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「退屈シンドローム 第0話(涼宮ハルヒの憂鬱+ドラえもん)」

グルミナ (2007-01-27 20:40/2007-01-28 19:51)
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 ーー三年前の、七月初めの事だった。

 その時の僕はアイツの消えたショックから立ち直り切れず、新しい街や学校にも積極的に馴染もうとはしていなかった。

 眼に映る総てが色彩を失い、耳に入る総てが雑音に聴こえるような日々。そんな毎日の始まりは、小学校の卒業式を間近に控えた三月半ばのある日……。

 その日僕が朝起きた時には、既にアイツの姿は無かった。机の上に書き置きを一つ、「用事が出来たからちょっと出かけて来る」と書かれた手紙を一つ残して。僕はその書き置きを疑いも無く信じて、アイツ消失を単なる外出と決め付け、対して気に留める事も無く登校した。

 だけど僕が学校から帰って来ても、それ所か夕食の時間になってもアイツが帰って来る事は無かった。しかし僕はアイツの用事が長引いているだけだとしか考えず、たまにはこんな事もあるだろうと言う楽観的な結論で思考を打ち切ってしまった。結局その日、アイツが家に帰る事は無かった。

 そして遂にアイツの帰らぬまま、僕は卒業式の日を迎えた。僕は両親の二人に見守られて卒業証書を受け取り、両親を三人で家に帰った。だけど其処にアイツはいない。そして不要になった教科書を整理するその時になって僕は漸く、机の上に置き放しだったアイツの書き置きの裏面に、手紙の続きを見つけたのだった。

 その手紙は『君は基本的に怠け癖が抜けてないからどうせ僕のいない間一切勉強に手を付けず、この手紙を見つけた時には君は既に卒業式を終えているのだろうけど』と、僕の行動パターンを知り尽くしたような腹立たしいけど言い返せない前置きから始まって、

『この手紙を君が見ている時には、僕はもう君の傍にはいない。そして多分もう二度と、君と会う事は出来ないと思う』

『何も言わずに出て行く事を許して欲しい。最後に一つだけ君の為に道具を残しておくから、必要な時が来たら使ってくれ』

 確かそんな感じの事が書いてあったと思う。あの日以来一度も読み返していないから細かい部分は忘れたけど。

 兎に角そう言う訳で僕はアイツの最後のメッセージを見つけ、そしてその手紙が真実である事を痛感した。いつも押し入れの中で敷き放しだったアイツの布団は畳んで積まれ、屑籠や予備のポケットと言った私物は奇麗に消えていた。タイムマシンの入り口だった机の引き出しは元の引き出しに戻り、辞書位の大きさの金属の箱が一つ入っているだけだから。これが恐らく手紙にあったアイツの最後の置き土産なのだろうけど、その時の僕にはどうでも良かった。

 僕が全てに気付いた時には、既に総てが遅過ぎた。独り残された僕の胸に残ったのは、絶望に似た空虚感だけ。裏切られたと、思った。僕は僕を裏切ったアイツを恨んだ。そして同時に、アイツの書き置きを無条件に鵜呑みにした、それ以上何も思考しなかった自分自身の愚かさを憎悪し、呪った。

 その後父親の転勤に伴いこの街に越して来てからも、僕の心が晴れる事は無かった。いや、むしろ更なる空虚感に圧し潰されそうにすらなっていたと思う。それまで生きて来た世界の総てを僕は一度に失ってしまったのだから。僕にはこの新しい環境を、新世界とは思えなかった。

 何もかもがどうでも良くなり、無意味に過ぎて行く毎日。そんな自暴自棄な日々の果てに、僕は一つの「賭け」を思いついたのだった。


 元々アイツが未来から僕の所にやってきた目的は、窮乏する僕の子孫を救うためだった。アイツの本当の主人は僕の直系の子孫であり、僕が誰と子供を作ろうとも彼の代自体の存在は変わらないらしい。

 では、もし僕が子供を作らなかったら?

 或いは子供を作る前に、僕が不慮の事態で死んでしまったら?

 アイツとしては困る筈だ。僕が死ねば僕の子孫であるアイツの主人は生まれない事になってしまうのだから。その上自惚れる訳ではないが、僕は過去にアイツや仲間達と一緒に何度も地球を救ってきた。アイツの主人が生まれる未来が消えると言う事は則ち僕とアイツが出会う過去が消えると言う事であり、結果として僕達の関わった数々の「事件」が丸ごと放置されたまま歴史が進むと言う事になる。所謂タイムパラドクスの完成だ。そうなると困るのはアイツだけに留まらない。アイツの来た未来世界自体が存亡の危機に立たされる事になる。僕の生きるこの時代に限定しただけでも、幾度となく地球は滅ぼうとしたのだから。是が非でもアイツは僕の死を、起こってはならない不慮の事態を阻止しようとするだろう。

 だからこそ、僕はその「不慮の事態」を演出する。消えたアイツをおびき出す為に。これは僕の命をチップにした賭け、そして過去を人質にした未来への脅迫。要するに僕の計画を簡単に説明するとすれば、僕はちょっと自殺してみる事にしたと言う事である。

 その後の「思い付いたが吉日」の格言を体現したかのような当時の僕の行動は、現在のハルヒのそれに匹敵する位迅速だったと思う。貯金箱を壊して資金を確保、それを全部つぎ込んでスポーツ用の折り畳み式ナイフをこっそり購入。方法はリストカットを選択。投身や首吊りよりは生還率が高そうだし、傷痕も手首という狭い範囲に限定されるから計画決行後他人に気付かれる可能性が低い。そして邪魔者が近づかず、尚かつ僕の存在を充分にアピール出来る舞台として、僕は幽霊教会を見つけ出した。此所なら肝試し位にしか人が来ないそうだし、七月の上旬はまだ肝試しには早い。

 こうして全ての準備を整えた僕は星のよく見える夜を決行日に選び、親には友達の家に泊まりに行くと嘘を吐いて家を出た。その日は偶々七夕だったけど、別に深い意味は無い。

 星は地球の外側にあり、その外側が中の地上からよく見えると言う事は則ち外側の宇宙からすらも僕の存在がよく見えると言う事である、とその時の僕は本気でそう考えていた。少しでもアイツが僕を見つけ易いように、アイツに僕の姿がよく見えるように。

 勝算はあった、喩えそれが傲慢だと解っていても。迷いは無かった、喩えアイツに大きな迷惑を掛けると気付いていても。

 街外れの丘を登り、幽霊教会を背に眼下の街を見下ろす。そしてナイフの刃を開き、僕はそれを右の手首に押し当てた。左手でナイフを握り、利き手を斬りつける。これでもしも万が一後遺症が出れば、僕は銃もあやとりも出来なくなる。これも僕がリストカットを選んだ理由の一つだった。喩え何を棄ててでもアイツにもう一度会うと言う、僕の覚悟を見せつける為に。

 僕は手首に押し当てたナイフをゆっくりと引いた。皮膚が裂け、鈍く鋭い痛みと共に血が傷口から滴り出る。だが、それだけだった。痛い事は痛いし血も盛大に流れ出てはいるが、どうやら動脈や神経どころか筋肉にすら届いていそうにない。僕の目的を考えればそれでも良いかもしれないが、これでは些か迫力に欠ける。なんと言うか、虚仮威し丸出しって感じだ。

 そんな風な不安から取り敢えずもう一度念の為にやっておこうと言う結論に達した僕はナイフを握り直し、血塗れの右手首へと再び近づけた。

 その時、

「……おい」

 ぶっきらぼうな低い声が、突如僕の背中に降って来た。僕は思わず一瞬身を竦ませ、ナイフの刃を仕舞い血塗れの右手ごとポケットに突っ込んで隠した。誰だかは知らないが、見られるのは拙い。そして平静を装いながら背後を振り返り、イレギュラーな乱入者となるべく自然に向き合う。

 そして僕の眼に映ったものは、眠った女の子を背負う怪しい男だった。暗がりで顔はよく見えないけど、ブレザーを着ているから多分高校生だろう。

 ……一瞬、僕の思考は停止した。

「……何ですか、あんたは」

 硬直した思考の中で僕はかろうじてそれだけは言う事が出来た。変態か誘拐犯か判断の難しい所ではあるが、どちらにしても不審者には変わりない。と言うか、犯罪者だ。僕は空いた左手をポケットに突っ込み、携帯電話を引っ張り出した。取り敢えず、この不振者を警察に通報しなくては。

「ちょっと待て。言っておくが俺は変態でも誘拐犯でもないぞ」

 携帯電話を取り出す僕に焦ったのか、不審者は慌てて弁明を始めた。何だか、僕の心を読みでもしたような言い訳だった。

「じゃあ、その娘は一体何なんです?」

 不審者の背中の女の子を指差す僕に不審者は、

「知り合いの姉ちゃんだ。持病で突発性居眠り病に掛かっていてな、所構わず居眠りしちまう。だからこうして俺が担いでるんだ」

 と、ツッコミ所満載な言い訳をのたまった。……それで、この不審者はその居眠り病な知り合いの姉を背負ってこんな丘の上まで一体ナニをしに来たのさ。やっぱりこの不審者は変態確定だ。

「それで、お前こそ何をやってるんだ?」

 自分の事は棚上げして、不審者改め変態が偉そうに詰問してくる。変態には関係無い事だと思いながら、僕はポケットに突っ込んだままの右手へと一瞥を向けた。ジンジンと痛んでいた手首の傷口が、痺れて感覚が無くなってきた。血もどれだけ流れたか解らない。このまま放っておけば、失血多量で本当に拙い事になるかもしれない。僕は小さく舌打ちした。

「……ん? お前……」

 何かを見つけたのか気付いたのか、変態が怪訝そうな声を上げた。その視線が固定されているのは、僕の右ポケット。嫌な予感を感じた僕はもう一度右ポケットに視線を落とし、次の瞬間愕然とした。

 ポケットの中に溜まった血が外に染み出し、僕の右脚を真っ赤に染めていた。

「酷い出血じゃないか! 怪我してるのか!?」

 叫ぶようにそう言って、変態は僕の右腕を掴んだ。僕は咄嗟に抵抗を試みたけど、高校生の腕力には流石に敵わない。右手はあっさりとポケットから引っ張り出され、変態の眼前に晒された。

「お前、何やってるんだよ!?」

 血塗れの僕の右手を前に、変態は錯乱したようにヒステリックに叫んだ。相変わらず顔はよく見えないけど、どんな表情を浮かべているかは何となく解る。

「見て解るでしょう。……自殺未遂だよ」

 見られてしまったのならば隠す必要も無い。僕は寧ろ堂々と居直る事にした。次の瞬間、変態に思い切り殴られた。

「偉そうに居直ってんじゃねぇよこの馬鹿ガキ!! ……ちょっと待ってろ」

 そう言って変態は背中の女の子を降ろし、「ちょっと預かってろ」とばかりに何故か僕に押し付けてきた。その剣幕に圧されて、僕は仕方無く血で汚れていない左手で女の子を受け取る。栗色の髪をした可愛い女の子だった。と思う。流石に血が足りなくなってきていたのか、顔をいちいち確認する余裕はその時の僕には無かった。

 変態は徐に首のネクタイを解き、僕の右手首に巻き始めた。どうやら包帯代わりにするつもりらしい。

「……それ、制服なんでしょ? 真っ赤に染まっちゃうけど良いの?」

 投げやりに尋ねる僕に変態は「ガキの癖にそんな事心配してんじゃねぇよ」とぶっきらぼうに答えるだけで、ネクタイを巻く手を止める事は無かった。布で締め付けられる窮屈な感触が、感覚の消えた右手にじわりと拡がるような気がした。

 ……あんた一体何なんだよ。僕は無性にそう言ってやりたくなった。このお節介な変態の乱入のせいで、このままでは折角の計画が台無しになってしまう。

「俺か? ジョン・スミスだ」

 ……口に出していたのだろうか。巻き終えたネクタイを固く縛りながら、変態は聞いてもいないのに勝手にそう名乗った。その適当極まりない偽名や飄々とした言動の一つ一つに、何故か無性に腹が立つ。この男とは仲良く出来そうにないと、僕は直感的にそう思った。

「……馬鹿?」
「匿名希望って事にしといてくれ」

 理由の解らない苛立ちをそのままに吐き捨てる僕に、変態こと自称ジョン・スミスは気にした風も無くあっさりと返した。その余裕そうな態度もまた、どうしようも無く僕の琴線を掻き乱す。

「それで、何でまた自殺しようなんて考えたんだよ? 世を果無む程の経験値にもまだ達してないガキの癖に」

 ネクタイを巻く間僕が大人しくしていた事に気を良くしたのか、ジョン・スミスはまた偉そうに詰問を始めた。きっとこの男は今、取調室で容疑者にライトを当てながらカツ丼を差し出す刑事とか放課後の教室でクラスの問題児と個人面談する教師とか、兎に角そんな熱血キャラになりきっているに違いない。僕はそう確信した。相変わらず、ジョン・スミスの顔は見えないけど。

 少なくともあんたよりは色々な意味で経験値は上だ。と言う本音は、今は呑み込んでおく事にした。

「……別に世の中に絶望してる訳じゃないですよ。だけど、アイツのいない毎日になんて何の興味も無い。ただそれだけ」

 ジョン・スミスの問いに律儀に答えてやる必要は、今考えれば全然無かったと思う。だけど何故か僕の口は、自然と答えを紡いでいた。今考えれば、それは何かへの懺悔にも似ていたかもしれない。

「……そうか、それは辛かったな」

 僕の返答にジョン・スミスは同情したようにそう言って、

「だけどお前がその友達に殉じて死んじまって、そいつは本当に喜ぶのか? 友達の分まで生きて幸せになってやるのが、残されたお前に出来る唯一の弔いなんじゃないのか?」

 と、訳の解らない科白を後に続けたのだった。

 ……もしかして、僕が死んだ誰かの後追いで自殺しようとしてると勘違いしてる。

「いや、アイツまだ死んでないから」
「何っ!? そうなのか!?」

 ……予感的中。僕の補足にジョン・スミスは爽々しい程の驚愕ぶりを披露してくれた。何をそんなに驚いているのかは知らないけど、良い気味だ。

「じゃ、じゃあ何で自殺なんて考えたんだよ? 友達が生きてるだったらそれで良いじゃねぇか」

 ジョン・スミスの疑問は尤もな事だろう。生きているのなら、僕もまた生きているのならばまた会える事もあるだろう。それなのに僕が死んでしまったら当然、会える筈が無い。それでは本末転倒だ。普通ならばそう考える。

 ……だけど、ただ生きているだけではもう逢えないんだよ。僕とアイツは。

 だから、僕は……。

「……やらなくて後悔するより、やって後悔した方が良い」

「なっ!?」

 僕の呟きに、ジョン・スミスは怪しい位に狼狽した声を上げた。それを怪訝に思いながらも、僕は言葉を続ける事にした。聞いたのはそっちなんだ、最後まで聞いてもらうぞジョン・スミス。

「与えられた現状を甘受して怠惰に生きるだけでは、ジリ貧になるのは解ってる。だけどどうすれば良い方向に向かう事が出来るかは解らない。ならばジョン・スミス、あんたならどうする?」

「それは……」

 苦々しそうな声で言葉を濁すジョン・スミスを無視して、僕は言葉を続ける。

「取り敢えず何でも良いから変えてみようと思うでしょう? どうせ今のままでは何も変わらないんだから」

「そういう事もあるかもしれんが、少なくとも他人様の迷惑になるような事はするべきじゃない。例えば訳の解らん動機でクラスメイトを殺しかけたり、例えば今の世界に飽きたからって新世界を創ろうとしたり、……例えば先の苦労も考えずに自殺に走ろうとしたりとかな」

 僕の独白に、ジョン・スミスは今までで一番確固とした口調で間髪入れずにそう反論した。まるで僕の言葉を予想していたように、まるで前に同じような問答を経験しでもしたかのように。……いや、それは些か深読みが過ぎるか。

 それにしても、先の苦労も考えずに、か。確かにこの計画は僕が生き残る事を前提にしているにも拘らず、僕はその後の事は全く考えていなかった。まず家に帰るまでに、この血塗れの服をどうしようか。それに仮に誰にも見つからずに家に辿り着いたとしても、この手首の傷は隠し様が無い。リストバンドか何かで覆ったとしても、親に見つかるのは時間の問題と考えなければならない。そうなれば少なくとも病院沙汰、下手をすれば警察沙汰だ。失念していた、ジョン・スミスが帰った後にでも何か対策を考えておこう。

 ……生きていれば、ね。

「……確かに、色々な人に迷惑は掛けちゃいますね」

 ジョン・スミスの説得に同意するような応答を返しながら、僕はさり気なく右手に握るナイフを左手に持ち替えた。幸いな事にナイフの表面を塗装のように覆う血はまだ乾いてはおらず、刃はまだ開きそうだ。

「解ってくれたか。だったらこんな馬鹿な事はやめて、家に帰って手当して貰え」

 僕の説得に成功したと思い込んだのか、ジョン・スミスはそう言って安堵したように息を吐いた。今、ジョン・スミスは完全に油断している。行動を起こすならば今しか無い。

「……だけど、それでも僕はもう一度アイツに会いたいんだ」

 呟くようにそう言って、僕はナイフの刃を開いた。星明かりを反射して、血塗れの刃が妖艶に輝く。

「お前っ!?」

 ジョン・スミスが咄嗟に何かしようとするけど、遅い。僕は僕の血の絡み付くナイフの切っ先を、僕の腕の中で眠ったままの女の子の首筋に触れさせた。

「動かないでっ!!」

 僕の渾身の怒号に、ジョン・スミスは凍ったように動きを止める。

「……この娘を傷つけるつもりは僕にはありません。だけどもしあんたが何かすれば、僕の手元が狂うかもしれない。だから動くな、近づくな」

 今、僕は最低な事をしている。それは僕自身でも解っている。だけどそれでも、僕はもう止まれない。止まりたくない。

「お前、自分が何やってるか解ってんのか!?」

 激昂した感情のままに、ジョン・スミスが怒号する。煩いな、別に怒鳴らなくても解ってるよ。

「未成年者略取、及びそれを人質にした恐喝行為。そして、……自殺未遂続行」

 淡々と言いながら、僕はナイフを逆手に握り直した。これが僕の最後の賭け。生き残るとか今後の事とか、そんな生ぬるい事はもう言わない。血の雫を滴らせるナイフの切っ先が狙う先は一つ、僕の心臓。

 腕の中の女の子の事は、最早頭の中から消え去っていた。ジョン・スミスが何か叫んでいるが、僕の耳にはもう届かない。僕の思考を、五感を、全身を埋め尽くすものは唯一つ。

 ーー来い! 来てくれ!!

 唯それだけを心に、全身全霊の力を込めて、僕は左腕を、ナイフを振るった。まるで鉄に近づけられた磁石のように、切っ先が僕の胸へと吸い寄せられる。

 そして次の瞬間、ナイフが僕の胸を貫くその直前に、

 金属同士がぶつかり合うような鈍い音と共に、突如ナイフの腹から火花が散った。

「っ!?」

 ハンマーで殴られたような衝撃がナイフを伝って左手に走り、僕は思わずナイフを取り落とした。何が起こったのか、全く理解出来なかった。

「……ったく、遅いんだよあの野郎」

 ジョン・スミスの舌打ち混じりの愚痴が、僕を現実に引き戻した。

「残念だったな。どうやら『鷹の眼』が、あそこから俺達を見張ってるらしい」

 勝ち誇るようにそう言ってジョン・スミスが視線を向けるその先には、遥か遠くの闇の中に聳え建つ高層マンション。『鷹の眼』って、まさか狙撃手!? 馬鹿な!! 此所からあのマンションまでは二キロ近く離れている。狙撃銃の射程距離は大体八百メートル。その二倍の距離で目標に当てたと言う話も無い訳ではないけど、それでもこの視界の悪い中で僕のナイフだけを正確に狙うなんて有り得ない。アンチマテリアル・ライフル(対物狙撃銃)を使えば出来なくもないかもしれないけど、戦車の装甲を貫くような代物で撃たれたのだとしたら、ナイフを落とす程度で済む筈が無い。

 ……と言うか今考えればそもそもこの日本で狙撃されると言う事自体が異常事態だった訳なんだけど、その時の僕にはそこまで思い至るだけの余裕は無かった。

「くそっ!」

 僕はナイフを拾うべく左手をのばしたが、僕の指先が届く前に今度はナイフの柄から火花が飛んだ。再び響いた鈍い音と共に、ナイフは僕の手から逃げるように弾け飛ぶ。刹那、焼きゴテでも押し付けられたようなかのような激痛が、突如僕の頬に走った。それがナイフに当たって跳弾した銃弾が僕の頬を掠めたものだと言う結論に僕の思考が至った時には、僕はジョン・スミスに地面に組み伏せられていた。

「諦めろ。お前良い加減にしないと次は問答無用で撃たれるぞ? あいつならやりかねん」

 いつの間にか奪還した女の子を片腕で支え、もう片方の腕で僕の身体を押さえつけながらジョン・スミスが最後通告するように言った。そしてその言葉は、僕にとっての処刑宣告にも等しかった。アイツに会う事を諦めろと、この男はそう言っているのだ。受け入れられる筈が無い。

 押さえつけられた腕が動かない、組み伏せられた身体が持ち上がらない。元々力負けしている上に、最初に血を流し過ぎた、身体に、全く力が入らない。悔しかった。未来に、世界に喧嘩を売ろうとしていた僕が、訳の解らない高校生一人の手すらも振り解けない現実が。そんな僕の非力さが。どうしようも無く、僕は悔しかった。

 女の子を背負い直し、ジョン・スミスは地面に無造作に転がる僕のナイフを拾い上げた。

「ったく何で俺の周りには間違ったナイフの使い方しか出来ない奴が多いんだよ」

 愚痴を零しながらジョン・スミスは立ち上がり、僕を見下ろしながらナイフの刃を折り畳む。

「これは俺が預かっておく。お前に返したらまた同じ事を仕出かしそうだからな」

 そう言ってジョン・スミスは僕のナイフをブレザーのポケットに仕舞い、僕に背を向けて歩き出した。ちょっと待て、それは立派な泥棒じゃないのか。

「心配するな、後でちゃんと『お前』に返しといてやるよ。まぁ百歩譲っても似合うとは思えないけどな、お前にも、『お前』にも」

 僕の抗議に訳の解らない返答を返し、ジョン・スミスは坂道を下って行った。貧血で起き上がる事も侭ならず、僕はその背中を黙って見送るしかなかった。それもまた僕は悔しく、腹立たしかった。

「あんた一体、何なんだよ……!!」

 悔し紛れに、僕はありったけの憎悪を込めて再びジョン・スミスに問った。本当に、この男は何なんだ。ジョン・スミスは足を止め、一瞬だけ僕を振り返り、答えた。

「ジョン・スミス、通りすがりの正義の味方だよ。……お前と同じ、な」

 瞬間、まるでハンマーで殴られたような衝撃が僕を襲った。通りすがりの正義の味方、それは嘗て僕が仲間達と、アイツと一緒に好んで名乗った自称。何故この男がその名を知っている、何故この男がその名を名乗る。

「あんた、何でっ!?」

 激昂する僕に答える事無く、ジョン・スミスは女の子を背負って坂道を下って行った。今度は、振り返る事は無かった。

 ジョン・スミス。本当に最後の最後まで、絶対に仲良くなれそうにない男だった。


 ● ● ●


 その後フラフラの身体で何とか家に辿り着いた僕を待ち受けていたのは、やっぱり病院沙汰で警察沙汰で、ついでに新聞沙汰だった。両親には怒られ、そして泣かれた。学校の教師達も押し掛けてきて、結果的に僕はカウンセリング室通いを余儀なくされた。リストカットとして学校でも後ろ指を指され、天候早々に些か居心地の悪い中学生活が確定した。だけどその総てが僕の自業自得だから、それは別に構わない。

 唯一つ後悔しているのは、アイツが僕を裏切ったのと同様に、僕もアイツを裏切ってしまったと言う事。僕のやろうとした事は僕達が戦ってきた時空犯罪者達と同じ事なのではないかと、愚かにも思考が至らなかったと言う事。

 あれからもう三年の月日が経とうとしているけど、ジョン・スミスが再び僕の前に現れる事は無かった。持ち去られた僕のナイフも、未だ行方不明のままだ。唯一の手掛かり、あの夜包帯代わりにまかれたネクタイに刺繍された校章から北高の生徒のだと言う所までは辿り着いたのだが、そこから先は手詰まりだった。肝心の名前は血痕で潰れてしまっているし、何度か張り込みもしてみたがそれらしい生徒は見つからなかった。……その度に同じ歳位の他校の女の子とブッキングして睨まれたけど、どうでも良い話だ。

 北高に入学してからも、卒業アルバムを開き卒業生の顔を一人一人確認した。OBが変装していた可能性、しかもそいつが若作りだったと言う可能性も考慮して、ざっと過去十年分を。だけど成果はゼロ、結局徒労に終わってしまった。今ではあの格好はコスプレだったのではないかとさえ思っている。

 ジョン・スミス。恐らく今でも絶対に仲良く出来ない男であり、謎の多い不審者だった。


 僕はジャケットの袖をそっと捲った。後遺症こそ皆無だったが、今でも僕の右手首にはあの夜の傷痕が残っている。一生消える事は無いと、医者からお墨付きも貰っている。それで良い。この傷痕は罪の証。馬鹿な事を考えて、アイツを裏切った僕自身への戒め。この傷痕を道標に、僕はあの夜を背負って生き続けよう。それが、アイツへの唯一の償いになると信じて。

 今、僕はあの夜と同じ場所に立っている。

 三年前、ジョン・スミスと邂逅したあの七夕の夜に、きっと僕は一度死んだのだと思う。いや、僕自身が殺したんだ。『野比のび太』と言う存在を。肉体的な意味ではなく、精神的な意味で。

 だから此所は『僕』にとっての終わりの場所で、僕にとっての始まりの場所。

 ……まぁ、戯れ言だけどね。

 僕は石畳の上の窪みをもう一度撫でた。三年前のあの夜、『鷹の眼』の男が最初に撃った弾丸が跳弾した痕。だけどそもそもの原因は僕なわけだから、僕が作ったと言っても嘘ではない。

 そんな事を思考している間に探険を終えたのか、ハルヒが幽霊教会の中から出て来た。

「霊魂の類いでもうろついてるんじゃないかと期待してたけど、やっぱりガードは固いわね。時期と装備を整えて出直す事にするわ」

 その言葉から察するに、何も収穫は無かったようだ。

「お腹空いたから一旦帰りましょう。十二時にさっきの駅前に他の皆も集合させるわ」

 僕は携帯電話の液晶を開いた。デジタルに表示された時計は十一時半を示している。

「……後三十分しか無いんだけど?」
「その三十分間を全力疾走すれば余裕で間に合うでしょ? 言っておくけど最下位は罰金、遅刻は更にペナルティなんだからね」

 そう言うや否や、ハルヒは猪のような勢いで坂道を駆け下り始めた。本当に駅前まで走り続けるつもりらしい。

 僕は大きく息を吐き、ドラ焼きの袋を片手にハルヒを追い掛けて走り始めた。流石に二回連続でおごりは嫌だからね。

 ……とは言え、明日は筋肉痛かなぁ。

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