埃っぽい物置教室を出た僕とハルヒは、再び旧館へと戻ってきていた。文芸部室のある三階までは上がらず二階で方向を変え、ハルヒが足を止めたのは「書道部」と書かれたプレートの真直ぐに張られたドアの前。一つ手前のドアのプレートには「漫研」の文字も見つけた。機会があればお邪魔してみよう。
そんな事を僕が思考している隙にハルヒは平気な顔で書道部のドアをノックも無しに開いた。マナー違反だよ、ハルヒ。
「こんちわー! 朝比奈みくるちゃんっていますかー?」
嘘くさい程朗らかな笑みを顔一面に張り付け、ハルヒは愛想三割増しで書道部の皆さんに声を掛ける。この詐欺と言いたい程の猫の被り様、ハルヒは営業系の職業に向いていると思うね。
書道部室の部室も文芸部室と同じく、中々広々としていた。十数畳の床の一面には畳が敷かれ、膝を折った数人の女子生徒が毛筆片手に半紙と睨み合いをしている。
「あ、あたしは此所にいますけど、一体何の御用でしょうか?」
毛筆を硯の上に置き、一人の女子生徒がおずおずと名乗りを上げた。微妙にウェーブした栗色の髪をした小柄な女の子で、その童顔と相成り高校生には、ましてや上級生にはとても見えない。
ここで僕が何故彼女、ハルヒの言うところの朝比奈みくる先輩を一目で上級生だと看破出来た理由についてだが、種を明かしてしまえば根拠は簡単、上履きの色である。北校生徒の上履きは学年毎に上履きの縁取りが色分けされ、赤青黄の順で毎年循環している。例えば今年は三年生が黄、二年生が赤、一年生が青、そして来年入って来る新入生は黄色という具合に。
朝比奈先輩の上履きは赤、つまり彼女は二年生という事になる。とてもそうは見えないが。
とてとてと可愛らしい足取りで朝比奈先輩は僕達の前まで歩み寄り、
「あっ……」
僕達の顔を確認した瞬間、サバンナの真ん中でライオンの群れに飛び込んでしまったカモシカのような顔をして固まってしまった。ハルヒ、君は一体この人に何をした。
「野比のび太、くん……」
蚊の鳴くような小さな声で、しかし確かに朝比奈先輩は僕の名を口にした。初対面の筈なのに。
僕は眉間に寄った皺が深くなるのを自覚した。多分今、僕は相当恐い顔をしていると思う。迫力の方は兎も角として。
「え? あんた達って知り合いだったの?」
ハルヒが驚いたように僕を振り返った。吃驚する気持ちは解るが、ネクタイを犬の鎖よろしく引っ張るのは勘弁して欲しい。書道部の方々の視線が正直言って痛い。
朝比奈先輩は慌てたように首を振り、言い訳をするような挙動不審な様子で口を開いた。
「えっと、射撃部の友達が話しているのを聞いたんです。初めてのライフルで満点近い点数を叩き出した一年生がいるって」
「のび太、それって本当?」
ハルヒが睨みながら僕に尋ねる。
朝比奈先輩の話に間違いは無い。射撃部に仮入部したのは本当だし、試し撃ちで撃たせて貰った時の点数は合計すれば五百点台後半は楽にいっていたと思う。
「初めてのライフルってのは?」
「それはちょっと誇張が入ってるね。確かにライフルを握るのは初めてだったけど、ピストルの方なら何度も撃ってるし」
ちなみに弾丸の方は本物偽物光線と結構何でもござれだったのだが、別にそこまで言う必要は無いので黙っておいた。
「……ふぅん」
ハルヒはまだ胡散そうな顔をしていたが、取り敢えずは納得してくれたようだ。
「みくるちゃん、ちょっと時間いいかしら? 少し話があるんだけど」
朝比奈先輩へと視線を戻し、ハルヒは穏やかに言いながら朝比奈先輩の肩に手を置いた。僕の方からハルヒの顔は見えないが、朝比奈先輩が何やら怯えているのはよく見える。
「あ、あの、お話ですか……?」
80年代のスケ番のようなハルヒの科白に、朝比奈先輩は可哀想な程に動揺している。きっと朝比奈先輩の脳内スクリーンには今、体育館裏に追い詰められスケ番に包囲された自分の姿がリアルに映し出されている事だろう。あくまで僕の妄想だが。
「ええ、そうよ。貴女の未来に関わる、重要な話」
「ふえっ!? み、未来ですか!?」
ハルヒの言葉に朝比奈先輩は円らな双眸を大きく見開き、何故が僕の顔を凝視した。何さ、僕は何もやってないですよ?
再び石化してしまった朝比奈先輩の手首を素早く掴み、ハルヒは鋭いとしか形容出来ないような動きで身を翻した。一瞬だけ僕に向けられた漆黒の双眸には、初めて会った時と同じ猛禽の光が宿っていた。あれは、狩人の眼だ。
「じゃ、そういう訳でちょっとみくるちゃん借りてきますから!」
書道部の皆さんを一瞬振り返り、ハルヒは電光石火の勢いで駆け出した。余りにも大胆かつ鮮やかな誘拐の手口に、僕は何の反応も間に合わずに見逃してしまった。
呆然とする書道部に取り敢えず頭を下げてドアを閉め、僕はパイプ椅子を両脇に抱えたままハルヒを追い掛けた。階段を上って三階に上がり、廊下を渡って文芸部室の前まで辿り着く。
ドアノブに手を掛けるが、右にも左にも回る様子は無い。どうやら内側から鍵を掛けているらしい。
「ハルヒ! 何鍵掛けてるのさ!」
そう言って僕がドアを叩こうとした刹那、突然開いたドアの内側から白い腕がのび、僕の襟首を掴んで文芸部室内に引き摺り込んだ。両腕のパイプ椅子が邪魔で満足に受け身も取れず、リノウム床の硬く冷ややかな感触が僕の顔と身体に比喩無しで蘇る。
「何寝転がってんのよ。さっさと起き上がりなさい」
非情な言葉と共にハルヒは僕の腕を掴み、無理矢理引っ張り起こした。取り敢えず床に座り込む僕の姿を見届け、ハルヒは朝比奈先輩の腕を掴んだまま笑顔で口を開く。
「紹介するわ。朝比奈みくるちゃんよ」
それだけ言ったきり、ハルヒは黙り込んだ。
「……取り敢えず、この人書道部所属の二年生ね」
仕方が無いので、僕は短く補足を入れた。
何とも言えない気詰まりな沈黙が部室を支配している。ハルヒは既に自分の役割を果たしたような顔で立っているし、長門有希は何事も無かったように読書を再開してしまっているし、朝比奈先輩は見知らぬ星に独り取り残されたような表情でおろおろしているし、キョンは頭痛を堪えるように額に手を当て沈黙している。
「……どこから拉致してきたんだ?」
絶望の果てに何か悟ったような表情でキョンが問った。
「失礼ね。拉致じゃなくて任意同行よ」
ハルヒ、相手の思考が止まっている隙に問答無用で連れ去るのは任意同行とは言わない。
「書道部に仮入部した時から良いなぁって思ってたの。萌えの話は覚えてるわよね。基本的にね、大抵のおかしなシチュエーションにはこういう王道っぽいマスコットがつきものなのよ。萌えって言うのは最早一種のフラグと言っても過言じゃないの! 解った?」
さっぱり解らないけど。言いたい事は何となく解る。簡単に言えば朝比奈先輩がロリっぽかったから後先考えずに拉致ったって事でしょ、要するに。あと何かこの人トロそうだし。
「つまり涼宮、お前はこの朝比奈さんが小柄で童顔でドジっ娘っぽかったという理由なだけでここに連れて来たのか? 眼鏡で無口で文芸少女というだけで、長門を部室ごと乗っ取ったように」
呆れを通り越したような顔でそう問うキョンに、
「勿論、それだけじゃないわ!」
ハルヒは自慢げに微笑みながら朝比奈先輩の背後に回り、後ろからいきなり抱きついた。
「わひゃああ!?」
悲鳴を上げる朝比奈先輩に構う事無く、ハルヒはセーラー服の上から獲物の胸を鷲掴みする。
「あたしより胸がでかい!!」
怒号しながらハルヒは朝比奈先輩の胸を揉む。終いにはセーラー服の下から手を突っ込んで直に揉み始めた。駄目だ、当初の目的を完全に忘れてる。
「何か腹立ってきたわ。こんな可愛らしい顔して、あたしより大きいなんて!」
「たたたす助けてぇぇぇっ!!」
顔を真っ赤にして手足をバタつかせる朝比奈先輩だが、如何せん体格の差は如何ともしがたいらしい。助けてやるのが道徳的には正しいのだろうけど、このまま放っておくのもそれはそれで面白そうな気がする。それに朝比奈先輩いじりに飽きた頃には、きっとハルヒもSOS団員勧誘なんて忘れてしまっているだろう。いじられている本人には些かの同情を禁じ得ないが。
そして調子に乗ったハルヒが朝比奈先輩のスカートを捲り上げかけた辺りで、
「アホかお前は」
傍観に回っていたキョンがハルヒ達へと歩み寄り、朝比奈先輩の背中にへばりついているハルヒを引き剥がした。
朝比奈先輩は乱れた制服をパタパタと叩いて直し、半泣きの表情で僕とキョンの顔を交互に見た。この場合、止めなかった僕も同罪だろうか?
「みくるちゃん、あなたが入ってる書道部なんだけどさ」
火照った顔に営業用の笑みを浮かべ、ハルヒは遂に本題を切り出したらしい。
「単刀直入に言うけど、そこ辞めて。我が部の活動の邪魔だから」
呆れてしまう程に、どこまでも俺様なハルヒだった。
朝比奈先輩は骨を沈めるなら重力嵐が良いか時空乱流が良いかそれともスタンダードに海が良いかと訊かれた殺人事件の被害者のような顔で俯き、救いを求めるようにもう一度キョンを見上げ、次に長門有希の存在に初めて気付いて驚愕に目を見開き、僕とハルヒの顔の間で暫く視線を彷徨わせてから、
「そっかー……」
と呟きながら溜め息一つ。
「解りました。書道部は辞めてこっちに入部します……」
聴いているこっちが申し訳無くなるくらいに悲愴な声だった。でも覚悟を決めたところに水を差すようで申し訳無いが朝比奈先輩、その選択はきっと間違っています。
「でも文芸部って何する所なのかよく知らなくて、」
「我が部は文芸部じゃないわよ」
申し訳無さそうに言い淀む朝比奈先輩の頭上に、当たり前のように爆弾を投下するハルヒ。
「ここの部室は一時的に借りてるだけです。貴女が入らされようとしてるのは、そこの涼宮がこれから作る活動内容不明の同好会ですよ」
目を丸くする朝比奈先輩に、ハルヒに代わってキョンが説明を入れる。
「ちなみにあっちで座って本読んでるのが本当の文芸部員です」
「はぁ……」
狐につままれたような表情で朝比奈先輩は呆然と立ち尽くし、それきり言葉を失ってしまった。だから言わんこっちゃない。
● ● ●
毎日放課後ここに集合ね、とハルヒは全員に言い渡して、この日は解散となった。そして結局、朝比奈先輩はSOS団入団の言葉を撤回する事は無かった。
「一度入ると言ってしまった訳ですし、今更無かった事にするなんて出来ません。女に二言は無いんですから」
そう言って朗らかに笑う朝比奈先輩に、僕はキョン共々惜しみない拍手を贈った。意外と肝は据わっているらしい。もしかしたら居直りかもしれないが、どちらにしても大物だと思う。
「きっと、これがこの時間平面上の必然なのでしょうね……」
窓枠に手を掛けて夕焼けを眺めながら、朝比奈先輩は感慨深げに小さく呟く。
刹那、僕の心臓が大きく跳ねた。脳髄の片隅から零れ落ちた小さな疑惑の欠片が、鉛のように胸の奥に重く圧し掛かる。
「それに野比くんや長門さんがいるのも気になるし……」
奇異の視線を向けるキョンと懐疑の視線を向ける僕に気付かいていないように、朝比奈先輩は独り言を続ける。
僕の中の疑惑の念が、確信に変わった。朝比奈先輩は、多分……、
「朝比奈さん……?」
怪訝そうに声を掛けるキョンに向き直り、朝比奈先輩は舞うような足取りで歩を進めた。頭一つと少し分高いキョンを見上げ、にっこりと微笑む。
「あたしの事でしたら、どうぞみくるちゃんとお呼び下さい。ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
朝比奈先輩の言葉に、キョンは幸せを抱いて溺死したような表情で何度も首肯を返した。堕ちたな、あれは。
「SOS団、捨てたものじゃないな……」
遠ざかる朝比奈先輩の背中を見送りながら、キョンが惚けた表情のまま呟いた。あんな女の子が好みだったのか、君は。
「んー……、そうだね」
キョンと同じく朝比奈先輩の栗色の髪を見ながら返した相槌は、我ながら素っ気ないものだったと思う。
ハルヒの部活モドキに付き合う理由が一つだけ増えた。
同時に、ハルヒが僕を執拗に謎に仕立て上げたがる理由も、何となく解ったような気がした。
ハルヒにとっての僕は、僕にとっての朝比奈先輩ときっと同じなんだ。
気が狂う程に渇望し続けていたものが、手をのばせば届くような場所に気がつけば置かれていた。喩えてみればそんな感じなんだろう、ハルヒも僕も。
明日から、部活に紛れて朝比奈先輩に探りを入れてみよう。何気なさを装って。
僕の推測が正しければ、朝比奈先輩は恐らく、未来人。
彼女が何の為にこの時この場所にいるのかは解らない。それ以前にこの推測が正しいかどうかすら定かではない。
だけどもし、この推測が正しかったとするならば……?
気がつけば、僕は拳を握り締めていた。昨日怪我した掌が包帯越しに痛むけど、そんな些細な事など気にならない程に僕の感情は昂っていた。
もしも僕の推測が正しかったとしるならば、僕はこの手に掴めるかもしれない。
消えてしまったあいつを見つけ出す、手掛かりが……。
ーーあとがきーーー
グルミナです。『退屈シンドローム』第7話をお届けします。
ロリで巨乳でドジっ娘な先輩も加わり、そろそろSOS団が本格始動を始めそうです。
次回は遂に、彼女が動く!?
……何か話数に反比例してあとがきがどんどん短くなってるような気がヒシヒシと。
>U-さん
はじめまして、読んで下さってありがとうございます。
「仲'魔'集め」はコレで良いんです。理由は何となくお察し下さい。
『退屈シンドローム』では長門も萌え担当です。専用のコスプレ衣装とかの登場も検討してますww
>龍牙さん
折角視点がのび太なので、三角錐とかの入手経路を書いてみました。襷は意外?なものにジョブチェンジして再登場します。
朝倉の出方やのび太との相対については、御期待下さい。
あと長門の眼鏡は、……のび太のとどっちを外そうか考え中です。
>kouさん
朝比奈先輩は早速爆弾を投下してくれました。これでのび太への疑惑は鰻上り?
「タイムパトロールの人ですか?」の一言は次回以降に持ち越しになりました。探りを入れる時の決定打的な言葉になりそうです。
>剣さん
今回の仕込みネタはPAPUWAです。しかし実は本家のものは見た事無かったり(爆
>HEY2さん
え゛!? 神輿あるって、え゛ぇ゛っ!?
いや確かにウチの高校にもありましたが(ヲイ
五人目は原作通り朝比奈先輩です。めがっさの人も早く出したいww
>佳代さん
使用許可、ありがとうございます。
部室はウチの高校のイメージで書いてます。運動部の部室とかは四畳半で悲惨な事になってますよ。
バニーガールの朝比奈先輩へののび太の反応ですが、どうでしょう? 大長編を見るかぎり、アレは年上好きっぽいですし。
え? 朝比奈'先輩'は年上? どー見てもそうは見えないでしょ。
実はこんな無駄話も最初の構成では入れていたのですが、尺の都合でカットしちゃいました。
>司書さん
はじめまして、読んで下さってありがとうございます。
ご忠告痛み入ります。原作コピーにだけはならないよう、留意しておきたいと思います。