|
指先が白鍵と黒鍵を往復している。南仏、海辺に程近い避暑地のバーでジャン・マルクはピアノを弾き続けていた。ホテルバーの女主人アガトが近づいてくる。「元気?」。夏に貯めた資金でこの冬も豪遊だそうである。羨ましい話だった。避暑客がいなくなれば契約は終了、無職に逆戻り。この冬も貧乏暮らしを強いられる羽目になる。何か手を打たなければならなかった。 |
知り合いの興行師から一通の手紙が届く。10月一杯トゥールーズで演奏できるピアニストを探しているそうだった。彼女のブリジットもダンサーとして雇って貰えるとか。好条件のオファーである。だがジャン・マルクは申し出を断ってしまう。「この冬一文無しで過ごすつもり?」、ブリジットが激怒していた。だがジャン・マルクは「大丈夫」と一人落ち着き払っていた。 |
9月31日。専属ピアニストとしての契約満了日、アガタに呼ばれたジャン・マルクは事務所に顔を出す。「明日出発?」、そう聞かれた男は「冬はこのホテルで過ごすつもりです」と答えた。不審気な顔をしている女主人に向け、「密告されたくはないでしょ」と言葉を付け加えた。2ヶ月前にアガタの夫が病死。自然死と思われていたが毒を盛ったのはジャン・マルクだった。「でも皆あなたが遺産目当てで殺したと思いますよね」。ジャン・マルクはアガタにそう脅しをかけていく… |
アルノーがフルーヴ社に残した初期作の一つ。好調に始まった脅迫劇は、女(アガト)=男(ジャン・マルク)=女(ブリジット)の三角関係の捩れから予想外の展開を取っていくのですが、途中でブリジットが姿を消してしまい「実は殺されているのでは?」のドキドキ感を生み出していきます。主要人物の「不在」はアルノーが得意とする型のひとつ(傑作大河SF『氷河年代記』では主人公が十数巻も失踪を続けていました)で、それが比較的初期から現れていた良い例となっています。
|
それ以上に驚かされたのが純愛の要素。主の物語は脅迫劇であり、登場する人物は(脇役を含め)汚れた生き様の連中ばかり。にも関わらず恋愛に関しては一途。サスペンス色を織りこんだ悪人純愛物語。作家の抱えこんだロマンティシズムが面白い味付けとなった佳篇です。
|
|