紅い、血のように紅い夕日が窓から差し込む。
日没を間近に控えた真紅の世界の中、近衛近右衛門は先ほどまで使用していた電話の子機を床に叩きつけた。
「……『弓』が動いたじゃと?」
呻くように言葉を紡いだ近右衛門の苦悩を嘲笑うかのように、叩きつけられたショックで壊れたノイズを吐き出す子機。
如何ともしがたい激情の吐露するかのように、相も変わらず壊れたノイズを吐き出す子機を睨みつけるが、そんなことをしても意味がないのは彼自身判っていることだ。
二三度、身体の中のしこりを吐き出すが如く、深く深呼吸をするとよろよろと自身の椅子にもたれかかった。
「くっ、由々しき事態じゃが、あの女狐がこれだけで済ますはずがないのう。何か裏があるはずじゃ。」
近右衛門の脳裏には、何故今頃になって教会が動きだしたのか?その原因と思わしき事柄が一つ一つ浮かんでは、消えていく。
「やはり京都の件で、エヴァンジェリンのことが洩れたとしかおもえぬのう……。」
鏡面のように見事に磨き上げられた自分の机を睨みながら近右衛門は呟く。
机は近右衛門の顔をうっすらと映していて、彼は自分自身と睨みあっているような錯覚におちいった。
「あれから十五年も経つのう……。」
机から目を背けて、近右衛門は顔をこの学校に囚われた吸血種の少女の住む家の方角に顔を向けた。
近右衛門の顔には表情が無かった。
のっぺりとした能面のような、だがそれ故に人の心の奥底を見透かすような眼差し。
………けれど、黒い瞳は、どこか辛そうに沈んでいた。
「………最悪、エヴァンジェリンを………」
そこまで言ってしまって、近右衛門は悔やんだ。後悔した。
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは最近になって表情が増えてきた。
まるで普通の少女のように泣き、怒り、喜び、笑う。
『Thousand Master』が願い、託したこと。それが彼の息子によって、ようやく芽吹いたところ。
近右衛門も件の少女はもうひとりの孫のように感じていたので、それは非常に喜ばしいことであった。
「そのはずじゃというのに、自分は今何を考えた!?近衛近右衛門!」
ああ、なんて罪深く、汚らわしく、そして甘美な考えか。
だが、そんなことできやしない、いや、してはいけない。
十五年前のあの日、『Thousand Master』から引き渡された彼女を、『闇の福音』としてではなく、『エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル』という一人の少女として扱うことを近右衛門は固く約束した。
今となっては彼女も家族。
「最悪、麻帆良学園が戦場になるのう……。じゃが……。」
だから、守ってみせる、この平穏を。エヴァンジェリンも孫娘の木乃香も麻帆良学園の生徒・職員、全てを。誰一人とりこぼしてやるものか。
そう決心すると近右衛門は、今しがた感じた罪悪感を振り払うかのように今後の対策のために各所に電話し始めた。
近右衛門唯一人の部屋に、かれの声のみが響く。
そのときには、すでに陽は沈み、鮮血の世界は消え失せ、学園長室の窓からは月の淡い光が差し込んでいた。
今日も夜出歩くことにした。
満月ではないが、ひどく儚い光を放つ月に秋の趣をかんじたからだろう。
「マスター、今晩はお早くお帰りください。明日朝早くに学園長がお話があるそうですので。」
玄関口でコートを着ている私に、『魔法使いの従者』たる茶々丸がそんな言葉を投げかけた。
抑揚の無い、感情を感じられない彼女の声を無視して、私は玄関から出て行った。
家から出るとそこは森、大通りにでるまで灯りはない。
周囲は闇。本来なら淡く照らしてくれる月光も木々に阻まれ、届かない。
人影が無く物音もしない深夜。
風だけが微かに吹いて、自分の家の周りの木々を揺らし、がさがさと葉を鳴らす。
「人は闇を恐れるあまり、光に安堵を求めたか………。」
だが、人間の原初の恐怖を呼び起こすような静けさの中での散歩は、私がエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだと再認識させるのに適している。
夜が深くなれば、闇もまた空間の支配を強める。
誰もいない場所を歩くのは、自分が一人になりたいだからなのだろう。それとも一人なのだと思い知りたいからなのだろうか。
…………どちらにしても分かりきったことだ。くだらない。
―――そのまま森を抜け、大通りにでる。
『闇の福音』これが私の通り名だ。
年齢は五十を超えた時点で数えるのをやめた。
五百年程前、ヨーロッパのとある村の裕福な家庭に生まれた私は、数え年で十になったとき、気がつくと吸血鬼になっていた。
私の住んでいた村は全滅。恐らく私が殺したのだろう。
それ以来、私は『異端』として人に狩りたてられるモノになった。
必死だった。使えるものは何でも使った。地に這いづくばり、泥を啜ったのも二度や三度どころではない。
そして殺した。殺した。殺しまくった。
私を殺そうとした者、私を利用しようとする者、私を恐れる者、私を嘲笑う者。
全部殺した。そうしなければ生きていけなかった、自分を保てなかった。
…………そうして気がつけば、『闇の福音』と呼ばれ恐れられるようになった。
―――大通りは月明かりや街灯のせいか、森などよりもずいぶんと明るかった。
私は時々でっかい糞の上を歩いている気分になる、特に人を殺したあとは。
だが、私に道徳やら正義というのは肌に合わない。
その手の言葉と尻からでるモノは、びっくりするほど似ていると思っているからだ。
学園長の爺は、私の境遇に同情を示しているようだが、そんなものはミサイルを売って平和を訴える阿呆どもと『どっこい』だ。
…………不意に誰かの顔が思い出された。
ぎりっ、と奥歯が悲鳴をあげる。
近頃、私は落ち着かない。こうして夜に散歩をしている最中は特に、何かとあの男を思い出してしまうからだ。
十五年前、私はここ麻帆良学園に封印された。それも念入りに魔力を封じ込まれた上に『登校地獄』というふざけた呪い付きで。
それ以来、私は中学生として授業を受けつつ生活しなければならなくなった。
はじめのうちこそあの男『Thousand Master』に対しての恨みつらみを心の中で罵詈雑言と共に吐き出していたが、そのうち諦めてしまった。
それからの私の生活は平穏そのものだった。ただ周りの人間は同級生であれ上級生であれ、私に近寄らなかったが。理由は恐らく思っていることがでやすいからだろう。
私は極度の人間不信だ。まあ、幼いころから命を狙われていたら、どうしてもそうなるだろう。だから、私は人から話しかけられても非常にそっけない態度をとってしまう。
…………別に個人個人については何も思っていないのだが、周りはそうは感じなかったらしい。いやだからこそか。
私のそういった性質はあっという間に学園中に知れ渡って、しばらくすると私に関わろうとする者はいなくなった、一部を除いて。
私もわずわらしい人間と係わり合いたくなかったので、周囲の反感はそのままにしておいた。
だが、そんな平穏は突然破られた。
最近赴任してきた教師が、何かと私と関わろうとしていた。私をこの状況に追い込んだ忌々しい『あの男』の息子、メルディアナ学園において史上最速で十歳という若さで卒業した天才『魔法使い』、その人物が私は気に食わなかった。
本当に気に食わなかったのだ、『あの男』と同じ名字を持つネギ・スプリングフィールドが。
―――遠くの街灯の下にナニカがいるのを感じた。
…………私がもつ『吸血鬼』としての本能が警鐘を鳴らす。
―――それは、まるで私を誘うように離れていく。
…………不意に、あの坊やの顔を思い出してしまった。
―――警鐘を無視して後を追う。
…………後になって思えば。きっとこの時の私の顔は、
…………ひどく禍々しい笑み浮かべていたはずだ。