――17年前――
「ねえおばちゃーん! 赤ちゃんにさやってもいい?」
目の前の女性にそう尋ねるのは、まだ3歳の美神令子だった。舌足らずながらも、どうにか言葉のキャッチボールが出来るようになった程度の年齢だ。
彼女は「かやいー♪」とほほ笑みながら、ベビーカーの中の赤子――生まれたばかりの横島忠夫の頭を撫でる。彼は気持ち良さそうに目を細め、大人しくしていた。
――さて、ここで一つ、本来の時空との相違点がある。
それは、忠夫が泣いておらず、ベビーカーの中にいたままであるということだ。
この時空の彼は、17年後のとある時点において、更にそこから先の未来の記憶が入り込む。そして未来の記憶を得た17歳の彼は、本来ならば起きるはずであった『時空消滅内服液による時間逆行』という事件を体験していない。
ゆえにこの赤子の忠夫に17歳の精神は入り込んでおらず、泣き出す理由も存在していなかった。
そして――それこそが、一つの分岐点。
「ねえおばちゃん! 赤ちゃんだっこしていい?」
「あらあら。いいけど、出来るかしら?」
「できるもーん。……んしょっと」
大人しい忠夫に気分を良くした令子が更に要求すると、母親――横島百合子は、微笑ましそうに目を細めた。令子はその言葉に頬を膨らませて反論しつつ、ベビーカーの中から忠夫を抱き上げる。
「おもーい。でもかやいー♪」
いくら0歳児の赤子とはいえ、3歳児の腕力で抱き上げるのは、さすがに少々つらいらしい。しかし令子は些細なこととばかりに、満面の笑みを浮かべた。
と――そこに。
「令子! 行きますよ!」
少し離れた場所から、彼女を呼ぶ母親――美智恵の声が聞こえた。
「もーちょっとまってー」
「わがままを言うんじゃ……あら?」
珍しく反発する令子をたしなめようと美智恵が口を開き、だが赤子を抱く我が子の姿に、その言葉を途中で飲み込んだ。
「あなたがこの子のお母さん?」
「ええ。すいません、娘がご迷惑を」
「いいんですよ」
母親同士、子供たちを見て微笑ましそうに笑いながら、言葉を交わす。本当なら、美智恵は一刻も早く令子を安全な場所に連れて行かなければならないのだが、目の前の光景はさすがに強引に終わらせるのは忍びなかった。
そして、少しの間ならと、子供は子供同士、母親は母親同士で盛り上がる。
が――美智恵はこの後、後悔する。多少強引にでも、早めに去っておくべきだったと。
――ピクッ。
背筋に悪寒を感じたその瞬間、美智恵はとっさに目の前の百合子をガバッ!と押し倒した。
「と、突然なに――」
ズガァンッ!
「きゃっ!?」
美智恵の突然の行動に、百合子が文句を言おうとする。だがその声を遮る形で、近くのベンチが木っ端微塵に砕け散った。
「な、何……!?」
(しまった……もう来た! でも狙いは私と令子……いえ、『時間移動能力者の一族』のはず。なら、多少強引にでも!)
突然の事態に目を白黒させる百合子を他所に、美智恵は一瞬で判断を下す。
相手がこちらのことを時間移動能力者とわかった上で狙っているのは、とっくにわかっている。ならば相手の目の前で時間移動をすれば、一旦は諦めざるを得ないだろう。
自分たちがいなくなった後で、この目の前にいる善良で無害な一般人の親子が犠牲になる――というシナリオも脳裏をよぎったが、直後にそれは極めて確率が低いと判断し、切り捨てた。時間移動はただの逃走とは違う。相手が声の届かない場所に行ったとわかっておきながら、人質を取るなどという無意味なことはしないはずだ。
まあ、相手の知能が低ければ、それをしないとも限らなくなるのだが……幸い、襲撃者の見当は付いている。そこまで馬鹿な相手ではない。
そして、判断を下した美智恵の行動は早かった。走って公園の隅まで移動し、手に持ったアタッシュケースをワンタッチで開き、中から霊体ボーガンを取り出す。
空に目を向ければ、自分たちを狙う刺客の姿。美智恵はそれを見据え、矢に霊力を纏わせてしっかりと『目標』に狙いをつけ――ボーガンの引き金を引く。
『はずれじゃん!』
だがそれは、あっさりとかわされた。ボーガンの矢は、公園の外にある電柱と電柱を繋ぐ電線の一本を切り裂くのみに終わる。刺客の罵倒が、美智恵の耳に届いた。
が――美智恵はそれを気にする様子もなく。
「令子!」
駆け寄ってくる娘の気配を探り、敵から視線を逸らすことなくそちらに左手を差し伸べ、右手を天に向ける。
そして、その手に向かって落ちてくるのは――今しがた切り裂かれた電線。
その電線が美智恵の手に収まり――
バチバチバチバチッ!
電気がスパークし、美智恵と令子の姿を包み込んだ。
そして――その光が収まった後には、二人の姿は影も形もない。
『なっ……しまった! 時間移動された!? くそっ……!』
刺客の悔しげな声が、その場に響く。そしてバサリと羽音を響かせ、刺客は去っていった。
そして、残されたのは――突然の事態に呆然と立ちすくんでいた、百合子一人のみ。
そう―― 一人のみ。
「た、タダオちゃん……?」
自分の息子が周囲のどこにも見えないことに気付き、百合子は狼狽する。
「タダオちゃああぁぁぁぁーんっ!」
彼女の絶叫に、しかし返って来る声はなかった。
――そして、現代――
「……ってことがあったのよ」
腕の中の赤子の横島――紛らわしいので、以降『ただお』と表記――をあやしながら、過去を振り返って語っていた百合子はそう締め括った。
「そんなことが……」
そう相槌を打つおキヌは、驚愕顔だ。
一方で、横島は――
「……なあ、心眼。どーゆーこった?」
『私に聞かれてもな……』
逆行前と明らかに違う展開を前に、こそこそと小声で話し合っていた。さすがの心眼も、原因がわからず困惑気味だ。
そしてそんな面々の後ろで、「ママぁーっ!」と泣き喚く幼い美神――便宜上、以降『れーこ』と表記――に頬を引っ張られているブラドーが、悲鳴を上げていた。
そして一方、妙神山では――
「いいわ。それにする」
緊張の汗を一筋垂らしながら、しかし美神は小竜姫の目を真っ直ぐ見据え、決然とした表情で頷いた。
「……本当にいいのですか? 冗談抜きに、本当に死にますよ?」
「それでも私の決断は変わらないわ。大丈夫、私は死なない――私の霊感がそう言ってる」
「霊力を使えない今、霊感を信じるのですか?」
「ええ。たとえこれが霊感じゃなくても、私は自分の勘を信じるわ。いつだって、そうやって生き延びてきたんだから」
警告を重ねる小竜姫に、美神は引く様子を見せない。
そして数秒、二人は無言で見つめ合い――
「……わかりました。この契約書にサインを」
ため息ひとつ。小竜姫は手に持った契約書を、美神に渡した。受け取った美神は、ためらうことなくサラサラと自分の名前を書き込む。
「契約書にサインした以上、もう後戻りはできません。修行は明朝に始めます。今夜はゆっくり休んで、明日の修行に備えてください」
サインされた契約書を受け取り、小竜姫はきびすを返して宿坊の方へと戻って行く。
美神はその背中を見送り――おもむろに、「パンッ」と自分の両の頬を叩いた。
「……上等!」
『二人三脚でやり直そう』
〜第六十二話 ザ・ライト・スタッフ!【その2】〜
「走れよこちまーっ!」
「ブヒヒーン!」
明けて翌朝――事務所にて。
「きゃははははっ!」
「パカパッパカパッ!」
れーこを背に乗せ、四つん這いで器用に走る横島。御丁寧なことに、轡まで噛んでいたりする。もちろん、その手綱を手にしているのは、背中のれーこだ。
昨晩は、全員で事務所に泊まった。横島にしろ百合子にしろ、れーことただおを放って帰る気はさらさらなかったからである。今は、横島は見ての通りれーこの相手をしていて、おキヌと百合子は朝食の準備をしている。
ちなみにブラドーは、自室の棺桶で就寝中だ。
「おはようございます、横島さん」
そこに、朝食を準備していたはずのおキヌが、ただおを抱いて入ってきた。
「あーっ! ただおちゃんだー!」
それを見たれーこが、横島の背から飛び降りておキヌの元に駆け寄る。「かちてかちてー♪」と手を伸ばしてねだるれーこに、おキヌは優しく微笑んで「はい」と手渡した。
「かやいー♪」
ただおを抱っこし、御満悦な様子のれーこ。それを横目に、おキヌは横島の方に寄って行った。
「……横島さん」
「うん」
微笑ましそうな表情から一転、真剣な表情になったおキヌ。その声を受け、横島も真剣な表情になって頷き、れーこに聞かれないよう二人でさりげなく部屋の隅に移動した。
「あの、横島さん……れーこちゃんが来たってことは……」
「ああ、たぶん――人工幽霊! 昨日、何か異常なかったか?」
おキヌの言葉に頷きつつ、横島は屋敷に向かって声をかける。
『……知っておられたのですか?』
だが返ってきたのは、そんな懐疑的な声だった。
しかしそんな問い返しに、横島は――
「いや、ただの勘」
と、しれっと答えた。この辺の応対は、心眼の仕込みである。その返答に、人工幽霊は『そうですか……』と、とりあえずそれ以上の追及をやめた。
『お察しの通り、実は昨夜、私の結界に侵入しようとした妖怪がいました。中には入れず引き上げたので、報告はしませんでしたが……』
その報告に、横島とおキヌは顔を見合わせる。やはり、やってきたようだった。
「……どうする?」
と問いかけるのは、右腕に嵌めてある腕輪――横島にとっての参謀役、心眼に向かってだ。
彼は『ふむ』と一拍置き、その問いに答える。
『相手の特技は空中戦……そして遠距離からの狙撃だ。あの時の横島でも捕まえれば押さえられたことから、近接戦闘は得意ではないと思われるな。
基本的に、この事務所で自在に空中戦ができるのはブラドーのみ――戦う場合は彼に牽制してもらい、おキヌ殿の魔装笛で動きを封じ、地上に引き摺り下ろしたところで横島がとどめを刺す……それがベストな戦術だろう』
対ハーピー戦の戦術を簡潔に話す心眼に、横島とおキヌはふむふむと頷く。
『問題は、奴が狙撃手であることだ。いつどこから襲ってくるかわからない以上、迂闊にれーこを外に出すのは危険だろう』
「俺たちは?」
『単独での外出は避けた方が良いな。ここかられーこを引きずり出すために、人質として狙われる可能性がある。手口がわかっているとはいえ、単独で相手をするには厄介な相手だ……常に二人以上で行動しろ』
「わかった」
「はい」
心眼の指示に、横島とおキヌは二人揃って頷いた。
『……まあ、美神殿がいないのは幸いだったな。護衛対象が増えるだけ負担も増すし、言っては悪いが戦力として当てにもできぬ。妙神山にいる分には、奴に狙われる心配もあるまい』
付け足すように言った心眼の言葉に、横島とおキヌは顔を見合わせる。
「でも美神さん……あんな状態で妙神山の修行って、本当に大丈夫なんでしょうか?」
「まあ、あの人のことだから、何があっても大丈夫だろうけど……」
心配そうなおキヌの言葉に、横島はそう返した。
「確か、タイガーさんの幻術で暗示をかけられて霊能力を封じられちゃったんですよね?」
「そうだけど?」
おキヌの質問に頷くと、彼女は「うーん」と顎に指を当てて少し考え込む。
「……タイガーさんに頼んで暗示の上書きをしてもらうって、できないんでしょうか?」
「あ、それ無理らしいよ」
こういう手はどうでしょう?とばかりに問いかけてきたおキヌに、横島は即座に首を横に振って否定した。
「ダメなんですか?」
「美神さんも、それは最初に考えたらしいけど……えっと、何でダメなんだっけ?」
『同じ暗示でも、事前情報があるとないとでは、かかる暗示の深さに差が出るからだ』
横島が説明しようとしたところで、途中からそれを心眼が引き継いだ。
『正反対の暗示を上書きする場合、ただでさえ元の暗示以上に強力な暗示をかける必要があるのだ。その上でそのような前提が出来てしまっては、当然、暗示をかけた当人であるタイガー殿には無理だろう。彼すら圧倒するほどの暗示の使い手が必要になってくる。
……だが、世界は広い。タイガー殿の暗示能力は、ああ見えても超がつくほど強力ゆえ、さすがにそれ程の者を探すのは手間になるし、雇うのにもそれなりの金がかかる。美神殿は即行で、この案を最終手段として保留した』
「みょ、妙神山は最終手段じゃなかったってことですか……」
その心眼の説明に、おキヌは乾いた笑いを浮かべた。
なんとも罰当たりな話だとは思うが、同時に美神らしいとも思えた。金のかかる手段を後回しにしたこともそうだが、廃案にはしなかったこともである。
守銭奴だ銭ゲバだと言われ、事実その通りの言動をする美神だが、必要なことに出費を惜しまない一面も持っている。おそらく妙神山でさえダメだった場合、彼女は迷いも見せずに大金を出してそれを実行するだろう。
『まあ、それを心配しても仕方あるまい。美神殿のことは置いておき、こちらはこちらで、この事態を乗り越えることに専念するべきだな』
心眼がそう締め括ると、台所の方から百合子が「ご飯できたわよー」と声をかけてきた。
『打ち抜く……止めてみ「っくしゅっ!」
一方妙神山では、事務所の方でそんなことが起きているなど露にも知らない美神が、コントローラーを手にしたままくしゃみをしていた。
彼女の目の前では、大画面の中で赤いロボットが大立ち回りを演じており、パイロットと思しき青年が見得を切っていた。最後まで言い終わる前に、美神のくしゃみでかき消されたが。
声がピートに似ているような気がするが、たぶん気のせいである。そしてそのロボットは、敵の反撃で手痛いダメージを受けていた。
「……ああもう! 一撃で終わらないの!? この水中歩いてやってくるデブロボット、堅すぎじゃない! 一面でこの難易度じゃ、後々どーなるってーのよ!」
「キーッ! ウキーッ!」
袖で鼻をこすりながら、美神が文句を垂れる。その隣では、眼鏡をかけた猿が、攻略本を手に騒いでいた。
『倍返しだぁぁーっ!』
画面の中では、某勇者王みたいな声の少尉が反撃に転じていた。
「まさか、この歳になって赤ん坊の頃の忠夫をあやすことになるとはね……」
場面は戻り、事務所の中。
腕の中ですぅすぅと寝息を立てるただおに、百合子は懐かしそうに目を細めてつぶやいた。
その脇で一緒にただおの寝顔を覗いているのは、有事に備えて霊衣である巫女装束に身を包んだおキヌ。二人の背後では、横島が積み木や絵本で一生懸命れーこの相手をしていた。
「それにしても百合子さん、よくこの子が横島さんだってわかりましたね?」
「そりゃ親だもの。一目見ればわかるわよ」
おキヌの問いに、百合子は当然と言わんばかりに答えた。
「まあ確かに、時間移動なんて非常識なこと、普通は信じられないんだけど……あの親子の姿は、17年前に見覚えあるからね。それしか考えられない以上、信じるしかないでしょ?」
そう言って、彼女はちらりとれーこの方に視線を向けた。
「よこちま! おうまさんごっこ!」
「はいはい。それじゃ背中に乗って」
「わーい♪」
彼女は横島に再びお馬さんごっこを強要し、苦笑しながら四つん這いになる彼の背に飛び乗った。きゃっきゃっとはしゃぐれーこに、調子に乗った横島は「ブヒヒーン!」といななき声を上げながら、部屋の外へと駆けて行く。
その様子を見た二人は、視線を合わせるとクスッと微笑を漏らした。
「でも17年も前のこと、よく覚えてますね?」
「そりゃ、忠夫が連れ去られちゃったからね……嫌でも覚えるわ。あの時は私も気が動転して、後になって忠夫を連れて謝りに来た彼女に、そりゃもう怒鳴り散らしたものよ。
……いくら生まれたばかりの一人息子のこととはいえ、あれだけ冷静さを失ったのは後にも先にもあの時だけよ。私も若かったってことよねぇ……」
しみじみと語る百合子の表情は、まるでそれが過去の失態であるかのように気まずそうだった。
「でも、その行方不明中の横島さんが、今この時代で百合子さんの腕の中にいる……奇妙な縁ですよね」
「まったくね」
苦笑する百合子。おキヌはその腕の中のただおに、そっと手で触れる。
「赤ちゃんの頃の横島さん……ふふっ、可愛い……♪」
「抱く?」
「え? あ、はい」
突然問いかけられ、戸惑いつつも頷く。先ほども抱かせてもらっていたので、ただおは特に手こずることなくおキヌの胸の中に収まった。
「他人の胸の中でも大人しいものねぇ……この頃から女好きの片鱗はあったってことかしら?」
「いくらなんでも、それはない……と思いますけど……」
百合子のぼやきに、おキヌは苦笑しながら返すが――まったく有り得ないとは言い切れず、歯切れが悪くなるのが悲しいところだった。
と――
「う……」
小さなうめき声と共に、おキヌの腕の中のただおが身じろぎした。
「あ……起きたかしら?」
おキヌがつぶやいた、その直後。
「ふぁ……う……」
「え……?」
ただおの目に、涙が浮かぶ。
やばい、と思う暇もなく――
「ほんぎゃあ! ほんぎゃあ! ほんぎゃあ!」
「きゃっ!」
「あらあら」
突如として、大音量で泣き出した。おキヌは小さな悲鳴を上げたが、対面する百合子は至って冷静である。
「え? え? な、なんか抱き方悪かったんでしょうか?」
「そうじゃないわね……この泣き方は、たぶんお腹空いたんじゃないかしら?」
「わ、わかるんですか?」
「そりゃあ、ね」
戸惑いつつ尋ねるおキヌに、百合子はウィンクして答えた。
「ちょっと待ってて。今、ミルク作ってくるわ」
そう言って、百合子は台所に向かう。
ちなみに粉ミルクとオムツは、昨晩コンビニで買って来ていた。両方とも、既に夜のうちに一度使っている。24時間営業のコンビニでそれらが手に入るとは、便利な時代になったものである。
そしてオムツ替えは百合子がやったのだが、その場に横島がいたなら悶えていたことは間違いないだろう。なにせこの赤子は横島自身なのだ。赤子時代とはいえ、自分自身のオムツ替えを見るのはかなり恥ずかしいものとなるだろう。その時に熟睡していたのは、横島にとって幸いと言えた。
……が、先延ばしになっただけとも言えるので、そう遠くないうちに横島が「自分でやる」と言い出すのは明白だったが。
――閑話休題。
「ほんぎゃあ! ほんぎゃあ!」
「はぅ〜……」
ただおを抱いたまま、おキヌはすることもなく途方に暮れる。
あやそうにも、お腹が空いていることを訴えて泣いているのなら効果はあるまい。逆行前にひのめの世話を経験しているとはいえ、やはり泣く赤子を前にしては困惑してしまう。
しかし、ミルクが出来上がるのをただ待っているだけというのも、それはそれでどうかと思う。
「う〜ん……よしっ」
泣きやんでもらうために、自分に出来ることはないか――そう思い、考えること数秒。おキヌは一つだけ思いつき、それを実行することを決めた。
おキヌはおもむろに、巫女装束の左側の衿に手を掛け――
――はらり、とその衿をはだけた。
「……おっぱいは出ませんけど、とりあえずこれで我慢してくださいね」
あらわになった左の乳房。おキヌはそう語りかけながら、その桃色の先端にただおの顔を寄せる。
するとただおは、おキヌの乳房にしがみつき、その先端を口に含んだ。
「……痛っ」
赤子が母乳を吸う力は、意外なほど強いという。ただおも例外ではなく、その痛みにおキヌは思わず顔をしかめた。
だが、とりあえず泣きやみはした。近いうち、いくら吸っても母乳が出ないことに不満を訴え、再び泣き始めるのはわかりきっていたが――落ち着いているのには変わりない。
「ごめんね。もうすぐミルクが出来上がりますから」
母乳が出ないことを謝りながら、腕の中のただおの頭を撫でる。
そうやっているうちに――部屋の外から、どたどたと慌しい足音が聞こえてきた。その足音に、おキヌは部屋の入り口へと視線を向ける。
「出来たのかしら? ……でも百合子さんって、こんなに足音立てる人……だった……っけ……」
その台詞は、後になるほどに尻すぼみになった。そしておキヌは、その姿勢のまま『カチーン』と擬音がしそうなほどに硬直する。
なぜなら部屋に入ってきたのは、百合子ではなく――
――れーこをその背に乗せて四つん這いになっている、横島その人だったのだから――
…………………………………………ぼむっ。
おキヌの顔が急速に真っ赤に染まり、その頭頂部から煙を吹く。その視線を真正面から受け止めている横島も、おキヌ同様に硬直してピクリとも動かない。
だがその視線は、おキヌの――その先端こそただおの頭で隠れているとはいえ――丸出しになった左の乳房に固定されているのは、誰の目にも明白だった。
そのまま、一秒、二秒と過ぎ去る。
だがその硬直は、そう長くは続かなかった。
「あ〜っ! おキヌちゃん、ただおちゃんにおっぱいあげてゆーっ!」
「「!?!?!?!?」」
――この場にいたのは、その二人だけではなかったのだから。
そのいかにも「面白いものを見た」と言わんばかりの嬉しそうな声に、横島とおキヌも再起動せざるを得なかった。
「あ、あう、あう……っ!」
「ごごごごごごめんおキヌちゃん! 俺は見てない! 何も見てないからーっ!」
咄嗟に胸をしまうが、茹蛸のように顔を真っ赤にし、ぱくぱくと言葉にならない言葉を吐くおキヌ。それを見た横島は、慌てて立ち上がって回れ右をして部屋を出て行こうとする。
――が。
まあその、二人のその行動が、この場合非常にまずかったわけで――
「うっ……」
「ひぐっ……」
「「あ」」
おキヌと横島の耳に届いた、小さな決壊の声。
二人は我に返ってそれに気付くが、時既に遅し――
「ほんぎゃあ! ほんぎゃあ! ほんぎゃあ〜っ!」
「びええぇぇぇええええぇぇえぇぇぇぇ〜っ!」
「「ああうっ!」」
片や『胸を隠すために』無理矢理乳房から引き剥がされ、片や『横島ががいきなり立ち上がった』ことで床に投げ出され、お子様二人は盛大に泣き出してしまった。
「ああっ! ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいい〜っ!」
「わ、悪い! 悪かった! すんまへん美神さん! だから泣きやんで〜!」
泣く子にゃ勝てない。おキヌと横島は、それぞれ泣きやんでもらおうと、平謝りに謝り倒した。
――ちなみに。
ミルクを手にやってきた百合子がその惨状に「何やってんの?」と疑問を投げかけるのは、それからきっかり30秒後のことだった。
それから少々時間が過ぎ、午前10時を回った頃――横島は、百合子と一緒に商店街を歩いていた。
今二人がここにいるのは、ただお用のベビー用品を買い揃えるためだ。美智恵がいつ迎えに戻ってくるかがわからない以上、備えはしておく必要がある。コンビニで買った間に合わせだけでは、心許ないのだ。
当初、買出しには百合子が一人で行くと言っていた。だが横島とおキヌは、人工幽霊の言った『妖怪』のことを教え、危険だから自分たちが代わりに行くと主張した。
だが、その主張に対し、「あんたら二人がベビー用品買ったら、どんな噂が立つか想像できる?」と言い放った百合子の言葉に、二人は真っ赤になって自分たちの主張を取り下げた。
だが、だからといって百合子を一人で外出させるわけにもいかない。そういうわけで、横島が付いて行くことになった。
――のだが――
「俺のくせに俺のくせに俺のくせに俺のくせに俺のくせに俺のくせに俺のくせに俺のくせに……」
幽鬼のような表情でブツブツと呪詛を吐く横島。その様子に、さすがの百合子も一歩引いている。実の親である百合子でさえこれなのだ。周囲の通行人など、完全にドン引きである。
彼がこうなったのは、ここに来る途中で『あること』に気付いたせいであった。
それは――おキヌの胸に顔をうずめ、その乳首を口に含んでいたのが、他ならぬ赤子の自分だということである。
(なんてうらやま……いやけしからん! 俺のくせにおキヌちゃんの胸に顔をうずめるなんて……! そんなこと、俺がしたい……じゃなくて、許すわけにはいかん! おキヌちゃんはそんなエロキャラやないんやーっ!)
色々と間違った方面に怒りを向ける横島。その横顔に、百合子は疲れたようにため息をついた。
「あんたね……何考えてんだか知らないけど、自分に嫉妬なんて馬鹿なことするんじゃないわよ」
「自分だから許せんのじゃ!」
「わけわかんない理屈ほざくんじゃないわよ」
がーっ! と反論する横島の頭を、百合子はパコンと軽くはたく。
横島としては、自分がかつて母親以外の女性――しかもよりにもよっておキヌ――の乳房にしがみついていたことが、どうしようもなく悔しかった。
とはいえ、その理由の大半が――
(なんで覚えておらんのじゃ! 俺の馬鹿! 馬鹿ーっ!)
ということであるあたり、ある意味『終わってる』と言えるだろう。
そうやって悶え続ける横島の姿に、百合子は改めて疲れたようなため息をつく。そして、ちょうど近くにあったスポーツショップに目を向けた。
「……ハリセンが欲しいわねぇ……」
そうつぶやく百合子の視線は、新品らしい光沢を放つ金属バットに固定されていた。
……その金属バットが真っ赤に染まるまで、あと3分。
―― 一方その頃、事務所では――
ごろごろごろごろごろごろごろごろ……
顔を真っ赤にしたおキヌが、しきりに床を転げ回っていた。
彼女の心は、かつてないほど羞恥でいっぱいになっていた。横島に胸を見られたから――だけではない。先ほど、自分が乳を与えていた赤子もその横島当人に変わりないことを失念していて、今更ながらにそれに気付いたのである。
羞恥のあまりどうして良いのかわからなくなった彼女は、際限なく床を転げ回るという奇行に走り、今に至っている。
「おキヌちゃん、その遊びおもしろいの?」
「っ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
不思議そうに問いかけるれーこに答える余裕もなく、おキヌはいつまでも床を転げ回っていた。
ごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろ……
横島親子がそんなやり取りをし、おキヌが事務所で悶えている、その一方で――
『……あの屋敷の結界は厄介だね。ここはもう、搦め手を考えるのが一番じゃん』
商店街から300メートルほど離れたビルの上。そこの給水タンクの上に立つ影は、誰ともなしにつぶやいた。その肩や足元には何匹もの小鳥が止まり、羽根を休めている。
その影は、横島たちの記憶通りの刺客――すなわち、美智恵の退魔護符によって一度は退けられ、つい最近現世に舞い戻ってきたハーピーであった。
『今手を出せる相手は、外出してるあの二人……さて、どーしよっか?』
彼女は遠く離れた場所で歩いている横島親子を見ながら、そう言って顎に手を当て、小首を傾げて考え始めた。
――東京でそんなことが起きているその頃、一方で妙神山にいる美神が何をしていたかというと――
『行くぞ、小娘……!』
妙神山修行場の異界空間で、巨大な魔猿と対峙していた。
彼こそがこの修行場の最高責任者、猿神(ハヌマン)斉天大聖である。その手には、その巨体にふさわしいほど巨大な棍が握られていた。
「こりゃ、さすがに洒落にならない相手ね……!」
美神は緊張した面持ちでそうつぶやき、神通ヌンチャクを構えた。
――あとがき――
昼間なのでブラドーは就寝中。今回も絶賛進行中な横キヌフラグをぶち折るという任務を果たせそうにありません。美神さん人選ミスな気がひしひしと。
そして次回からよーやっとハーピーが動き出します。あまり長丁場にしたくはないのですが、さてどうなるやら。
ではレス返しー。
○1. 朔夜さん
初レスありがとうございます♪ 一週間、お待たせしちゃいました(^^; 前回冒頭の一文の意味は、今回の冒頭で明らかになりましたw
○2. giruさん
実際のところは、横島自身が足手まといの域を脱してなかった原作時と比べた場合、かなり有利な条件になっちゃってるんですよね。むしろ知恵を絞って切り抜けなければならないのは、ハーピーの方だったりするかもしれませんw
○3. 山の影さん
西条が来た時は、「オカルトGメン」という共通の商売敵がいたので、あれほど仲間が集まったんだと思います。まあそれを抜きにしても、しばらくは登場キャラを絞って書くつもりですがw 人工幽霊は、所有者不在のまま明治時代からいられましたので、多少の時間はどうってことないんじゃないでしょうか?
○4. Tシローさん
はい。もちろん、この段階で美神が猿の修行という流れは、今後のイベントの順番に影響出ます。……そーです。アレが前倒しになるのですよ(ニヤリ
○5. 輝さん
前回のめぞんネタは、実際にやっちゃったらおキヌちゃんのキャラじゃないので、夢オチという形にしました。ラブコメは、今回もはっちゃけてます♪
○7. NAIさん
あのアニメも、そろそろ知ってるだけで年齢がバレるぐらい懐かしいものになってますねーw
○8. ハイブリッドレインボウさん
おキヌちゃんのGS免許は、普通は「校則<法律」なので、取っちゃった以上はどうしようもないんじゃないでしょうか? 美神が猿の修行でどうなるかは、次回をお楽しみにといったところですね。ブラドーとピートは仕事中に何かあったかもしれませんが、別に書くほどのことでもない(酷っw)ので、ご想像にお任せしますw
タイムパラドックスに関しては、あまり気にしない方がいいかと。ここで守り抜いたからこそ、今の美神や横島がいるとも考えられますし。
○9. Februaryさん
子育て経験は、実は百合子だけじゃなくて横島とおキヌちゃんも、ひのめで経験してるんですよねw その辺は心配いらないと思います。
陰念の行先は…………うーん…………(想像しててだんだん可哀想になってきた)……………………南無?
○10. 管理人様
いつもお世話になっております。管理業務は大変かと思いますが、健康にお気をつけて頑張ってください。
○11. 秋桜さん
人攫い=美神母という構図が自然に受け容れられてしまうというのはどうなんだろう……(汗
登場人物が減って、美神の修行もいきなり最終段階に進んでしまいましたが、横島たちの方はたいして進んでいない罠。あと2話ぐらいでハーピー編終わらせられればなーと思ってますが……はてw
○12. 内海一弘さん
分の悪い賭けにも程があるってぐらいですが、美神は受けちゃいました。猿を前に美神がどうなるか、次回を請うご期待♪
○13. 白川正さん
すいませんが、少々結論を急ぎすぎてませんでしょうか? 前回の時点では経緯を一切語っていませんでしたし、その段階で「設定に無理がある」と断じるのは早計に過ぎるかと。今回の話を見てなおそう思われるのでしたら、それは私の力不足でしょうから、素直に受け止めますが。
それと、「エミの修行が出来る位だから霊能発揮も不可能ではない」とおっしゃってますが、私にはその両者のどこに関連性があるのか、さっぱり理解できませんでした。出来れば伝わりやすいよう、もう少し具体的に説明していただけると助かります。
あと、タイガーの暗示能力を使わない理由はあったのですが、これは単に説明をし忘れていただけなので、完全に私の落ち度です。すいませんでした。今回心眼に説明させましたが、御納得いただけましたでしょうか?
○14. チョーやんさん
横島家と美神家に関しては、まあ赤子横島を巻き込んでしまったのは事故のようなものですし、最終的に何事もなく戻ってきたわけですから、話し合えばそれほど問題にならないかとw おキヌちゃんは、今のところ最もリードしてる状態ですが、後続に油断のならない人ばかりいますので、はてさてどーなることやらw
○15. ベルルン&モリリンさん
初レスありがとうございます♪ 横島を連れ去ったのは、あくまでも子供の美神であって今の美神じゃありませんので、美神vs百合子はそれほど心配するほどのものではないかとーw
……まあ、別の理由で激しくなる可能性はありますが(ニヤリ
○16. ウェルディさん
バタフライ効果というのは、「やったこと」の結果のみが影響するわけではなく、「やらなかったこと」の結果も影響するってのがミソですねw こういうのは、考えれば考えるほど面白くなります♪ ……文章に起こして面白くなるかどうかは、作者の力量次第なんですけど(汗
○17. 木藤さん
はいw 百合子が美神に厳しく当たっているのは、理由あってのことですw ……まあ、本当の理由は別のところにあるんですけど。
○18. いりあすさん
八つ当たりで霊力フルパワーってのは、気のせいですw ……たぶん。きっと。めいびー。
そして赤子横島までついてきた経緯は、まさしくいりあすさんの言葉通りでしたw そして横×キヌは、現時点でさえまさしく王手直前なんですが……はてさて、今後どーなることやらw
○19. アクメイカンさん
初レスありがとうございます♪ 原作基準のキャラクターのやり取りと評価していただき、それを心がけている身としては嬉しい限りです。横島は確かに現状何もしてない状態ですが、最終的な形(美神、おキヌちゃん含めて)は既に作者の頭の中にあります。あとはどういう経緯を辿ってそこに行かせるか、ですね。
華は物語の本筋には関わらせない方針ですが、それとは別に、ちゃんと活躍の場は用意してます。どうなるかは今後の展開をもって返答とさせていただきますが(^^;
おキヌちゃん不在時に百合子が言った台詞ですか……どの場面かは想像つきますが、まあ心配いらないでしょう。百合子を引っ叩くより、横島の心を最優先で心配すると思いますし。
○20. 鹿苑寺さん
帽子はちゃんと帽子掛けに掛けましょう(ぇ
あと、私が送信した電波は、既に本文中にあります。その電波はきっと毒電波ですよー(マテ
レス返し終了ー。では次回六十三話、戦闘シーンに入……れればいいなぁ(ぉ
BACK< >NEXT