彼は、幼い頃から、聡明な子供だと皆に認められていた。
彼自身も、同年代の子供より優秀な事は何となく解っていた。
だから、両親がいないという事実も、それ程のハンデにはならなかった。
スクライアの一族は結束が固く、皆が家族の様なものだったから。
だがやはり、どこか遠慮の様なものは有ったのだろう。
心から溶け込む事のできない何かを感じながら、ずっと暮らしていた。
一族の中でも上位に入ると言われた魔法資質。
攻撃の面では見るべきものはなかったが、防御に関しては抜きん出ていた。
そして、一族の歴代でも最高クラスの探査能力。
生業にしていた遺跡の発掘において、彼のその能力は有用だった。
齢九歳にして、彼は発掘作業の責任者を任される事となる。
そして、魔法遺物――ロストロギアを発掘するという快挙を成し遂げたのだ。
自らが指揮を行なった仕事が成功を収めた時、胸に過ぎったのは心地好い高揚感。
だが、そのロストロギア――ジュエル・シードとの出会いが、彼の運命を変えた。
輸送中の事故で、ジュエル・シードが管理外異世界にばらまかれてしまったのである。
必要以上に責任を感じた彼は、一族の年長者の制止も聞かず、回収に飛び出した。
一族に伝わる魔導の杖(インテリジェント・デバイス)レイジング・ハートを持ち出して。
こうして、なのはの住む世界へとやって来た彼だったが、現実は甘くなかった。
レイジング・ハートも、彼を主とは認識せず、本来の役割を発揮しなかったのだ。
そのため、ユーノは封印用の媒体としてしかレイジング・ハートを使えなかった。
その様な有様では、ほとんど攻撃魔法を持たない彼では、限界があったのである。
ジュエル・シードの回収に失敗し、大怪我を負ってしまったその時。
瀕死の命を持たせるために、魔力の消費量の少ない動物の姿へと転じて。
霞む意識を留めて最後にできたのは、全方位に無作為に念話を発信する事だけだった。
魔法資質を持ち、心正しく、彼を手伝ってくれるだろう人物を期待して。
恐ろしく実現性の低かったであろうその賭けに、結果として彼は勝利する事ができた。
彼――ユーノ・スクライアは、出会う事ができたのだ。
膨大な魔力を生まれ付き備え、天才的な魔法の資質を持ち、素直で真っ直ぐな心を宿した少女。
やがて、彼にとって最も大事な存在となる少女、高町なのはに。
そして彼は、再び一族の元へと戻る事はなく、時空管理局に留まる事になる。
心惹かれた少女と離れ難かったというのが、一番大きな理由だった。
時空管理局本局に存在している超巨大データベース、無限書庫。
そこには、創生の時からの全ての世界の記録が収められていると言う。
もちろんそれは、あくまで信憑性の乏しい噂の類でしかないが。
何しろ、データベースという言葉から連想される近代化されたコンピュータ等ではなく。
無限書庫とは、円筒状の本棚が膨大な規模で縦に並べられた図書館のようなもの。
その本棚には、膨大な数の書籍が未整理のままで半ば放置されていたのである。
そんな理由から、必要な知識をそこから得るのは、一苦労だった。
ほとんど発掘と言って差し支えない作業を要する作業だったのだから。
これでは、先の噂の真偽等確かめ様もないだろう。
そんな放置状態だった無限書庫を、飛躍的に使い易くしたのがユーノだった。
闇の書事件以降、管理局のスカウトを請け、ここで司書として働き始めたユーノ。
それから五年間は、持てる魔法を駆使して、ひたすら本の整理を行ない続けた。
一人ではなかったとは言え、気の遠くなる様な長い時間、延々とそれだけを。
その甲斐有って、必要な資料の検索や閲覧が、大幅に容易になったのである。
これに付いては、ルーチンワークを苦にしない地味な性格も、良い方向に作用したのだろう。
そして彼は、その功績を称えられ、僅か十四歳にして司書長の役職を賜ったのだった。
部下が数人しかいない、こじんまりとした部署では有ったが。
無重力空間内で忙しなく働いている何人かの司書達。
自分よりも年長の部下達に指示を飛ばしながら、ユーノは検索魔法を使用している。
「ユーノ司書長、この本はどちらに分類すれば……」
「ああ、それは先週配布した検索魔法で確認してもらえるかな」
彼と同年代位の部下が、何冊かの本を携えて質問すると、目を閉じたまま答えてあげる。
寝ている訳ではなく、彼の周囲にある本が、分類された棚に向かって送られて行っていた。
「司書長、第三機動課から、関連資料の請求です!」
「C024の棚にまとめてあるから渡してくれないか」
やや急いだ様子でやって来た別の部下の質問にも、淀みなく対応するユーノ。
その姿は、年に似合わず堂に入ったものであった。
それは正しく、人が思い浮かべる典型的な魔法の発露の様子だった。
無限書庫で司書長として働きながらも、ユーノはミッドチルダの大学にも在籍している。
仕事があるため、通信制で学んでいるのだが、成績は極めて優秀だ。
趣味と実益を兼ねて履修している古代史では、発表した論文も広く認められる程だった。
彼が勉強に裂ける時間の少なさを考慮すれば、異例の事態ではあるだろう。
それは、稀代の魔導師として立場を固めつつある少女と肩を並べるための彼なりのけじめ。
凡庸な男では、彼女の目に留めてもらえないだろうという考えからだった。
「ふう……今日の仕事も終わりか。あ、帰ってからレポートの資料まとめとかなきゃ」
「あの、司書長。お客様がいらしてるんですけど」
定時が来たため、一通り後片付けを終え、ため息を吐いて予定を確認していると。
恐る恐るといった風情で、部下の少女が話しかけて来た。
こんな時間に誰なんだと、やや不機嫌に指し示された出入り口の方を見てみると、
「やっほ〜、ユーノ君お久〜♪」
「エイミィさん……?」
ずいぶんと懐かしい顔が、お気楽な様子で手を振って笑っていた。
とりあえず、食事でもしながらという事で、本局内の食堂に入った二人。
「一体どうしたんですか、わざわざ僕に会いに来たって訳でもないんでしょう?」
「まあねぇ。本局に提出する書類を持って来たついで……ってトコかな。
あ、ややこしい依頼をしに来たって事じゃないから、それは安心して」
注文を終えてから、単刀直入に疑問を尋ねるユーノに、エイミィも悪びれずに答えた。
一応知り合いとは言え、ユーノと彼女はあまり接点がある訳ではない。
せいぜい、顔見知りという程度の仲で、二人だけで話した事もなかったのだ。
「それなら深くは聞きませんけど、それだけでもないんでしょう?」
「解る? 実は、なのはちゃんが最近ユーノ君に会えてないって愚痴ってたらしくて」
なのはの仕事に問題が発生したのではないらしいと解って安心するユーノ。
改めてエイミィに問い質してみると、彼女はあっさりと頷いた。
「え? なのはが?」
「うん、そう。私も、フェイトちゃんからの又聞きなんだけどね。
駄目だよ〜? あんまり彼女をほったらかしにしちゃあ」
わずかに喜色を浮かべたユーノをからかう様に、エイミィの笑みに邪悪なものが宿る。
年下をいじって遊ぶのが、彼女の唯一の悪癖だった。
クロノがいれば、避雷針代わりにしてやるのだが、この場では自身で対応するしかない。
「い、いえ、別になのはは彼女って訳じゃ……」
「そうなの? てっきりお付き合いしてるもんだとばかり」
だが、困り顔で否定してきたユーノに、エイミィは拍子抜けした顔で目を丸くした。
そこへウェイトレスが料理を運んで来たため、この話題はうやむやにできたのである。
「……本当に、なのはとは何でもないんだけどなあ」
普通に会話する分には、エイミィとの食事は楽しいものであった。
胃袋を程好く満たして、宿舎へと帰る道すがら。
独り言と共にため息を吐いて、ふと遠くを眺めるユーノ。
その口調に暗い雰囲気を感じるのは、決して、彼が何でもない関係を望んでいないからだ。
できればなのはと恋人に、そして、叶うならば生涯の伴侶に――
そんな想いが、胸の裡に燻っているのも確か。
けれど、生来の臆病さからか、未だに面と向かって告白するに至っていない。
女性の様に線の細い体に、明らかな女顔。おまけに身体能力も並以下。
Aクラスの魔法力も、防御力こそ優秀ではあるが、攻撃力は皆無に等しい。
以前はつるはしを持って穴掘りしていた訳ではないが、仕事柄そこそこ体力は有った。
だが、無限書庫内は無重力空間で、本の移動も魔法で行なっている。
自発的に運動しない限り、体力は落ちて行く一方なのは当たり前。
と言うか、日常生活を過ごすのすら困難な状態になってしまうだろう。
けれど、学業と体力維持を量りにかけて、前者を選んでいるのが現状だった。
鍛えた所であまり身に付かないだろう、と諦めているという事もある。
そんな彼にとって、最近提督となったクロノ・ハラウオンは羨望の対象だ。
かなり低めだった身長も最近はぐんと伸び、声も完全に男性らしくなっている。
そして、格闘も達人級で、魔法においても攻防共に完璧に近い。
もし彼の目がなのはに向いてしまえば、とても自分では太刀打ちできない。
ユーノは、そんな危機感をずっと抱かざるを得なかったのだ。
だが、彼にとっては幸いな事に、クロノは新しくできた義妹にかかりきりだった。
それに、身近にはエイミィという魅力的な女性が付いている。
彼女達のどちらに気が有るかまでは、ユーノにも解らなかったが。
クロノは実母のリンディや、親友とも言えるエイミィ以上に義妹のフェイトを大事にしている。
それだけは、確かな事だった。
一通り資料をまとめた後に備え付けのユニットバスでシャワーを浴び、ベッドに寝転がる。
硬いベッドのスプリングの感触に、ここの所洗っていないシーツの少し据えた匂い。
もう慣れてしまったそれに、今更感慨など湧きはしない。
だが、今日会ったエイミィの言葉が、何となく思い起こされた。
――なのはちゃんが最近ユーノ君に会えてないって愚痴ってたらしくて。
ふと、ユーノは伸ばしっぱなしにした髪を束ねているリボンに意識を向ける。
なのはのしているのとお揃いの、深緑色の飾り気の無いリボン。
それを初めて見たエイミィは、嬉々として二人の仲を邪推したものだが。
事実は、そんなに艶っぽいものでは、決して無かった。
あれは、なのはの家に世話になっていた彼が、司書として管理局に向かう前日。
それまで浮かない顔を浮かべる事も多かったなのはが、突然言い出したのだ。
「ユーノ君の事信じてるけど、やっぱりちょっと寂しいよ。
だから、思い出になるもの、あげるね?」
そこであらぬ妄想が浮かんでしまったのは、誰にも言えないユーノだけの秘密だが。
彼の邪心など知る由もなく、なのははツインテールの右側のリボンを外した。
そして彼に近付き、そのリボンを彼に結んでくれたのである。
「これで、良しと。これで私とお揃いだねっ。
ユーノ君、あんまり会えなくなっちゃうけど、いつでも私を思い出してね♪」
「は、はは……うん、解ったよ、なのは」
満面の笑みを浮かべて、ユーノにそのリボンを贈ってくれたなのは。
台詞だけ見れば、ちょっと勘違いしてしまいそうなシチュエーションだが。
何の他意も無いだろう事は、ユーノは痛い程に理解していた。
それは、一体何故なのか?
その時の彼は、フェレットの姿に変身した状態だったからである。
恋する少女が、全幅の信頼を置いてくれている。
共に戦い続けたあの日々の中で、その信頼を口にしてもくれている。
けれど、そんな事実も、ユーノの心を癒してはくれない。
なのはが未だにユーノをペット扱いしている傾向が強い事を。
自業自得と諦められる程、ユーノは人間ができてはいなかった。
「うん、まあ、僕もなのはもまだ十五歳なんだし、これからだよね」
若くして、無限書庫司書長という重職にも就いていて、学者としても前途洋々。
伴侶となる女性に不自由を感じさせない程には、収入も貯蓄も充分以上に有る。
後は、お目当ての女性――つまり、なのはと親しさを増していくだけなのだ。
ついつい、皮算用で明るい未来を想像し、口元を緩ませるユーノだった。
想像するだけなら無害ではあるし、まあ、問題はないだろう。
何十人もの孫に囲まれて大往生した所で終了した妄想に後押しされ、ユーノは携帯を取り出した。
短縮の一番最初に入れてある番号をプッシュし、コール音に身を任せる。
しばらく鳴り続けたコール音が止むと、鼓膜に懐かしい少女の声が飛び込んでくる。
それは、ずっと、いつでも聞いていたいと思っている声。
『もしもし、ユーノ君? なのはだよ』
「もしもし。うん、久し振り。なのは……」
『どうしたの? もしかして、何か困った事でもあったの?』
「いや、ただ声が聞きたかっただけなんだけど」
軽く息を呑む音が聞こえ、ユーノも釣られて緊張してしまう。
『……そうなんだ? うん、私もユーノ君とお話したいなって思ってたんだ』
「ありがとう。そう言ってくれると、すごく嬉しいよ」
離れていた時間を感じさせない彼女に、口元に自然に笑みが浮かび、つい話も弾む。
気が付けば、今度の休みに一緒に映画を見に行こうという約束を取り付けていた。
彼に取っては、久々の快挙である。
そして、次の休みの日。
ユーノは久し振りになのはと会えるため、起きた時からご機嫌だった。
いつものまずいコーヒーと何も塗っていないトーストも、美味しく感じられる程に。
だらしなくにやけた彼の表情は、今にも溶けて崩れそうである。
無限書庫での仕事は、基本的に週に一度の休みを自由に決められる。
そこで、ここに務め始めてからは、ユーノはなのはと休日を合わせているのだ。
おかげで、日本の暦や学校行事等にはやたらと詳しくなってしまった。
それでも、急な仕事が自分やなのはに舞い込んだりしてふいになる事も多い。
ちょうど休みが重なったとしても、必ず会える訳ではないのである。
無邪気な顔で「アリサちゃん達と約束があるから」と断られ、何度涙を飲んだ事か。
悪気が全くないために、愚痴を言う事もできはしなかった。
フェレットの姿に変身できたのなら、そんな時も同行できたであろう。
だが、彼の正体は、なのはが魔法の力に付いて打ち明けた時にばれている。
年が九歳であったために、然程怒られはしなかったのであるが。
動物の特権を利用してやりたい放題だった彼に、なのはの友人達の目は厳しかった。
気の強いアリサなどは、少女らしい潔癖さで冷たい視線を向けて来たものである。
別に裸を見られたからとかではなく、騙していた事に対する怒りではあったが。
なのはの家族である桃子や美由希が許してくれたのは、不幸中の幸いだった。
「でも、こんな事に負けてちゃ駄目なんだよ……」
失ってしまった信用は、これからの態度で許してもらえば良い。
そう決意してはいるものの、やはり辛いものは辛かったりする。
いそいそと他所行きの服を選びながら、ため息が自然と出てしまう。
対して、クロノに対するアリサやすずかの反応は、概ね良好だった。
割と純情な所は有るものの、ストイックな彼の態度は、少女達には好ましいもので。
フェイトが彼の事を話す時の幸せそうな様子からも、好感度は上昇している。
たまに海鳴にクロノが来ると、かなりの歓迎を受ける事となるのだ。
これには、何でこんなに待遇が違うんだとユーノが嘆く事もしばしばだった。
嫌な記憶を一時的に脳内から追い出し、ユーノは身支度を整えた。
まずは、目前のなのはとのデートを無難にこなさなければならない。
なのはがこれをデートだと思っていないという事実も、とりあえず忘れる。
諦めてしまっては、可能性はゼロになるんだから、と自分を叱咤して。
「……っと、いけない! もうこんな時間か!?」
備え付けの壁時計を見ると、なのはと約束した時間まであと少しだった。
管理局の転送ポートを使用する事を考えると、割とギリギリっぽい。
急いで部屋を出ると、ユーノは転送ポートまで駆け出したのだった。
管理局に到着して、行き交う人々を避けながら早足で歩いていると、
「おい、ユーノじゃないか? どうしたんだ、そんなに急いで」
「え? クロノと……フェイト?」
不意に声を掛けられてユーノは振り向き、見知った顔を二つ見付けた。
明らかに他所行きと解る、フォーマルな服を着たクロノとフェイトの兄妹。
そして、二人の格好を認識するや否や、ユーノはすごい勢いでクロノに詰め寄る。
「二人しておめかししてるって事は、デート? これからデートなの!?
女には興味ありませんて振りして、やる事はやってるんだな!?
このむっつりすけべ!」
クロノは襟首を掴んで来た馬鹿の足を払ってこけさせ、うつ伏せにした上で背中を踏み付ける。
「何を興奮してるんだ、君は。ちょっと違う。
今まで皆の時間が合わなくて、お流れになってたんだけど。
僕とフェイトの昇進祝いを、家族内だけで、今日一緒にやる予定だったんだ」
肩を竦めながらユーノの背中を踵で抉りつつ、クロノが事情を説明する。
ユーノの事をからかい慣れているだけ有って、その仕草は落ち着いたものだ。
「なら、なんで二人きりで歩いてるんだ?」
「今日になって、母さんとエイミィとアルフに急な用事が入ってしまってね。
僕達だけでも言って来いって言われたんで、こうしてここにいるんだ。
まあ、良いレストランを予約しておいた訳だし、行かなきゃもったいないからな」
フェイトはじたばたと足掻いているユーノを心配そうに見るが、何も言わずに控えていた。
この二人の喧嘩は、アースラに身を寄せた当初から見慣れたものだったからだ。
「……用事、ね」
ちらりとフェイトに視線を走らせた後、小さく口の中で呟くユーノ。
絶対最初から仕組まれた事だと確信したが、懸命にもユーノはそれを口にしなかった。
腕を組むのも手をつなぐのも恥ずかしいのか、クロノの右腕の袖を軽く摘んでいるフェイト。
もし、事実を知ってクロノが出かけるのを取りやめれば、彼女に恨まれるのは確実。
いや、彼女の性格からして、悲しみはしてもユーノに負の感情は抱かないだろう。
けれど、なのはの耳にでも入れば、彼の株が大暴落するのは明らかだった。
何も好んで地雷原に足を突っ込む真似をする事もないだろうな、と考えながら、
「いけない! もう時間がないんだった!」
「なっ!? いつの間に……!?」
視線を泳がせた際に目に入った左手首の腕時計の時刻を見て、ユーノは目を瞠り。
どうやってか不明だが、クロノの足の下から脱出を果たして立ち上がった。
「それじゃ、僕はこれで……!」
「お、おい!」
ユーノは身を翻して、じゃあ、と手だけ振って挨拶の代わりとし。
訳が解らず制止の言葉をかけるクロノを振り切る様に、脇目も振らずに駆け出す。
その脳裏からは、不器用な兄妹の事情は、すっかり追い出されてしまっていた。
「一体何だったんだ? 訳が解らないぞ」
「……行こう、兄さん。予約した時間に間に合わなくなるよ」
「あ、ああ。そうだな、別にあいつに用事が有った訳でもないし」
摘んだ袖を軽く引っ張って注意を促したフェイトに頷き、クロノは歩き出した。
ユーノの態度に首を傾げていたため、隣を歩く妹の嬉しそうに綻んだ口元には気付かずに。
転送ポートを抜けた後も、ひたすら走り続けるユーノ。
慢性的な運動不足の体が酸素と休息を求めて悲鳴を上げるが、知った事ではない。
止まってしまったら二度と動けない。
そんな強迫観念めいた気合いのみで、足を前へ前へと動かしていた。
「あ、来た来た! ユーノく〜〜ん!」
「ごめん、なのは! ちょっと遅くなった」
待ち合わせの場所に着くと、彼に向かって手を振って来る少女がいた。
清楚な白いワンピースに身を包んだなのはである。
――うわ、相変わらず可愛いなあ。
場も弁えずトリップしそうになる意識をつなぎ止め、ユーノは進んで行く。
息を切らせながら傍まで近寄り、待たせた事を謝罪すると、
「ううん。今ちょうど時間ぴったりだよ?」
「え?」
腕時計を見ると、なのはの言う通り、待ち合わせの時刻ちょうど。
久し振りのデートに遅刻するのは免れたと、ユーノは安堵の息を吐いた。
そんな彼の様子にくすくすと笑うなのはだが、そこに嫌味なものはない。
「ずいぶん久し振りだね、ユーノ君」
「うん、そうだね。なのは」
ユーノが息を整えるのを待ってから、ほにゃっとした笑顔を向けて来るなのはに。
何とかユーノも笑顔を返す事ができた。
一瞬だけ彼女の表情に閃いた憂いの影を、気のせいだろうと頭から追いやって。
「映画が始まるまでは、まだ時間があるから、少し歩きながらお話しようよ」
「解った。じゃあ、どこら辺に行ってみようか」
とりあえず、二人はデートの定番とも言えるコースを回る事にした。
なかなか会えずにいただけに、話す事はたくさん有った。
「それじゃあ、この間の任務でも怒られちゃったんだ?」
「うん、そう。クロノ君なんて、もうカンカンになっちゃって。
フェイトちゃんなら、あんな時でも冷静に対処できるんだろうなあ」
「それは解らないけど、そうかもしれないね。
でも、ヴィータ達にはやての悪口を言ってたら、もっと酷い事になったと思う」
「あ、それは想像できるかも」
近況を話しながら、ウインドウ・ショッピングを楽しむ。
ここでは、なのはに普段着用の洋服を一着プレゼントできた。
アクセサリーやドレスとかは気取り過ぎかと思ってのチョイスだ。
「ここの払いは僕が持つから、好きなもの頼んでよ」
「でも悪いよ。私だって給料もらってるし、割勘にしよ?」
「だから安い所にしたんだから遠慮しないで」
「そう? じゃあ、ご馳走になるね」
そして、ファミリー・レストランで軽く昼食。
あまり豪華な所ではお互い気を遣うだろうという事で、そうしたのである。
「……思ってたより面白かったね、ユーノ君」
「うん。なのははアクションが好きそうだったから、どうかと思ったけど。
喜んでくれると、僕も嬉しいかな」
今話題の恋愛映画を見た後は、こじんまりとした喫茶店で、感想を交し合っていた。
望外に幸福な状況に、ユーノはすっかり舞い上がっていた。
時折なのはは何かを言いたげにしていたのだが、そんな様子も見逃していたのだ。
だから、気が付く事ができなかった。
あまりはやっていなさそうな喫茶店で、客が少なかった事。
なのはが喫茶店に入った時、わざわざ奥の席を選んだ事。
その席が、仕切りの代わりの観葉植物で周囲から見えにくかった事。
それが意味する事実に、欠片も思い至らなかったのである。
漂うコーヒーの香りの中、次第に二人の間の口数が少なくなる。
もじもじしながらはにかんでいる少女に、ユーノの期待は否が応でも増して行った。
ちらちらとユーノに視線を走らせながら、何かを言いかけて止める。
挙動不審に見えるなのはの行動に疑問を抱かず、ユーノの意識は昇華した。
「……そうだなあ、子供は男の子と女の子が一人ずつくらいが良いかな?
それから、白い二階建ての家を建てて、庭に大きな犬も一匹買おうか」
彼の妄想は、もはや持病の域にまで達しているのだろうか。
幸福な未来図に思いを馳せていたユーノが現実に戻って来た時。
思い詰めた様子で耳まで赤くして俯いたなのはが、こう言った所だった。
「……たユーノ君を抱き締めたいの。
今日会った時から、ずっと言うのを我慢してたんだけど。
やっぱり、ユーノ君が帰る前に、言うだけ言っとこうと思って」
「……はい?」
思わず問い返したユーノだが、顔を上げたなのはの熱っぽい視線に息を呑む。
実はちゃんと聞いてませんでした、等と言える雰囲気ではなかった。
「もちろん、ユーノ君が嫌だって言うなら諦めるけど。駄目……かな?」
「ももも、もちろん、なのはの頼みなら僕は問題ないよ!」
「ありがとう、ユーノ君。優しいんだね」
大きな瞳を潤ませ始めたなのはに、ユーノはどもりながら頻りに頷いてみせた。
指で滲んだ涙を拭いながらお礼の言葉を言った後、なのはは席を移動する。
テーブルを挟んだユーノの向かい側から、すぐ隣の席へ。
間近から見上げてくるなのはの綺麗な瞳に、ユーノは音を立てて唾を飲み込んだ。
ふわりと薫る少女の甘い匂いに、脳天がぐらぐらと揺れ、正常な思考を侵して行く。
離れているのに感じる彼女の体温が、彼の体を指の先まで灼いて行く。
我知らず彼女に向かって伸びていこうとする腕を抑えるのに必死なユーノ。
ユーノの心の葛藤を知ってか知らずか。
少し躊躇った後に、なのはは決意を瞳に閃かせ、可愛らしい桜色の唇を開いた。
そして――
「うん、これこれ。ほんと久し振り♪ 気持ち良いなあ〜♪」
「は、はは……良かったね、なのは」
しばらく後、なのはの悦に入った声に、乾いた声で答えるユーノがいた。
彼女は腕に抱いた金色の何かに、何度も頬ずりして喜んでいる。
それは、フェレットの姿に変身した(と言うか、させられた)ユーノ。
ユーノのさらさらした金色の毛は、出会った事からの、なのはのお気に入りだった。
彼女が人目に付き難い席を選んだのは、彼を変身させるためだった様である。
「どうせ、こんな事だろうと思ったけどね……」
ご満悦ななのはの腕の中で、しくしくと涙を流すユーノ。
彼に幸せが訪れる日は、まだまだずっと遠いらしかった。
後書き
こんばんは、Rebelです。
巷では淫獣呼ばわりされた上、A'sでは出番の少なかった彼に脚光を浴びせてみよう。
てな訳で、ユーノ編ですが、ちっとも報われてない様に思えるのは気のせい?
まあ、ユーノだし、良いか(笑)
ちなみに、彼の名前のスペルは、名前の元ネタの車ユーノス(EUNOS)から。
それではレス返しです。
>博仏さん
感想ありがとうございます。
はやての愛情は、個人に向けるのには大き過ぎる様に感じてたり。
下手すると、一生独身(コブ付き)な気もひしひしと。
>A・ひろゆきさん
感想ありがとうございます。
はやてと言えば、ヴォルケンリッター抜きでは語れません(独断)
この後はやてに怒られはしたでしょうが、反省はしても後悔はしてないでしょうね。
>黒アリスさん
感想ありがとうございます。
シャマル=ドジ(天然)の図式は私の頭の中で根深く、格好良い彼女は書けそうにないです。
それと、騎士達のデバイスもはやてを慕っているみたいですよね。
それらしい描写は、ヴィータとグラーフアイゼンの会話で出てましたし。