「・・・横島さん」
待ち人が敷地内に入ってきたのを感じ、人工幽霊壱号はそっとその名をつぶやく。横島は自分の所まで来てくれるだろうかと、不安になってしまう。彼は玄関の左脇に向かって、ゆっくりと歩いてくる。実際はそんなにゆっくりと動いているわけではないのだが、待ちこがれた人工幽霊壱号にとってはそう感じられる。
通風孔の前ではたと横島は立ち止まった。このまま引き返してしまうのではないかと、不安はますますかき立てられる。仮初めの身体ではあるが、心臓は大きく強く脈打ち、息は浅く速くなる。頭の中はかき混ぜられたようにぐるぐると回ってしまい、思考をまとめることができなかった。
いつもの聡明な彼女であれば、過去の経験から人の行動などたやすく予測できる。しかし、横島の事となると途端に冷静な判断を失ってしまうのであった。
粗末な小さい部屋を、ランプが薄暗く照らしている。彼女はただ、そこで待つ。
横島は、すっと通風孔へと手を伸ばしていった。その動きに何の躊躇も見られない。入り口の柵を外し、普段通りの、どこか間の抜けた顔を暗い穴の奥へと突っ込んだ。
このお人好しの青年にとってみれば、何も悩むことではない。仲間である人工幽霊壱号の願いを断るという選択肢は、彼の中では存在することすらも許されないのである。
(スイッチって言うのはこれか?)
通風孔に入ってすぐに、横島は闇の中に浮かぶ淡い光を発見した。他にボタンのような物もレバーのような物も見あたらないので、恐らくこれが彼女の言っていたスイッチなのだろう。
それは、今にも砕けて散ってしまいそうな弱々しい光であった。横島は光が消えてしまわないように、そっと手に収めた。
その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
ランプが煌々と輝きだしたことで、人工幽霊壱号は横島が自分の元へ向かっていることを知った。部屋は光で満ちあふれた。
自然と笑みがこぼれてくる。横島が来て明るくなるのは、部屋ばかりではないようだ。胸の高鳴りは未だに治まっていないが、先程と異なり嫌な感じはしなかった。もっとも何がどう違うのか、愛することを知らない彼女には解らなかった。
長い年月を経てぼろぼろになったベッドから立ち上がり、部屋の大きさに見合った小さな扉に身体を向けた。そして、静かに目を瞑って胸の前で手を組んだ。
「こちらへ」
横島へ短く呼びかける。
少しだけ、気持ちが落ち着いたような気がした。
気がついたら、横島は真っ暗闇の中にいた。ただの闇ではない。上下感覚もなくなり、宇宙のはてを漂っているかのようだった。寒いか暑いかもよく判らない、何とも気味の悪い空間であった。
自分というものが周りに溶け出して意識だけが残ったようで、そのまま消えてしまいそうな恐怖を味わっていた。
「こちらへ」
人工幽霊壱号の声と共に、自分の輪郭を取り戻し、コンクリートでできた階段が現れた。全く灯りがないのに自分の姿と白い階段だけがはっきりと見えた。
階段はどこまでも伸び、あたかも地の底まで続いているかのように思えた。彼女の言葉の通りに、勇気を持って一歩を踏み出した。
一段下りた瞬間であった。突然頭の中に、呪文のような物を唱えている中年の男の映像が、流れ込んできた。
その中年の表情は鬼気迫るものがあり、まさに全身全霊といった風である。
「これは一体・・・?」
横島の口から呟きが漏れる。その呟きに答えて人工幽霊壱号の声が響く。
「この館の記憶です。これから横島さんに全てを見て頂きます」
階段を降りるにつれて新たに映像が流れ込んでくる。
人工幽霊壱号が目覚める所から始まって、渋鯖男爵とのささやかな幸せの日々。そして、突然訪れた破局の時。
横島は映像の奥に何を見ているのであろうか。その表情からは何も読み取ることができなかった。ただ、全てを抱き止めるように一歩一歩踏みしめながら、奥へと進んでいくのであった。
『幽壱。お前には、今日からここで過ごしてもらう。そして、お前が誰か人を愛せるようになるまで、この部屋を出る事は許さん』
横島の脳内に、苦渋に満ちた表情でそう言い放つ渋鯖男爵の姿が映し出される。実際はむしろ冷徹なものであったが、横島にはその仮面の裏にある表情がありありと見えた。冷たい声は、涙で凍ってしまったかのように聞こえたのだった。
映像は更に続く。
『だめだ!これでは幽壱を助けてやることはできん!』
渋鯖男爵は寝食を忘れ、ひたすら研究に没頭した。彼の明晰な頭脳は、すぐに原因を突き止めた。霊力が足りないというのだ。十分な霊力を与えてやれば彼女は安定するはずである。
毎日、己の限界を超えて霊波を放出した。男爵は日増しにやつれていった。
『私の霊力では足らないというのか・・・。私がどれだけ霊波を出しても幽壱は安定しないと・・・』
悲痛な呟きがこぼれ落ちる。そして、彼は手紙を残し館を出て行った。
はての無いかのように思われた階段もついに終わり、行く先に木の扉が見えた。全てを知った横島は、どこか決心した顔で冷たい金属製のノブに手を掛けた。
そこに彼女は、いた。
腰まで伸びた艶やかな長髪は、吸い込まれそうなほどの黒であった。真っ白い手術着のようなものから覗く素肌は、服と同様抜けるような白である。全体の線は細く、抱きしめたら折れてしまいそうだ。捨てられた子犬のような瞳も相まって、弱々しく儚かった。そんな中で、わずかに赤く染まった頬が印象的だった。
ここまで辿り着いた横島は、もう何をすべきか解りきっていた。意を決して囚われの姫を抱きすくめた。
がちゃりとノブの回る音が聞こえ、人工幽霊壱号は目を開く。目の前には待ち続けた男が立っていた。しばらく二人は無言のまま向き合っていた。
横島は彼女が今まで見たことのないような表情だった。彼女を見つめる横島の目はとても優しくて、でもどこか泣いている気がした。
彼はすっと歩を進めると、目をそらすことなく彼女を抱きしめた。あまりに突然のことで、彼女は驚き俯いてしまう。
「それが、愛だ」
横島は、力強くそう言いきった。今までそれが何であるか判らなかった気持ちに名前を与えられ、ふと横島を見上げた。その人工幽霊壱号の唇に横島のそれが優しく押しつけられた。
初めてのキスは、甘かった。
続く
後書き
5万HITおめでとうございます〜^^
と言うわけで、18禁シーンには入りませんでしたw
次に書かれる仙台人さんに期待しましょうw