
 開錠処置は記憶破損の恐れがあるため、施しておりません。

 上記内容をご了承いただける場合は、
 明日よりご希望のリユース店においてお手続きをしていただけます。
 見積書を添付いたしますので、よろしくご査収ください。

 折り返しお返事をいただきたくお願い申し上げます。


「え……」

 見間違えではないかと思って何度も読み直したが、明日にも引き取れると書いてある。気になる事も記されていた。一部記憶がロックされている状態――? 嫌な予感がした。たぶん、おそらく、俺に関する事ではないか。そうすると今は俺の事を思い出せないという事になる。メールが途切れたのはそのせいだろうか。カイトはそうまでして抵抗したんだ。早くても半年と言われた契約期間が一ヵ月半で終了した。嬉しいはずなのに実感が沸かない。
 見積もりを確認したが、想定していた金額よりもかなり低く設定されていた。価格は大きくわけて三種類ある。販売店で新規購入した場合、リユース店で初期化した場合、同じく記憶保持の場合だ。記憶保持が一番低価格で、本来それに該当するはずだったが値引きされていた。
 明日、迎えに行こう。もしも俺の事を思い出せないようでも、忘れたわけではないはずだ。何か切っ掛けがあれば記憶が戻る。またたわい無い話ができる日が来ると信じる。


 終業後、カイトが待機しているというリユース店に向かった。会うのが楽しみなような、怖いような複雑な心境だった。店内に入ると、近くに居たボーカ口イドたちが「こんばんは」と声を掛けてきた。愛想良くふるまう余裕がなくて、スタッフの居るほうへ一直線に向かおうとすると道を開けてくれた。カイトを引き取りに来た旨を伝えると、「お待ちしておりました」と言われて奥の控え室へ通された。スライドドアが開かれ、まずはスーツ姿の男性が目に入った。ソファで座っていたカイトも遅れて立ち上がる。スカーフを巻いていた。

「どうぞ、お掛けください。メールを差し上げました昼谷と申します。お怪我をされていたとは知らず、お呼び立てしてしまい申し訳ございません」
「カイトの購入のために伺いましたので、お気になさらないでください」
「恐れ入ります。カイト、これからご登録いただく向坂奏真様です」
「初めまして、奏真さん」
「……!」

 まるで初対面のような態度だ。今までで一番ショックを受けた。本当に俺の事を思い出せなくなっている。音楽スタジオで初めて会った時の印象に近い。無表情で無愛想、良くいえばクール。しばらく呆然としていた。昼谷さんの「いかがされますか」という声で我に返った。

「……手続きをお願いします」
「かしこまりました」

 その後、ボーカ口イドに関する事をいろいろ説明されたが全く頭に入って来なかった。サイトのユーザーページでも確認できると言われたのでそれだけ憶えた。最後に「よろしければ車でお送りします」という提案もいただいたが断った。
 カイトを連れて帰れる。今日は最高の日のはずなのに胸がきしきしと痛んだ。肋骨が折れているのかも知れない。何を話したらいいか分からなくて、お互い無言のまま帰宅した。玄関先でカイトは「奏真さん、お疲れ様です」と言ってきた。事務的な挨拶だ。

「急だったから全然準備してなくてごめん。直ぐにベッドとか手配するから今日はソファで休んでくれ」
「はい」

 何だかどっと疲れた。だけどやらなければならない事は多い。回転チェアーに落ち着いて考え始めた。まず、この1LDKをどう配分するか。寝室にしている部屋は六畳。荷物は少ないほうだから、もう一つベッドを入れる事は出来るが、完全に寝るだけの部屋になる。リビングダイニングは十二畳。ダイニングテーブルを置かずに、二畳の防音ルームを設置している。カイトの寝場所のために防音ルームを撤去するのは本末転倒だ。かといってこれ以上リビングを区切ったら狭すぎる。やっぱり寝室にベッドを増やすのがいいだろう。二段ベッドに買い換えればスペースも減らない。

「そのうち引っ越すのも考えるけど、しばらくは同じ部屋になる」
「俺、部屋もベッドもなくていいですよ」
「ずっとソファで休むのは無し。お前が気にならなくても俺が気になる」
「ありがとうございます」
「……」

 何というか会話の距離感が遠い。じっと見つめるとカイトも見つめ返してきた。視線が絡み合う。ほんの一ヶ月前だ。俺を捕えて「縛ってください」と言ってきたのは。今日やっと俺がMASTERになったのに。

「俺の事、思い出せよ……」
「奏真さん」
「……。それ……、なんで名前で呼ぶんだ?」
「どう呼べばいいですか?」
「マスター、……って言ってくれたんだ、前は」
「マスター」
「そう……、もう一回」
「マスター」
「……っ」

 響きが全然違う。棒読みだ。仕方なく言っているような感すらあった。いちいち動揺していたら身が持たないのに悲しかった。

「……スカーフ外せよ。そうだ、お前にスカーフ渡されたんだ。持っていてくれって。『忘れないでほしい』って言ってきた」
「……」

 くしゃくしゃのスカーフを見せてやっても無反応。こいつは元々、首に巻くのを鬱陶しそうにしていたし、困惑されても仕方がない。だけど、ひとつひとつ思い出を辿っていくしかないんだ。

「なあ、俺の曲歌って。作り掛けのままなんだ。……俺のために歌って」
「はい」

 防音ルームに移動した。二畳しかない空間にキーボードとPCを置いているため、二人で入るともうぎりぎりだ。MASTERになってから初めて歌ってもらう。たった三十秒の前奏が終わるのが待ち遠しかった。カイトが歌い始めた。

「……♪ ……♪」

 同じ指示しかしていないのに、音楽スタジオで聞いた時よりずっと良い。カイトにとって初対面でも、MASTERの存在でこんなに変わるのか。
 俺の曲をちゃんと歌いたいと言ってくれたカイトは今、俺のために歌ってくれているのだろうか。MASTERに言われたから仕方なく歌っているのだろうか。俺の事を思い出したらもっと良くなるのだろうか。聴いてみたい。そしたら完成できるような気がした。

「なんか思い出さない?」
「……いいえ」
「そうだよな……。リビングに戻ろう」

 回転チェアーを引きずって移動する俺の後ろをカイトが付いて来る。こんな場面が前にもあった。

「……あのさ、変な事言うけど、床に片膝ついてくれない?」
「はい」

 その場でさっと跪いたカイトにちょっと感動した。相変わらず、様になるやつだ。これから俺は再現しなくちゃならない。自分からやるとなると勇気が要る。だけど躊躇っていても仕方がない。何でも仕掛けてみなければ始まらないから。

「悪い……、あのな、前にカイトがこうしてくれたわけ」

 左足を伸ばして、カイトの腿の上に乗せるという行儀の悪い格好をしてみせた。

「足が楽になりますか」
「ああ……、その時はな、楽になった」
「ずっとしていましょうか」
「ずっとは要らん。……やっぱりこの体勢おかしいし。もういい、ごめん」

 カイトは姿勢を維持したまま、じっと見上げてきた。言動や行動自体はそんなに変わっていない。ただ、俺の思い出だけが閉じ込められている。そこからカイトを引きずり出してやりたい。次に出来る事を考えた。

「あの……、えーと……、その、さ……」
「はい……?」
「……。……っ、……抱き締めて、ほしいんだ、けど……」

 言葉にするのが恥ずかしすぎる。椅子から降りて、自分から抱き付けばよかったとすら思った。居た堪れなくなってきて横を向いた途端、視界に影が差した。あっと思う間もなく正面から抱き締められていた。

「っ……」
「これでいいですか」
「ん……、マスターって」
「マスター」
「フッ、棒読みめ」
「……」
「顔が見たい……」

 頬にキスすると「え?」という顔をしたから、「挨拶だ」と言ったらやり返された。その後、覚悟を決めて形の良い唇にそっと口付けた。カイトは最初じっとしていたけれど、そのうち同じように食んだり舐めたりしてきた。これだけではまだ足りない。舌を入れてもっと深く。ここまで来たらやるしかない。


8

 唇の触れ合う感覚はイヤじゃなくて何度か繰り返した。カイトにとってどうかは知らないが、挨拶の限度はとっくに超えている。俺はカイトが好きなのかなと、かすかに考えた。ただ、今は記憶を戻すための儀式だ。
 上唇をねぶりながら前歯をつついた。舌を入れたいと伝わったらしい。カイトはゆっくりと口を開き、赤い舌を覗かせた。おそるおそる侵入して舌の裏に滑り込ませれば、上から擦り付けるように絡ませてきた。

「ん……、っ……、ぅ……」

 互いに舌をくるくると動かしながら戯れる。イヤじゃないどころか気持ちいいとさえ思っている。後戻りするなら今の内だ。もうやめたほうがいい。終わりの合図にカイトの肩を押した。余韻を残したまま、暫し見つめ合う。熱のこもった視線。色っぽい表情にどきどきした。

「前もこんなの、したよな……?」

 ここまですれば思い出せるのではないかと淡い期待を抱いた。
 カイトは俺の顔を見つめたまま、目を細めた。記憶を辿っているようだ。『貴方の事を何よりも憶えていたい』と言われた。それから深い口付けをした。しかし、明確に否定はしないものの考え込んでしまった。

「そっか……、焦らないでゆっくり、思い出せばいいよな……」

 何がトリガーになるかなんて分からない。今すぐじゃなくても、そのうち思い出してくれるはずだ。記憶を失くしたわけではないんだから悲観する事もない。なのに、なんで視界がぼやけるんだろう。

「離してくれ……」

 鼻の奥がつんとする。これ以上顔を見られたくない。椅子を回して振り解こうとしたけれど、カイトが押さえつけてきて動けなかった。謎の強引さは変わっていない。
 格好悪いとかどうでもよくなってきて、そのままぼろぼろ泣いていたらカイトが頬を舐めてきた。驚いて体が仰け反る。後頭部を支えられ、頬を伝うしずくを舐め取られた。目の縁に溜まっている分も丁寧に舐め取っていく。何だかもうよく分からない。俺は慰められているのか。されるがままじっとしていた。

「かいと……」
「ごめんなさい」
「いいよ……」

 涙が落ち着くと今度はカイトからキスしてきた。下唇、上唇と順に食まれる。舌が入ってきたかと思うと好き勝手に動き始めた。形を確かめるように歯列をなぞっていく。上顎の裏を舐められるとぞくぞくした。麻痺したような感覚になってぼんやりしていると、舌をカイトの唇で挟まれて、そのまま吸い上げられた。

「んうっ……、ハ……、ぁ……」

 やばい。今のはかなり来た。体がじわりと熱くなる。これ以上続けるのはマズい。とっさに肩を押したがやめてくれなかった。再び舌を絡まされるとじんと切なくなって、甘えたような声を漏らしてしまった。

「っ、ふ、ぅ……、カぃ……っ、待……て……、スト、ップ……」
「……」
「もうこれぐらいで……、うぁっ、やめろ……っ」
「危ないですよ」

 胯座を撫でられて腰が引けた。勢いで後方へ滑り出した椅子をカイトが止める。この際、起ってしまったのは仕方ない。それに気づかれたのも仕方ない。だけど撫でる事ないだろう。

「と、トイレ行くから……」
「俺に触らせてください」
「は!? むりむりむり! キスして悪かったよ。ちょっとやりすぎた」
「貴方の感触をください」
「……!」

 ハッとした。前にも全く同じ事を言われた。もしかしたら思い出し掛けているのか。だからといって、それならどうぞというわけにもいかない。どうしたらいいんだ。

「わ、分かった。もう一度キスしようか……」
「キスしていいですか?」
「ああ……」

 正直、今の状態でキスを続けるのも避けたかったが、一切触るなと言うのも躊躇われた。精一杯譲歩したつもりだ。

「その椅子、動いて危ないので移動しましょう」
「あー……、え……、え!?

 急に体が宙に浮いて混乱した。カイトに抱き上げられたようだ。これでも体重六十キログラム以上あるのに、軽く持ち上げられて唖然とする。

「お前、介護とか出来ないだろ!?
「落とさないので安心してください。楽器も運べなくては困りますから」

 余裕そうに見えるけれど、持ち運びできる楽器とはわけが違う。放り投げられるのも覚悟したが、ソファに慎重に下ろされた。驚きと心配で軽く萎えたので良しとする。
 カイトも隣に座り、顔を寄せてきた。キス。舌を入れられないように口を閉じていたら、唇をべろべろ舐め回された。どこの犬だ。俺のカイトだ。

「口開けてください」
「……」

 喋ったら二の舞だ。首を振って意思表示したが顎を掴まれた。穏やかじゃない。抵抗むなしくこじ開けられて舌が侵入してきた。手段は荒っぽいくせに舌使いは優しいから絆されてしまう。カイトとキスしていると、ぼうっとしてくるからダメだ。

「ん、ん……、……ぁ、っ……、はぁ、っ……!」

 つい油断してしまった。再び局部を撫でられて堪らず声を上げた。握手だと言って拘束しておけばよかった。今更、払い除けようとしても敵わない。

「待、て……、待てって……、それはだめだ……」
「どうして?」
「どうしてって……、お前にさせるような事じゃないし……」
「俺が触りたいんです」
「いくらなんでもこれは……、っ、だめ……っは、あ……」
「いいですよね」
「バカっ……」

 引き返せないところまで来てしまった。体を離そうとすれば、腰に腕を回されてガードされる。左足にも力を入れられないし、追い詰められている。

「ベルト外してください」
「は!? いやいやいや、自分で何とかするから。手を離せ」

 何、ストリップさせようとしてるんだこいつ。両肩を目一杯押してもカイトの抵抗する力の方が強い。俺だってそんな非力なつもりはなかったのに、まるで歯が立たなくて参った。
 カイトは俺のベルトを外しに掛かっているが、もたもたしていて手付きが覚束ない。それは不器用なのかと思うと可笑しかった。

「ほら、もういいだろ。離れろよ」
「まだ……、待ってください」
「ちょっ、うわ、うぁ……、……ッ!  ほんともうっ……、あ、っ!」

 ベルトを外すのは諦めたようだ。さっとジッパーを下ろされ、当然のように手を突っ込んできた。じかに握り込まれた瞬間、背をしならせた。そのままするすると摩擦され始めて、やめさせようとする気持ちが失せていく。

「……っ、……ハ、っは……、ん……、ぅ……」
「もっと強くしましょうか」
「バッカ、苦し……、くそ……っ」

 下着もよごれそうだし、ボトムの金具が当たって痛い。もうなるようになれと思って自らベルトに手を掛けた。気が付いたカイトが手を止める。外し終わるのを待っているようだ。恥ずかしい。前を寛げるとカイトに下着をおろされた。すっかり起ち上がった自身をじっと見られて顔が熱くなる。何でこいつに下半身を晒してるんだろうと思った。だけど、直ぐに考えている余裕はなくなった。カイトが局部に顔を寄せてきたからだ。

「待てっ、ばか、やめろっ…… 、ッは……、っ……、あ、あぁ……」

 信じられない。何の躊躇いもなく口に含まれた。生温い感触に包まれてくらくらする。そのまま両手で擦られながら、ちゅっちゅっと吸われると全身が歓喜に打ちふるえた。

「はぁ……っ、あ……、ん……、うぅ……っ」
「ひもちいれすか、ますた」
「ッしゃべ、ん、ぁ……、も、離して、や……」
「らして、い……です、よ……」
「そ……なこと、……っできな……」

 考え事をしてやり過ごそうとしても、与えられる刺激に目が眩んだ。頭の中までぐずぐずだ。快楽の虜になろうとしている。構っていられなくて後頭部の髪を乱暴に引っ張った。カイトは対抗するかのように喉奥まで咥え込んできた。先端が柔らかい粘膜にあたって擦れる。同時にずずっと吸われて、火花が散った。

「……! ……っだ、め……、ん、く……、あ、あぁあ……っ」
「ん……」

 足ががくがくするほど強烈な快楽に飲み込まれる。抗うすべもなく劣情を噴出させた。バカみたいに気持ちよくて息が整うまで惚けていた。カイトが頬に触れてきたところで我に返った。

「可愛いです」
「っ……、待て……、お前、口の中のもんどうした……?」
「飲みましたよ」
「飲んだっ!? 吐き出せ……!」

 口元を汚したまま平然と答えるカイトに目眩がした。慌ててティシューを三枚も四枚も押し付ける。カイトは少しも服が乱れていないのに、俺は陰部を晒したままだ。急に恥ずかしくなってきた。

「こんな事させるために迎えたわけじゃないぞ……」

 ずり落ちていた下着やボトムを整えようとしたが、カイトの手に阻まれた。まだ触るつもりかと様子を窺うと、うっすらと微笑を浮かべていた。

「……俺は今、もっとしたいって思ってますけど」
「え……、っ……!」

 カイトはソファから立ち上がり、空いたスペースに俺の体を押し倒した。事態が飲み込めないうちに馬乗りにされて、ようやく気が付いた。カイトも起っている事に。

「そ、そっか……。そうだよな。今度は俺がしてやるから……」

 退いてほしいというか、擦り付けないでほしいというか。カイトは俺の提案を聞いているのかいないのか、両手に指を絡めて握ってきた。何だよこの繋ぎ方。恋人同士みたいだ。そのまま顔を寄せてきた。キスがしたいのか?

「マスター」
「なに……」
「マスタぁ……」
「カイト……?」
「やっと……、やっと貴方のものになれました……」
「……!」

 今なんて言った? カイトは俺の額に口付けた。続けて頬に。唇にも触れるだけのキスをした。その後、背中に腕を回されてきつく抱き締められた。

「っ……カイト……、思い出した……?」
「……。……貴方を抱けば、思い出せるかも知れません」
「おい、今考えただろそれ……」
「……」
「なあ、俺たちどこで知り合ったっけ……?」
「……今日十七時四十六分、NR466沿いのリユース店で出逢いました」
「その設定もういいから! お前に初めましてって言われてすげーショックだった!」

 カイトの背中をばしっと叩くと小さく呻き、困ったような顔をした。

「すみません。貴方に関する記憶を保護するために鍵を掛けました」
「それで俺の事、思い出せないんだもんなあ……」
「泣かせてしまって心苦しい気持ちと、嬉しい気持ちが混在してます」
「言うなよ、恥ずかし……」
「会いたかったです、マスタァ……っ」
「俺も……」

 マスターと呼ぶ声は切なさと甘さを含んで、すっと耳に馴染んだ。胸が躍る。ようやくカイトを連れて帰ってきた実感が湧いてきた。再会の抱擁は痛いくらいでちょうどいい。
 暫くじっと抱き合っていた。その間ずっとカイトの熱が腹部に当たっていてそわそわした。

「な……、お前の、してやるから体起こして」
「……貴方の中に入りたいです」

 うっすらと感じていたが、やっぱり女役をさせたいらしい。しかし実際、言葉にされると衝撃的だ。

「む、むり……。お前の事はその……、好き、だと思う……けど」
「俺は、好きで、好きで……、好きで……、貴方にもっと触れたいです」

 カイトは自分の感情を確かめるように繰り返した。何度確かめても俺の事を好きだと言うようだった。濃藍の両目が俺を捕えて離さない。またあちこちにキスしてきた。今、カイトの全てが俺だけに向けられている。

「……。……カイトのしたいようにしてみろよ」

 そう言ってやると、カイトは感慨無量な面持ちで頷いた。また体を持ち上げられてバスルームへ移動した。あとでもう一度、歌ってもらおう。今夜はぐっすり眠れそうだ。


9

 点々と痕跡の残る敷布の上で、素足を絡ませて寝転がる。目の前には薄く笑みを浮かべたカイトの顔。先程まで熱を帯びていた両目は、今は落ち着いて俺を見つめている。このままくっ付いて眠るのもいいかも知れない。二段ベッドではなくて、セミダブルかダブルに買い替えよう。

「お前とこうしてるなんて、初対面の時には考えられないな」
「そうですね……。あの時はもう来ないだろうと思ってました」
「お前に喧嘩ふっかけられてな、フフッ」

 第二印象は愛想の欠片もないやつだった。ミッレアンニみたいに歌えないかと言ったら、『あんたには無理』とばっさり切り捨てられた。今なら何でそんな言い方をしたのか分かるけれど、あの時はカッとなってしまった。

「だけど翌日に来たので驚きました。この人、暇なんだなと――」
「おい」

 ふざけてカイトの鼻をつまむと「うー」と呻いた。こんな些細なやり取りも楽しい。

「そういえば、お前には意地悪ばっかり言われた気がする」
「……貴方は意地悪されたいんでしたっけ」
「しなくていいから」
「好きですよ」
「っ……」

 なぜ今の流れでその台詞が出てきたのか。突然、直球ストレートが飛んできて面食らう。

「……それは意地悪?」
「意地悪に聞こえますか」
「聞こえないけど……」
「困ってますか」
「……」
「ふふ……」

 なんて返せばいいか、まごついていたら小さく笑う声がした。やっぱり意地悪じゃないかと思ってしまう。別に嫌な気はしないけど。

「貴方も時々、告白じみた事を言ってきましたよね」
「え……、俺、何か言った?」
「俺の声が欲しいと」
「あー、……っ、よく考えたら恥ずかしいな……」
「貴方がマスターになってくれたらいいのに、と思うようになりました」
「その割には販売店勧めてきたよな。どんだけ歌いたくないんだと思った」
「買い取ってほしいなんて簡単に言えませんよ……」
「そっか……」
「最後の日に貴方が言ってくれて本当に嬉しかったです」

 あの日のようにカイトは柔く微笑んだ。淡い光がぽうっと灯されたような表情。その顔がとても愛しく思えた。

「俺、入院してる時にお前が異動するってメール貰って、このまま会えなくなったら嫌だなって思ったんだ。でもカイトにとって俺なんて面倒な客だろうし、店を辞められて嬉しいだろうなとか考えた。あの時、いろいろ話してくれただろ。お前が凄く辛そうで……、とっさにMASTERになりたいって思った」
「今は貴方の名前があって、貴方の事だけ考えていられます。幸せです」
「ん……、俺も、お前の事考えてるよ」
「俺のどんな事考えてるんですか?」
「え……! そ、それは、その……、話すの楽しいな、とか……」

 まさか具体的に訊いてくるとは思わなかった。他にもいろいろ思っている事はあるけれど、言葉に出来るのはこれぐらいだ。目を逸らしてもごもご言うと、カイトが頬を撫でてきた。今日散々に触られて気づいたが、頬に触れてくるのは顔が赤くなっている時だ。その後、言われる事も決まっている。

「可愛いです。俺も同じ事思ってますよ」
「っ……、くそ……っ」

 恥ずかしくなってカイトの胸に額を押し付けた。そのままじっとしていると後頭部を撫でられた。髪を梳くようにしながらゆっくりと掌が往復する。宥められているのか、甘やかされているのか分からない。ただ一つ言えるのは、カイトにされるのは好きだ。
 話題を変えようと思い、気になっていた事を訊いてみる。

「……なあ、陽乃さんになんて言われたんだ……?」
「アキノって誰ですか?」
「え……」

 はっとして顔を見つめたが、カイトはけろりと答える。

「冗談ですよ」
「冗談に聞こえないんだよ……」

 今度は陽乃の記憶をロックしたのか、失くしてしまったのかと思った。リユース店で「初めまして」と言われた時の衝撃がよみがえる。カイトの胸をこぶしで軽く叩くと、良くない事を言ったと気づいたらしい。

「すみません。もう考えたくない事だったので」
「そっか……」
「……お話します。陽乃が登録者になった翌日、収録が始まりました。一曲目は貴方を想って歌ってもOKを貰いました。MASTERを認めていないけれど、MASTERのために歌わなければならない。そういう苦悩が表現されているという事でした」
「うん……」
「二曲目の収録が始まった時、『私がマスターだと認めなさい』と言われました。何十回歌おうとOKは貰えませんでした。認めたくないと思っていたから当然ですね。陽乃のために歌おうとすると、貴方が遠くへ行ってしまうような感覚になるんです。恐ろしかったです……」
「……忘れたくないってメールくれたよな。俺も、怖かった……」
「俺、必死で……、すみません」
「いや……。カイトが辛そうなのに何も出来なくて悔しかったよ」
「陽乃は、俺が抵抗するのを楽しんでいる節がありました。そのまま歌い続けてもマイナス感情が増すだけだと思いました。だから……、貴方のものになりたいという感情ごと鍵を掛ける事にしました」
「俺の事を忘れないように、してくれたんだな……」
「はい……。そのせいで貴方からメールを貰っても反応できませんでした。陽乃に『カイトを待ってる人でしょ?』と言われても分からなくなっていました。……そんな人居ません、と言ったのを憶えています。それで陽乃は、俺を壊してしまったと思ったようです」
「それで陽乃さんの仕事はキャンセルになったのか……」
「いえ、仕事は完遂しました。一年間と言われたのは、それ以上の契約延長はしないという期限でした。EPを出せる曲数が揃えばよかったんです。だからその後、四曲収録して放免されました」
「そうだったのか……。頑張ったな、お疲れ様……っ」

 首に腕を回してぐっと引き寄せると、カイトは嬉しそうに微笑んだ。無表情で無愛想だったやつが、今では顔を綻ばせて全身から好き好きオーラを出しているのだから、何が起こるか分からないものだ。

「俺は貴方のものです」
「うん……、俺も、カイトのものだ」
「貴方が? 俺の?」
「そうだ。違うとは言わせない。人の中に入り込んでおいて」
「マスターっ……」

 カイトはまた強く抱き締めてきた。唇を軽く触れ合わせて確かめ合う。

「俺のマスター」
「ん……、俺のカイト。……フフッ」

 飽きもせずに何度もキスして、鼻を擦り合わせて笑った。

「後でまた歌ってほしい」
「後でいいんですか?」
「……。今でもいっか。このまま眠りたいし……」
「貴方を抱いたまま、貴方のために歌えるなんて最高ですね」
「じゃあ、歌って……」

 歌いやすいように少し体を離そうとしたが、カイトは構わず左耳に口付けてきた。すっと息を吸い込む音が続く。まさかその状態で歌うつもりか。

「……♪ ……♪」
「っ……」

 第一音を吹き込まれた瞬間、背筋がぞくっとして声を上げそうになった。今まで聴いてきたどの歌声よりも美しく、色鮮やかだ。一音、差し出されるたびにじわりと溶け出して頭の中を染めていく。カイトの声に侵される。全身が火照ってうまく息が出来ない。身を固めてじっと耐えていた。

「……マスター?」

 歌い終わっても何も言えなかった。押し寄せる感覚をやり過ごすので精一杯だ。気を抜けば、波に飲まれてしまう。ぎゅっと目を閉じたまま、浅い呼吸を繰り返していると、覗き込んでくる気配がした。

「何か分かんな、っ……、ぁ……」

 頬にキスされた拍子に背中をするりと撫でられた。ただそれだけなのに、俺の体は水を離れた魚みたいにビクッと跳ねた。心臓から血が溢れ出す。

「……俺の想い伝わりましたか。嬉しいです」
「っ……、は……」
「俺のマスター……」

 唇を食まれ、内腿に手を這わされたら、もう堪えられなかった。カイトにしがみ付いて「もっと」とねだっていた。思考が麻痺している。今日一日でバカになってしまったみたいだ。でも、今はカイトの事だけ考えていたい。それは甘くて幸せに満ちている。



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