横島はすうすうと静かに寝息を立てるおキヌの横顔を見つめている。
肩にもたれかかる重さは決して不快ではなく、むしろおキヌの存在を実感する事ができた。
吹き抜ける穏やかな風がおキヌの髪を撫で、風に流された艶やかな髪は横島の腕をそっと撫でる。
呼吸のたびに、形の良い唇がまるで誘うように微かに動いている。
周囲に人の気配は無く、今この瞬間、横島とおキヌを遮るものは何も存在しなかった。
(ああ、やばい……おキヌちゃんってば可愛すぎる……!)
後ほんの少し顔を近づけるだけで、仲の良い友人から特別な関係に進めるかもしれない。
今は、昔みたいに経験が無かった少年時代とは違うのだ。キスどころか、そこから先の先まで知り尽くしている。
だが横島は横顔を見つめるだけで、それ以上の事をする素振りさえ見せていない。
美神との約束を破り、寿命の半分を失うのが怖いのか?
現在付き合っているシロを裏切るのが気が引けるのか?
シロを裏切ったとみなされ、タマモから責められるのがイヤなのか?
それとも、記憶を失っているおキヌに手を出すのはフェアではないと思っているのか?
わからない。
横島自身、ハッキリとした理由はわかっていなかった。
だが、今は直接的な接触ではなく、この穏やかで柔らかい時間こそを大切にしたかった。
だからこそ、横島は疲れを癒やす止まり木の役目に甘んじる事にしたのだ。
このまま静かに時が過ぎるのも悪くない。
そう思った時だった。吹き抜ける風に混じる気配に、横島の視線が鋭くなる。
依然、周囲に人の気配は無い。
だが、人以外の気配が二人に近付いていた。
「――――今後の日程は、8月10日まで東京でコンサートを行い、8月15日に沖縄で慰霊祭を執り行います。」
ひっきりなしにフラッシュがたかれる中、詰め寄せた記者達の前で美神が質問に答えている。
隣に座るおキヌは特に質問に答える訳でもなく、穏やかな笑みを浮かべて記者たちに微笑んでいた。
半透明の薄絹状の羽衣を羽織り、清楚な巫女姿に身を包んだその姿は、記者達の視線を一身に惹きつけていた。
「今回の来日でのコンサート会場は、本日使用されたお台場アリーナのみとの事ですが、地方での公演の予定はないのでしょうか。」
今回のコンサートは今日の会場でしか予定されていなかった。
いくら後一月の間に十回以上開催するとはいえ、地方在住の人間にはなかなか厳しい話だ。
「はい。氷室自身も全国を巡りたいと希望していますが、残念ながら警備の点から、それは断念せざるを得ないと判断しました。」
記者達の間から、残念そうなため息が漏れる。
しかし警備の都合だというなら、それに文句をつけるのは無意味だ。
もっとも、彼らに不満を口にするような権利は無いのだが。
「毎回、コンサートの様子はマスコミに公表されず、特に映像媒介での販売などもされていませんが、慰霊祭についても同様なのでしょうか。」
おキヌのコンサートの内容は公表されていないが、それを体験した人間の口コミによって『魂を癒す』という評判だけが広まっていた。
しかし体験した人間にも、それを具体的に筋道立てて説明することが出来ないため、結局コンサートの内容は明らかにならず、神秘的なイメージだけが世間に伝わっているような状況だった。
美神がコンサートを映像化しないのには理由があった。
出来るなら美神も映像化して、それによる収益を上げたかった。
収益を上げたいといっても、以前のように自分の欲によるものではない。
全ての収益を寄付する際、より高額の金額を寄付したと世界に公表したかったのだ。
何故なら、それによるイメージアップは直接的ではなくても、いつか何らかの形でおキヌの助けになると考えていたからだ。
だが、それには一つ問題があった。
おキヌのネクロマンサーの笛による癒魂は、直接その笛の音を聴かせなければ効果を発揮できないのだ。
以前、コンサートの様子を映像作品として試しに撮ってみた事があったが、出来上がったのは何の変哲も無い演奏風景だった。
幽霊の楽団というのは確かに珍しいが、おキヌのイメージアップになるかと言われれば、正直微妙な所だった。
今のおキヌは『ネクロマンサー』ではなく『現代の聖女』なのだ。幽霊を引き連れての演奏というのは、大衆が望む姿ではなかった。
確かに収益も重要だが、美神は『現代の聖女』という畏怖されるであろうイメージの方を優先する事にしたのだ。
そんな理由があり、コンサートの様子は伏せていたのだが、慰霊祭に関しては別の話だ。
むしろ、過去の大戦による犠牲者の魂を浄化する所を、思う存分世間に知らしめておきたかった。
勝手に作られるイメージも良いが、やはりそれ以上に直接おキヌの力を世間に見せつけてやりたかった。
おキヌがどれだけ高い霊力を持っているかが知れ渡れば、誘拐しようなどという馬鹿は二度と現れないだろうから。
そういう意味では、沖縄での慰霊祭はこれ以上無い好機と言えた。
「いえ、慰霊祭については、その模様を大々的に皆様にお見せできるかと思います。
国側からも、警備の徹底を約束して頂いていますし、慰霊祭にはマスコミの皆様もお招きできる事でしょう。」
期待に満ちた感嘆の声が記者達から漏れた。
今まで謎に包まれていた、聖女の慰霊の姿を、ついにその目で見届ける事が出来るのだ。
マスコミとしては、願ってもない展開だろう。
記者会見が行われているビルの入り口。
入館者を厳重にチェックする警備の姿に、黒い長髪を背に垂らした男がため息をついていた。
「やれやれ。運が良ければ令子ちゃんと話が出来るかと思ったが……またの機会に出直そうかな。」
自分の素性を説明すれば、警備を潜り抜けることは容易だろう。
だがその手の職権濫用的な行いは、男の矜持に反する。
残念そうに一度だけ振り返り、男は車に乗り込むと、その場を後にした。
「見てわかると思うけどさぁ……邪魔して欲しくないんだよな。
せっかく二人っきりなんだし、気を利かせてくれるとありがたいんだけど。」
静かな寝息を立てるおキヌを起こさぬように、だがハッキリとわかる霊圧を乗せて訪問者を見据える。
低く冷たいその言葉は、向けられた者を追い払うには充分すぎる威圧感を伴っていた。
だが、訪問者はゆらりゆらりと二人に近づいてくる。
ある程度まで距離を詰めた時、横島が小さくため息をつき、その身体から緊張が解けた。
「どうした少年、迷子にでもなったのか。
それとも、もしかしてこのお姉ちゃんの知り合いなのかな?」
そこにいたのは、野球帽をかぶった小さな少年の浮遊霊。
青白い人魂を浮かび上がらせるその姿は一般の人には恐怖かもしれないが、横島にとっては生身の人間よりよほど安全な存在だった。
相手から感じる霊圧に、敵意や悪意は混じっていない。
生身の人間が相手ならこうはいかないが、直接霊圧を放出している浮遊霊なら、すぐに害のある存在か見抜く事が出来た。
昔から浮遊霊達と親しく付き合っていたおキヌの事だ。もしかしたら顔見知りなのかもしれない。
気持ちよさそうに眠っているおキヌを起こすべき思案していた時、少年が口を開いた。
「ねえ……お姉ちゃんを助けてあげて……」
小さな、ともすれば聞き逃してしまいそうな囁き声。
何の事かわからず怪訝な表情の横島に、少年がさらに距離を詰める。
「お兄ちゃんは強い人なんでしょう……?
今夜……これからお姉ちゃんが襲われちゃうんだ……」
「おい、いったい何の話――――?」
問い掛けようとした横島はハッと息を飲んだ。
野球帽の下の少年の瞳は虚ろで、その身体は徐々に透き通りつつあった。
「怖い人が言ってたんだ……これからお姉ちゃんを襲うって……
ねえ……お兄ちゃんは強い人なんでしょう……お姉ちゃんを助けてあげてよ……」
霊体が霞み、徐々に分解されようとしている。
横島の除霊スタイルは成仏とは程遠いが、今目の前で少年が成仏しようとしているのは理解できた。
だが、いったいこの少年は何を伝えようとしているのか。
「待てって! いったい何の話をしているんだ!?
『お姉ちゃん』って誰のことだよ!」
おキヌを起こしてしまうかもしれなかったが、思わず横島は声を上げていた。
霊感は鋭い方ではなかったが、何か嫌なモノが――不吉な虫の報せのようなモノが――ふつふつと胸中に湧き上がっていた。
まさかと思っておキヌに目を向けるが、少年は首を振って否定した。
「違うよ……そのお姉ちゃんじゃないよ……
もう一人……お兄ちゃんの大事なお姉ちゃんがいるんでしょう……?」
嫌なモノは胸を締め付け、横島の頬を汗が伝う。
鼓動は早鐘を打ち、喉は渇き、さらに息苦しさは増していく。
「怖い人は言ってたよ……やられた仕返しをするんだって……
チカラを失くした今なら……思う存分ひどい事が出来るって……」
その瞬間、時が止まった。
横島の顔から血の気は失せ、見開かれた瞳も焦点が定まっていない。
わかっていた。
今まで、美神がやってきた非合法紛いの所業を考えれば、何時かこういう事が起こるのはわかっていた。
そして、力をなくした美神に、それを防ぐ術が無いであろう事も。
相手が人間ならまだ何とかなるかもしれない。
だが、もしも相手がそれ以外の存在なら――――
「どこだ……! 相手は誰だ……!
おい、まだ消えるな! 俺の質問に答えてから――――!」
搾り出された横島の言葉だったが、既に少年の霊はその場から消えてしまっていた。
「……んー、横島さん……?」
さすがにあれだけ声を荒げれば、誰だって目が覚めるだろう。
寝惚け眼で見上げるおキヌの肩を、横島が激しく揺さぶった。
「おキヌちゃん、美神さんは今どこにいるんだ!?
美神さんが狙われてるんだ! 早く助けに行かないと!」
揺さぶられ、頭も徐々に覚醒してきたようだが、まだおキヌはきょとんとした顔で首を傾げていた。
今にも立ち上がって駆け出しそうな横島とは裏腹に、拗ねたように口を尖らせる。
「横島さん、美神さんは強いんですよ。いっつも私を守ってくれてるんですから。
どんな悪い人が来たって、美神さんならへっちゃらなんです。」
もう、横島さんはわかってないんだからー、などと胸を張っている。
何の心配も無いとばかりに美神を自慢しているが、横島がそれに同意できる訳もなかった。
要領を得ないおキヌの仕草に、思わず怒りの声を上げてしまいそうになったが、寸でのところで思いとどまった。
何故なら、不安にも似た直感が脳裏をよぎったからだ。
――――もしかして、おキヌちゃんは美神さんが霊能力を失ったのを理解していないのか?
いったい、おキヌの記憶はどういう状態なのか。
自分との些細な思い出は残っているようだが、果たしてそれ以外の事はどの程度まで覚えてくれているのだろうか。
四年前、自分が姿を消す間際の、あの数日間の出来事も覚えているのだろうか。
皆の前で、事務所は解散すると美神が告げたあの日の事も覚えているのだろうか。
そんな疑惑が津波のように押し寄せ、言葉を失ってしまった。
今こうして目の前で笑顔を浮かべる彼女が、どれほど不安定な存在なのか気付かされてしまった。
「ほら、私達が助けに行ったりなんかしたら、『私を誰だと思ってるのよ!』って怒られちゃうかもしれませんよ?」
全然似ていなかったが、精一杯美神の口調を真似て、横島に微笑みかける。
きっと、おキヌにとってはこれが自然体なのだろう。
だが、事情を知る横島にとっては、その姿はあまりに痛々しくて。
「えへへ、あんまり似てないですよね――――って、え、横島さん?」
照れ笑いを浮かべて恥ずかしそうにしていたが、いきなり力強く両腕で抱きしめられた。
不意の抱擁に困惑で身をよじるが、すぐに力を抜いてその身を委ねる。
――――あれれ? 良くわからないけど、横島さんに抱きしめられちゃったー。
にへらと頬を緩ませるおキヌからは見えなかったが、横島の頬には一筋の光が走っていた。